東大出身、ハーバードMBA取得と、華々しい経歴の藻谷ゆかりさん。いち早くオンラインショップの成長性に着目しインドの茶園からの直送の紅茶を販売する紅茶通販専門店 いい紅茶ドットコムを立ち上げ、また千葉から長野へ移住し地元の教育委員として活躍するなどど、その新しいライフスタイルには、学ぶところがたくさんあります。キャリア、インド、そして教育。さまざまな角度から藻谷さんの魅力に迫ってみました。
■東大から就職、そしてハーバードのMBA取得へ
― 東大の経済学部を選んだきっかけというのは、何かあるんですか。
藻谷ゆかりさん(以下 藻谷さん):そうですね、私の高校時代というのは切迫感があって、大学を出ても女子は就職が無いというふうに言われてた頃です。きっと先が見えていない頃で、皆さん就職はしていたけれども、適当にどこかに入ってとかいう感じじゃなかったですよね。その中で、私は文系だったんですけれども、弁護士になるということではなかったし、そちらの方面はあまり興味がなかったのと、でも文学部に行っては、とても食べてはいけないなというような切迫感があって、自分がどうしても文学をやりたい、法学をやりたいというのがなかったので、ちょっとこう比較をして、経済だったら食べていけるんじゃないかなぐらいな感じですね。今、思い出しても高校時代、結構、切迫感はあったのかなと思います。
― 女子の高校でいらっしゃいますよね。
藻谷さん:ええ、はい。
― じゃあ、その女子高全体的に、そういうムードがあったということ。
藻谷さん:今みたいに職業教育をやらなくても、何となく学校の全体の雰囲気が「学びが職業に直結する」という雰囲気がありましたね。何らかの職業を持って働きながら家庭を持とうというのは先生方もそうでしたし、それが当然みたいな感じでした。
― で、見事、東大に入られて、私なんかからすると、東大って凄いな、もう、本当にもう別世界だなという気がするんですけれども。その四年間、いかがでした?
藻谷さん:急に女子校から男子校(笑)。今は2~3割まで増えたそうですけれども、その当時、女子学生は1割未満で、特に経済学部とか法学部関係のところはもう本当にクラスに3人しか女子がいないというような状態で、でも、相変わらず、やっぱり危機感はありましたね。男性でさえ東大出たって、世の中渡っていくのは大変だみたいな危機感がすごくありましたよ。就職のときは何とか女子でも同待遇で取ってくれるところというのを希望する気持ちっていうのは強かったですね。
1982年 18歳 東大 経済学部入学
1986年 22歳 日興証券入社
1989年 25歳 ハーバード大学ビジネススクール入学
1991年 27歳 結婚・帰国
1992年 28歳 長男出産
1993年 29歳 長女出産
1994年 30歳 モトローラに転職
1995年 31歳 GMに転職
1997年 33歳 ダ・ヴィンチ設立
1999年 35歳 次男出産
2002年 38歳 長野に移住
― じゃあ、もう研究者になるというよりは、就職したいというお気持ちが強かったんですね。
藻谷さん:ええ、就職のことはずっと思ってましたね。
― まず、日興證券というのは、選ばれたというのは、どういうきっかけだったんですか。
藻谷さん:私が入社したのは1986年の4月1日なので均等法が施行された日なんですよね。ということは、就職試験が行われたのは施行前なんですよ。ただ、一応、施行が見込まれていて、その3年前ぐらいから日興證券は総合職を取っていたんです。先輩も何人も入社していたのも理由として大きかったと思います。
― 最初、どういう分野に配属になったんですか。
藻谷さん:最初は企業情報部というところで、M&Aを扱っていました。ただ、その当時はM&A自体がそれほど今ほど活発ではないので、まあ、資料をまとめたりが中心でしたね。
― ハーバードのビジネススクールのほうに留学なさったのは会社からですか?
藻谷さん:そうなんです。M&Aの分野ではどうしてもアメリカ流のファイナンスの知識が必要なので、ぜひ取ってらっしゃいということと、その時の部長さんがご自身も留学されたご経験をお持ちで。もちろん男性の部長さんでしたけど、そういう留学経験がある上司についたというのは大きかったですね。
― でも、他にも男性の社員がたくさんいる中で、藻谷さんを選んだというのはすごいことですよね。
藻谷さん:まず上司も「自分も留学したから君も留学したら」ぐらいの感じで推薦をしていただいて、あとは人事部が選ぶんですよね。
― 人事部もすばらしいですね。
藻谷さん:たまたまチャンスがあったというだけで。
― ハーバードのほうではいかがでした?
