ワーキングマザーとしてずっと走ってきました。でも娘も大学生。もうマザーとしての役割は終えつつあります。そして、次に私の役割としてはドーターつまり、娘としてのケア。育児から介護に、踏み出そうとしています。
世の中には、ダブルケアといって、育児と介護の双方を受け持ちながら仕事をする人がたくさんいます。
子供を育てるにはお金が必要です。
介護をするにはお金が必要です。
働いてお金を作らなければいけません。
しかし、子育てをする時間を捻出するために仕事をやめざるを得ない、介護をする時間を捻出するために仕事をやめざるを得ない、最もお金が必要になる時期に、働けなくなるという致命的な矛盾がこの社会には往々としてあります。
私はラッキーです。子育てと介護の時期がどうにか重ならなくて済んだ。
それはたまたま子供が一人だったということも大きいでしょう。
育児、介護だけではありません。
家族の闘病、そして、家族がいなくても本人自身の闘病。
ケアをしながらの、仕事。
子供、親、パートナー、そして自分を世話しながら、仕事をやめなくてもすむ世の中。
結婚している、していない
子供がいる、いない
親がいる、いない
関わらず、
家族が健康である、健康でない
自分が健康である、健康でない
関わらず、
ケアを必要とする人を背負うこと、自分自身がケアを必要とすること、
さまざまな未来が私達を待ちます。
どんな未来が舞い込んでも、安心して、ケアをしながらも、仕事をやめなくても良い世の中にできるように。
「ケア・フォー・ケアリングパーソン」
ケアをしているひとへのケア
家族や自分自身にケアを必要としている人たちへの、配慮と手助け
この言葉を知ったのは、丹羽文雄氏の娘で両親の介護に斃れた本田桂子さんの本です。
重いリュックを背負っている人は、背負っている間だけでも、働く時間を短くする、税金を安くする、福祉を手厚くする、たまに、自分自身に戻る時間を作ってあげる、さまざまな、ケアフォケアリングパーソンが考えられます。隣人として、市民として、同僚として、いろいろできることがあるでしょう。
私自身、一つのリュックを下ろして、これからのリュックを本格的に背負う前に、現在の余力をどこかに差し向けたい。その方法を模索しています。
ケアフォーケアリングパーソンという視点を、少しずつみんなが持てば、イクメンも増えるでしょう。闘病もしやすくなるでしょう。超高齢化社会とは、ほぼ社会の全員が、ケアリングパーソンになる社会です。
ケアリングパーソンが、意図せず仕事をやめなくてもすむ