藻谷さん:私も別に帰国子女とかではないので最初は自分の意見を言うのが大変でした。特にハーバードビジネススクールの場合は、今日の教材というのを読んで、理解することももちろん大事ですけれども、それに対して自分がどういうふうにどこのところで何を言うかなんていうのを前日に全部予習するんです。自分が当らなかったりもするし、発言できなかったら成績がグンと下がっちゃうので「ああダメだったか」みたいな(笑)。野球でいうとヒットが打てない打者って苦しいじゃないですか、あれと似ていることですよね。たまに発言した内容が先生が導こうと思っていた結論のほうに近かったりすると野球で言えばホームランみたいなことが、ごくたまにはあったりはしますけれども。帰国子女だったら少なくとも英語の面で不自由はないと思うんですけれども、そうでない私にとっては、まあ、かなり厳しいところでしたね。
― 二年間で、今、思い起こしてみて何を一番もたらしてくれたと思いますか?
藻谷さん:自分の力でロジックを組み立てて実践すること、これに尽きますね。例えば税法を教えてくれたとしますよね。先生自体がおっしゃっていたんですけれども、「今教えたのは当然アメリカのTAXです。あなたたちがプエルトリコへ行ったらプエロトリコのTAXがあります。中国へ行ったら中国のTAXがあります。日本へ行ったら日本の税法があります。だから、今、TAXを学ぶのだけれども、それぞれの国へ行ったら違うまた税体系があるから、その学ぶ力を身につけてください」と。ハーバードの場合はケーススタディーなんですけれども、ケースでこういうことを勉強しました、こういうことをしたことがありますといういう知識だけじゃなくて、必ず自分の頭で一回でも考えてみて、自分なりにオプションを5つなり考えるとか、その中で実行可能なものはどれかとか、ちょっとくだらないようだけれども紙と鉛筆を持ってちゃんとやってみて、それに対して数字的なバックアップをちゃんと自分で持っておくとか、そういう毎日のケーススタディーを通してのエクササイズといいますか、そういうことが一番大きいと思うんですよね。ですから、私も、ハーバードにいるときは、必ず紙と鉛筆を持っていました。まだパソコンもそれほど普及していない時代でしたし。一応、試験答案とかレポートとかはパソコンで打って提出しているような時代になってはいましたけれども、かといって教材がPDFでくるとか、そういうことではないですし。
ハーバードで何か特定の知識とか、何かのテクニックを教えてもらったわけではない。私自身も縁があって、1997年に紅茶の会社を設立して、じゃあどうやって売ろうかと思ったときに、じゃあインターネットでやってみようという新しい挑戦ができるという素地といいますか、そういう気持ちですよね、やってみようという。そういうことが一番ハーバードで学んだことだと思うんですよね。新しい局面に向かっていく柔軟な気持ちと、それを組み立てていく論理性。学ぶ力そのものを得た気がします。
― 藻谷さんのその後のキャリアなどに大きな意味を持ったというMBAですが、今、主婦というかワーキングマザーでも、ワーキングウーマンでも、MBAを取ろうとしている人すごく多いですし、実際に挑戦をされている方もたくさんいらっしゃいますよね。そういう方々、これからちょっと挑戦してみたいなという方々に何かメッセージみたいなものはありますか?
藻谷さん:資格というのは形にすることじゃないですか。機が熟したなら、挑戦することです。時期もそうだし、お金もそうですし、自分の体力、気力や何かもそうです。MBAを取りたいと思えば、日本国内であろうと海外であろうと、挑戦すべきだと思うんですよね。私は証券会社に勤めて、二人の子どもを産んでから外資系に転職しました。ファイナンスじゃなくて経理のほうをやりたいと思ったものですから。モトローラとGMに2度転職しました。モトローラなりGMが採ってくれたのもMBAを持っていたからなんですよね。一定の訓練を受けた人でしょうということで。MBAは修士で学位は学位なんですけど、何か学術的な功績ということに対して与えられたものではなくて、一定のトレーニングが済みましたということですから、その証明として取れるときに取っておいたほうがいいと思いますね。
― できれば早いうちにということですね。
藻谷さん:いつでもいいんです。機が熟すのは、人によっては30歳かもしれませんし。それはいつでもいいんですけれども、自分が取っておいたほうがいいなと思ったら、やっぱりそれは取っておくべきだと思うんですね。
― MBA取得後、91年に帰国されたのと同時期にご結婚?
藻谷さん:ええそうです、はい。
― 何か出会いは?
藻谷さん:ハーバードの一年先輩だったんです。ですから、卒業してから二日後に、そのチャーチで結婚をして。
― わー。えー。(聞き手、異常に盛り上がる)
藻谷さん:卒業してすぐ結婚をするんだって言ったら、クラスメートのアメリカ人男性が、「じゃあユカリは二つディグリー(学位)を取ったんだね、MBAとMRSだね」って言って。
― MRS?
藻谷さん:あのう、ミセス。(少々照れて)
― 面白いですねー。
藻谷さん:まあ、ちゃっかりしてるねって言いたかったのかもしれないんですけど。今もそうですけれどもジューンブライドってあるじゃないですか。学校が終わってすぐに結婚する人がいいっていうのがあるんです。で、実際6月に結婚する人が多いんですよ。一区切りついたっていうことなんです。日本で言えば3月に結婚が多いのと同じ理由なんですよね。
― そうですか、すばらしいですね。で、戻っていらして、それでお子様が二人生まれて。
藻谷さん:ええ、はい。92年と93年に。
― いいですね。92年は男の子、93年はお嬢様ということですよね。そうですか。で、日興證券のように金融で総合職でお子様を育てながらというので、何かご苦労とかありました?
藻谷さん:時間に関しては、もう本当大変でした。朝、走っていって。で、またお迎えのために帰ってくるという感じで。その頃、夫は外資系の金融機関に勤めていたんですけど、朝が比較的ゆるかったので、夫が朝、子どもたちを送って行くんですね。私はとにかく早く出社して、夕方のお迎えは私がするという形で分担していたんですけど、今考えても年子で子どもを産んでフルタイムっていうのは、若いからできたんだなと思います。
― まあ、そうですよね。保育園の先生ぐらい怖いものはなかったですよ、私も勤めていた頃は。何て言うのか、お迎え時間の遅刻寸前のときに駆け込んで行って、仁王立ちになっている保育園の先生、もう上司よりも何よりも恐かった(笑)。そういう中で日本の社会、もうちょっとこうなったらいいのになっていうような思いとかありました?
藻谷さん:勤務先で自分の希望の職種体系とか働き方というのは追求をとことんまではできないと思うんですよね。もうそれはわがままの世界だと思うんですよ。それを我慢して続けるか。それともやめるか。
私の場合は、もう会社に期待するのはやめて、自分で会社を作ってやりましょうということを選んだんですね。
― それはすごく難しいところですね。あくまでも会社に譲歩してもらうというか、会社のシステムに変化してもらうことを望む人もいるし、そのために一生懸命力を尽くす人もいますよね。
藻谷さん:それをやられた方々の努力が今につながっているとは思いますし、敬意をひょうします。、均等法にしたって1日で出来たわけでは無いですから。でも、待った無しじゃないですか。小さい子がいて、自分もクタクタの時に、それでも起業という道を選んだんですけれども、起業という道を選んだこっちもイバラの道ですよね。自分で責任を負わないといけないし、収支も合わせないといけない。
― 起業の前に日興證券と、そのあと外資系を二社ご経験をされていて、その中で、外資系の方が働きやすいなとか、いや、あまり変わらないよとか、何かそういう印象っていかがでした?
藻谷さん:外資系のほうが働きやすいことは、もちろんそうですね。全体的に、こう、余計なことでは縛らないっていう感じで。ただ、外資系の場合はもう仕事量が多すぎて。もう終わりようがない仕事というのか。それと、やっぱり締め切りなんかも厳しいですし、それに対する人数も最低限ですよね。自分以外の代わりがいないという感じで。もう少し日本企業のほうが、今はちょっと違うかもしれないですけれども、その当時(90年代初め)はですね、十分な人材がいたというのか、そういう気はします。
― そうですね、なんか、この間、メリルリンチの小林社長のお話をお聞きしたんですけれども、私のような、などと謙遜しておっしゃっていましたけれども、「私のような人間が社長になったのも、もうとにかく人がいなくて。これは低い立場の人間だからやらないとか、やるとか、そんな問題全然なく、誰でも彼でも、何でもかんでもやらなきゃいけなかったから、結果的に、その結果で私はここに今いる」みたいな、おっしゃり方をした。「もう、本当に外資は人がいなかったし、且つ、ある時期、いろいろ困難があったじゃないですか、メリルリンチも。その間に、みんな優秀な男の人は辞めて逃げていったと。私は逃げ切れずに残っていたら、こうなった」って。
藻谷さん:どっちもあると思うんですよね。会社がすごい伸びていったから、自分にもチャンスが来たということと、ちょっとゴタゴタがあって、いろいろな人が逃げちゃったから、最後まで残った自分が責任を持ってやらなきゃならないという、どっちのケースもあるとは思うんですけれども、でも日本の企業よりも、そういうゴタゴタって、どっちのほうにいくにしても女性がチャンスを掴みやすいと思いますね。まだ日本の企業のほうが組織が堅いというか、しっかりしているというか。
― 日本の企業でいえば、女性の場合は外から女性を採用するのは上手いんだけれども、中の女性を育てるのがとても下手だなと思うのですけど。
藻谷さん:ええ、まだ、そうですね。
― 何か、すごくその辺がもったいないと思いますよね。いろいろな企業さんの執行役員とか、いろいろ拝見しても、女性でなっている方の経歴を見ると割と外から連れてきている。
藻谷さん:ああ、そうですね。官僚のかただったり。
― たぶん中にも、いくらでもその執行役員クラスになれる女性はいるんだけれども、なかなかそれを育てられないのか、発掘できないのか。ちょっと気の毒だなという気がするんですよね。
藻谷さん:そういう部分はありますね。
― 少しずつでも男性経営陣の意識も改革していただければいいかなと思うんですけれどもね。
藻谷さん:それこそ昔はセクハラとかの概念もなかったのが、少しずつ女性にとっても働きやすい環境への理解もできてきた。何れにしろ、均等法だって、1日でなったわけじゃないので、先駆的な女性の方々の努力という流れがあって、現在の女性たちの環境があるのかなと思いますね。
■そして、起業へ。歯車にならないというビジネスモデルを保って
― 1997年、とうとう起業ということで、最も大きなきっかけというのは何ですか?
藻谷さん:GMという巨大組織にいたからだと思うんですけれども、とにかく意思決定が遅いというか、無いんですね。GMジャパンから何か提案してもアジア本部に行って、国際本部に行って、最後にGMの本社に行くっていうディシジョンメイキングだったんですね。何ヶ月も経って、戻ってきたときには全く違った結論になる、っていうより戻ってこなかったですね(苦笑)。
― ブラックホールのような感じですね。
藻谷さん:そうですね、巨大組織だからでしょうか。自分がビジネスで良かれと思うことを実践したいじゃないですか。当たり前ですけれども、少しでも良かれと思うことを。何も手応えがないというのか、組織が巨大すぎることの弊害を痛感しました。個人的には、もうちょっと子どもたちの側にいれるような仕事をしたいとも思いました。でも、実際には、起業したら12月31日まで働かなければいけないような環境になっちゃいましたけど。
― そうそう、私もそうだったんですけれども、小学校に入るというきっかけに起業したんです。もうちょっと子どもの世話をしようと思って。でも、とんでもないですよね、特に起業1年目とかね。
藻谷さん:フレキシブルではあるんですけれども、でも、“これは絶対”っていうときには踏ん張らなければいけないですし。
― そうですよね。だから、授業参観とかも行けなかったりして、ずいぶん子どもに恨まれました。親にも「言ってたことと違うじゃない」って言われたり。
さて、紅茶というものを選ばれたきっかけというのは?
藻谷さん:インド人の友だちが、起業の2年ぐらい前に来て、私に紅茶をくれたんですよ、それがダージリン紅茶だったんですけれども、本当に緑の葉の紅茶で、「あれ?ダージリン紅茶って緑色だったの?」ってびっくりしたんです。普通のイギリスからの缶の紅茶は真っ黒焦げの紅茶ですよね。でもそれを飲んでみたら、ほとんど日本の緑茶に近いような新鮮な香りがあったんですね。
でも、売られている紅茶って、やっぱり真っ黒じゃないですか。おかしいな?ととずっと引っかかっていたんです。自分が何か起業をしようと思ったときに、あの紅茶にしようと。調べてみると、その当時、あまりネットとかもないこともあったんですけど、そういう新鮮な緑のダージリン紅茶を扱うお店が一部あったんですけれども、とても高かったんですよ。じゃあ自分はこの紅茶を安く売ればお客様に喜んでいただけるだろうなと思って始めたのが紅茶のビジネスなんです。
― そのインド人の友だちというのはどちらで知り合ったのですか?
藻谷さん:ハーバードの時の学友なんです。
― じゃあ、やっぱりハーバードが大きな果実を。
藻谷さん:そうですね。
― 私もほんの短期のサマースクール留学したことがあるんですけれども、韓国人とかバングラディッシュ人とか、やっぱりアジア系でかたまりますよね。
藻谷さん:そうですよね。馴染みというか。
― 小売を選ばれたっていうのは、すごく意外なんですけれども。
藻谷さん:起業したのが1997年で、それからネットが、これからはネットの時代だっていう認識があったので、全国の方に売ろうというような意欲がありましたね。
― ダ・ヴィンチという社名をつけた思いは?
藻谷さん:実は紅茶を始める前から会社名をつけて、とにかく会社を作らなきゃいけなといって、何をするかわからないんだけども、何でもできるようにしようと思って、いろいろなことの天才と言われているレオナルド・ダ・ヴィンチからつけたんです。それから、ゆっくり考えて、じゃあ紅茶にしようと。
― 面白いですね。
藻谷さん:オフィスを借りたりしなきゃいけないじゃないですか。だから、何をするかって決まる前に幕張にあったベンチャービジネスセンターっていうところに、もう、ここにするんだということを決めてて、そのためには名刺は必要だし、会社も設立していなければいけないしって、何か、そっちのほうが先で、形から入ったというか。最後に紅茶をやるということを決めたものですから。
普通の人は好きなことを仕事にするのか、仕事を好きになるのかというと、私は仕事が先なんですよ。住宅ローンもありましたし。とにかく仕事をしなければならない。
何か好きな事を仕事にするというよりは、とにかく会社を辞めたんだから、働かなくちゃ、じゃあ会社を作りましょう、オフィスを借りましょうというのがあって、次に会社も登記しましょうとかいうのがあって、じゃあ、どういう仕事をしましょうという感じで。もちろん、紅茶というのが嫌いだったらとてもできませんけれども。まあ、こういうこともあるということはね、とにかく稼がなければいけないわけですから。
― ダイナミックですね。このあたりが藻谷さんらしさですね。
藻谷さん:そうかもしれないですね。紅茶好きが極まって紅茶を扱っていると、どんな紅茶も好きっていうことになっちゃうじゃないですか。ところが、私の場合は、この紅茶を届けたいというのが先なんですよ。そんな緑の紅茶がこの世にあっても、まだ知らないかたも多いでしょうし。
それから、ミルクティー用のアッサムの紅茶などは、本当に、ああ、こんなに濃いかなっていうぐらい濃いんですよね。そうすると、濃いのを知らないという感じになって。ただ、紅茶好きが嵩じてっていうと、この紅茶もいいですね、あの紅茶もいいですねっていうか、こう、幅が広くなっちゃうんですけれども、私の場合は逆に、「あ、これこそ紅茶だよね」みたいな、すごい狭いんですけれども、でも、その代わり、そういうスタンスを信頼して買って下さるかたもいるんですよ。
だから、よく言うんですけれども、お客様に紅茶を選んでいただくために、200種類とか用意して、お客さんが選ぶような紅茶屋さんじゃなくて、店が選んだ紅茶を買っていただく紅茶屋ですっていうのがコンセプトなんですね。その代わりハズレを出さない。ハズレを出したらお客様に迷惑なのもそうなんですが、うちの場合には輸入元ですから、ダージリンのワンロットっていうんですけれども、一つ買い付けたら、それは100キロとか125キロなんですよ。だから、ハズレたら、こっちが困るんですよね。これが大きいある程度の規模の紅茶の輸入になると、10種類ぐらい買い付けることになると、まあ、これも良さそう、あれも良さそうでOKじゃないですか。ああ、これも良かったねみたいな、お客様にもある程度の水準でっていうのがありますけれども、私の場合には数種類しか選べないので。もう選び抜いたものしか扱えないんですよ。リスクは自分が一番大きいんですね。ここで選ばれたのなら、もう、テイスティングとかしなくても、もうOKだってご理解いただいたお客様は最初から100グラムを三つとか、もう500グラムとか、そういうふうに買って下さるので。他の紅茶屋さんとは、そこがかなり違うかなと思いますね。ですから、紅茶のビジネスでも、どのビジネスでもそうなんですけれども、フランチャイズみたいに大きく広がるビジネスと、うちみたいにブティックみたいな感じで、特定の方しかひきつけないかもしれないけど、自分のとんがりを維持できる、それで存在意義があって、あまりアップダウンがないというビジネスのやり方もありますので。そういうブティックタイプで大きくなれば一番ではあるんですけど、欲張ってしまうと資本力の問題になってしまいますよね。
― じゃあ、ここで。そのおいしい紅茶をいただきます。
美味しい。ワーキングマザースタイルのオフでいただいたサンプルも、すごく美味しかったです。大好評でしたよね。
藻谷さん:何人かの方が、ご注文いただいております。
― やっぱり女性に飲んでもらいたいですよね。
藻谷さん:そうですね。でもね、結構ね、男性の方も買われますよ。
― そうですか。
藻谷さん:紅茶っていうと女性ビジネスかと思うんですけれども、意外に男性の方でも、リピーターになって大量購入してくださいますね。
― 意外ですね。こだわるのかな。1997年からだと、もう10年以上ですね。どうですか、ビジネスの調子は。
藻谷さん:固定のお客様に救われている、支えられているという感じですね。ただ、ご存じのように1997年から仕事をしていても、いろいろなネットの状態がすごく変わるので、たとえて言えば、ある商店街がすごく流行っていたんだけれども、ショッピングモールがあっち側にできていて、全く流れが変わっちゃってっていうことも、この11年間、あったじゃないですか。初期の頃に活躍していたお店も、もう、お店自体をやらなくなっちゃったりとか。動きは急ですよね。
― そんな中、11年続くというのは、すごいことだと思いますよ。
藻谷さん:結局、最初に設定した軸がぶれなかった。もしかして紅茶がすごい好きだからっていって始めた人は、たくさんの紅茶を扱わなければいけなくて、こう、資本力の大きいところに負けてしまうけれども、うちは、もう、不遜に聞こえるかもしれませんけれども、選んだ紅茶を買っていただくビジネスモデルで、それを貫くことができたので、その意味ではありがたかったと思います。
― 今、会社自体は何人で?
藻谷さん:1人です。アルバイトの人が3人。
― 私も1人会社なので、どうして1人会社になさっているか、すごくよくわかります。でも、一応、説明してください。
藻谷さん:フランチャイズでキャッチオールで大きくやるビジネスと、小さくやっていくビジネス、これがライフスタイルの違いだと思うんですよね。大きくやるビジネスになってしまうと資本力勝負になってしまいますし、資本力勝負になると自分のために働くのじゃなくて、株主のために働く、これをはっきりと意識しなければいけないと思うんですけれども、私は自分のために働いているので、こういうスタイルでやるということですね。あと、もう一つ、うちの夫もMBAなんですけれども、彼の会社もパートナーと二人なんですよ。ストラテジストとエコノミストであるうちの夫と二人でアシスタントの人という形で。じゃあ、そういう独立系リサーチだから、一応フルラインにすることも可能は可能かもしれないけれどもリスクも大きいこともあるし、そういうのが自分たちのライフスタイルではないということですね。やっぱり働き方というのがライフスタイルと両輪のように合うはずなので、自分としてはどっちを選択するのかというのをよく見極めないとダメだと思いますね。
― いやあ、本当にそうですよね。何て言うのか、歯車というか、そういう競争の中に身を投じてしまうとキリが無いじゃないですか。どこかで自分のライフスタイルって確立しなければいけないと、すごく思うんですね。そういう意味で藻谷さんの生き方を見ていると、本当の賢さがあるなと思うんですよね。
藻谷さん:この会社を設立して11年間の中で、まあいろいろなことが事業としてありましたけれども、個人的に大きなことが二つあって、一つは会社を設立して二年目に3人目の子どもを妊娠しまして、どうしようかと思いましたよね。会社始めたばっかりなのに、どうしようかと思って。でも、3人目はどうしても欲しかったし、そういうことも可能なようにわざわざ独立したんじゃないかと思いなおして、もうどうにでもなれやとやってみたら、一応、一番大変な時期は乗り越えられて、何よりも3人目の子どもは非常に健康だったものですから、全然保育園は休まない。男の子なのに熱が出ないんですよ。1人目はよく熱を出して、行った日数より行かなかった日数のほうが多いですね、保育園。誰かが家で看てなければいけない状態だったんですけれども、とにかく熱の出ない男の子で、その当時、浦安市は57日目保育というのを始めたばかりで、要するに、復帰8週間から、復帰したときから預かれるというのを導入した時期だったんですね。それに乗っかって3番目は57日目から保育園のほうに預かってもらって。
― 次男さんは親孝行ですね。もうひとつは長野への引越しということですね。
■長野での生活。そしてこれから
― この長野に引っ越しなさったのはどういうきっかけですか?
藻谷さん:今、高校2年生の男の子が、中学になってから行って合わなかったというようになったら困るので、できるだけ一番上が小学生のうちに長野に移るなら移ろうということで、ギリギリ5年生の4月に来たんです。
皆さん、表面的には、ある通販オフィスを千葉から長野に移したからって大きな違いはない、通販だからやれるでしょうとは思われるかもしれないですけれども、会社の設立手続から宅急便の契約、スタッフを集めることから、ちょっとした仕入まで、全部やり直し。もちろん継続したものはあるんですけれども、全て、こっち側で新たにやり直さなければならないじゃないですか。それは結構大変でしたね。第二の創業でしたけれども。
― お引越しなさったのは、いつですか?
藻谷さん:1997年に創業をして、2002年の4月でしたね、引っ越しは。起業から11年過ぎましたから、千葉で5年、長野で6年、こっちの期間のほうが既に長くなっているんです。
― それは、いわゆるフランチャイズ的に拡大志向ではないからできたということですよね。
藻谷さん:そうですね。ええ。既にこっち側に来た段階で、もう、かなりのエネルギーを使っていましたのでね。私が起業する前に、GMのある方が何気なくおっしゃったんですけれども、起業するというのはロケットを打ち上げるのと同じで、打ち上げるときにエネルギーの8割から9割を使っちゃって、軌道に乗って回りだしちゃったら残りのエネルギーは、もうごくわずかしか使わないって。本当にその通りで、起業して形を作るまでに8割から9割もエネルギーを使っちゃって、あとは一旦軌道に乗れば、その軌道をなるべく維持すればよかったので、やっぱり最初の5年間のほうが思い出深いというか、いろいろあったような気がするんですけれども、長野に来てからは、穏やかな生活のせいもありますけれども、会社としては軌道に乗って仕事をやっているように思いますね。
― お子さんとか、変化があったのではないかと思いますが、どういうふうに変化がありましたか?
藻谷さん:そうですね、長男(当時小5)は、こっちのほうの生活がすぐに好きになって、こっちのほうに来て良かったとか言っていたんですけれども、逆に対応力があると思っていた長女(当時小3)のほうが、長野に定住するのが信じられなかったとか言って、にわかには受け入れ難かったみたいなんですね。でも、また数年すると、彼女はもう「私はここから、もうどこにも出て行きたくないから」とか、たまに東京に行くと「もう帰りたい」とか、すっかりこっちの子にはなるんですけれども。
その、子どもを連れてきた段階での年にとって、環境の変化って、受け止め方が違うみたいですね。一番下は3歳のときに来たんですけれども、こっちは保育園が小さくて、赤ちゃんから一まとめになっているんですよ。0歳児クラスが無くて、1、2、3歳が1クラスで暮らしているんです。そうすると、ウチの三番目の子はすぐに4歳になったので一番年長。「友だちはみんな赤ちゃん」とか言って、ブーブー文句言ってて(笑)。でも、彼もすぐこちらの生活に慣れて、向こうのことは、もうあの年代だと覚えていないみたいですね、浦安で過ごしたこととか。
― 子どもを長野で育てたかった一番の理由は何なんですか?
藻谷さん:受験や何かのときに、こう、何ていうのかな、その子の評価に決まっちゃうっていうか、私も首都圏で暮らしていたからすごくわかるんですけれども、制服を着て、東横線なり地下鉄に乗っていても、もう世間の見る目が決まってきちゃうじゃないですか。そういうのって、何か、嫌だなって思って。別に、普通に公立の中学に行って、普通に県立の高校に行けばいいじゃないかって思うのが私なんですね。で、のびのび育てたいという根本方針と、大学は本人の希望でどこに行ってもいいから、高校までは親子が密接に暮らしたいというのか、そういうのが希望としてありまして。
― 何か、すごく他人からの評価に窮々としているところが、やっぱり自分も含めてありますよね。
長野のこの生活っていかがですか?いかがですかって言っている前に、私がもうすっかり、もう、何か、もううらやましくてたまらないんですけれども。
藻谷さん:でも、確かに、コンビニまでも遠いし、来た当時はコンビニも無かったんですね。小学校、中学校までは4キロあるし、大変ですけど、まあ、子供は慣れますよね。
― 小学校、中学校までは歩いてらしたんですか?
藻谷さん:歩いてたんですけれども。浦安では歩いて5分ぐらいのところに住んでいましたから、4キロ歩くというと、本当にくたくたになって帰ってきたり。
― 体力が付きますね。
藻谷さん:4キロ子どもが朝歩くと、途中でお手洗いに行きたくなるんですよ。そういう時にどうするか。まだ家とかが無いところだったら、ちょっと、草むらのほうに入ってするとか、もし、集落のほうに入っていたら、近くに通りかかったお婆さんに「すみません」って言ってトイレを貸してもらうだとか、いろいろなことが4キロの中に起こるんですね。そういういろいろな体験というのか、困ったときに「すみません」とか、そういうことが言えるようにならないと、人間として完成してこないと思うんです。海外旅行に行って困るとか、ね。日常的に経験がしてあったら、いままでの経験を新しい土地でやればいいだけですから。
― 藻谷さんも、ご主人さんも、都会生まれですよね。
藻谷さん:ええ。私は横浜市で育って、うちの夫は山口県の徳山市という工業都市であったんですけれども、都市部のサラリーマンなんですね。うちの夫も基本は公立の中学校から県立の高校で、大学行くのは自分の好きなところに行きなさいということなので、あまり、中学受験とかに「目に炎」みたいな感じになりたくないって言っていたものですから、高校の選択の余地が少ない長野県に来るということには積極的でしたね。
― 藻谷さんご自身の人生とは全く逆ですよね。
藻谷さん:そうですよね。ええ。
― それは、何ていうのか、アンチテーゼでしょうか。
藻谷さん:一つは、東大に行ったときに、確かに有名私立、有名国立の子もいるんだけれども、大多数は全国から集まった県立高校の人がクラスを構成しているんですよね。だって、開成は1人とか、そんなもんじゃないですか。まあ、各クラスに1クラスに二人はいるような学校もありましたけれども、でも県立高校でも入れるんだと思って。その実感というのと、もう一つは、東大の大学院に行って、それで東大の先生になるような人は県立高校出身の人が多いんですよ。
もちろん例外もありますけれども、有名私立、国立とかの人っていうのは、ドリルが上手い、一定のところまで一定のことをやりなさいっていうようなことは、基礎的な訓練としてできているんだけれども、例えば、東大の大学院に残る、そして、大学の教授になるというと、例えば県立高校で1人だけで勉強ほうが、本当の学力があると思うんですよね。全員が全員、県立高校の人だってわけじゃないんですけれども、意外にじゃあ有名私立の高校に行ったからって、東大は入れるけれども、じゃあ、そのあと、学術的な方面に進むというのは全く別だと思うんですよね。でも、逆に、そういう受験勉強が上手にできた子というのは官僚になったり弁護士になったりとか、何かの試験をクリアするほうはできるんですけれども、クリエイティヴィティーを要求されるところというのは意外に県立高校出身者が多いんです。
― ああ、そうですか。じゃあ、そういう同級生を見て、子どもの育て方について、ちょっと思うところがあったということでしょうか。
藻谷さん:そうですね、可能性を広げておきたいですね。自分自身が受験を知らない人は、受験するには絶対にこういうところに入らなければダメなんだとか、そういうふうに、こう、決めつけがあるじゃないですか。でも、経験者として、いろいろなルートがあるんだけれども、意外と伸びるのはこういう人よ、という思いも正直ある。このあたりは、やっぱり子どもの教育に生かしたいなと。
― 東大、ハーバードと、世界でも最高レベルの教育環境に身を置いた藻谷さんの言葉には重みがありますね。ところで、最近では、地元の自治体の教育委員も拝命なさったということですよね。
藻谷さん:これはちょっと意外なお仕事だったのですが、興味深いし自分の経験も生かせると思うので、ぜひ貢献したいですね。アメリカの教育を経験したことも大きいと思いますね。例えばハーバードは一年間の学費が400万円必要なんです。日本の場合は、東大などの国公立に行くのが一番安い。ここは日本は胸を張っていいと思うんです。だからアメリカ化することがいいこととはもちろん思わないし、私なりに日本の公教育をさらにいいものにしていくお手伝いができればと思っています。
ちょっと思うのは、若いお母さん方の意識の変化。サービス享受者としての権利意識がちょっと強すぎるのではないかと不安を覚えますね。
― インドはいかがですか?
藻谷さん:もちろん貧富の差はすごいのですけど、貧しい人も気持が安定していますね。金持ちにはたくさんの人を雇う義務があり、貧しい人の暮らしを支える使命があるんです。カーストは正しい制度とは思いませんが。
― 今後の夢は?
藻谷さん:今まではSOHO (Small office Home office)だったのですが、将来的には土地を探して事務所を作りたいですね。それからやっぱり今の紅茶の仕事を続けていきたいです。
「商は笑なり」という言葉が好きです。商品を介在して、買い手と売り手が笑い合っているということです。売り手が「いつも買ってくださってありがとうございます」と言えば、お客様が「こんなにいいものを売ってくれてありがとう」とご満足いただく、そんな商売のあり方をこれからも続けていきたいです。
●インタビューを終えて
本当に素敵な長野のおうち。お写真で紹介できないのがとても残念です。私から見ると、超エリートご夫婦でいらっしゃる藻谷ご夫妻が選んだライフスタイルは、長野での穏やかな暮らし。穏やかな中にも、Eコマースの激流の真っただ中にも身を置いている、そんな多面的なライフスタイルにすっかり感動してしまいました。紅茶も一度味わうと病みつきになるおいしさなので、ぜひお試しください。(村山らむね)
藻谷さん
ワーキングマザースタイルのパーティーでは紅茶をありがとうございました。紅茶をくださった藻谷さんがこんなにすごいお人だったとは・・・。
インタビューに登場する方々は、いつも自分をきちんと整えて、前を見て歩いていらっしゃる。するとチャンスが自分の方に歩み寄って来るんですね。
藻谷さんの広い視野でいろいろな事を見渡し、そして経験された上で選ばれたお仕事を楽しくなさってる様子は輝いていますね~。ステキなお話をありがとうございました。
ワーキングマザースタイルのパーティーでいただいたアッサムは、しっかり濃く、心まで暖まるおいしさでした!はずれなし、というお言葉に深く納得いたしました。
子どもの教育と自分の仕事をどうしていくか、まさに悩みながら進んでいるので、インタビュー興味深く読みました。私は小学校低学年の頃、山の中で育ちました。背丈より高い雪の中でも遠距離歩いて通学したこと、いつも林で遊んでいた体験が、自分を今でも支えてくれていることを感じます。子どもにもその良さを経験させたいと思いつつ勇気が出ずにいるのですが、藻谷さんのインタビューを読んで、実行するためにもっといろいろ考えられるのではないかと感じました。私も自分の頭で、自分なりの教育と仕事の答えを5つ考えようと思いました!
私もパーティーでいただいた紅茶、感激しながら楽しませていただきました。 あんな素敵な紅茶を販売なさっている藻谷さんのプロフィールを今回拝見してビックリ。でも、どんなライフステージでも、しっかりと自分自身を見つめてこられたから、今日、こんな素敵なお仕事に取り組めていらっしゃるんでしょうね。 何より、長野での生活に憧れます。お子さんの教育の面でもうらやましい限り。 素敵なインタビューをありがとうございました。これからは藻谷さんのライフスタイルを思い浮かべながら、また紅茶を楽しませていただきたいと思います。
私もパーティーでいただいた紅茶、おいしくいただきました。今回の記事を読み、藻谷さんの想いが込められた紅茶の味にあらためて感動しました。
しっかりと現在と将来のビジョンを見つめ、パワフルだけどしなやかに生きていらっしゃる姿は憧れです。つい流されてしまいそうになる私にとって、藻谷さんの生き方はとてもステキに映りました。また、おいしい紅茶を楽しませていただきます。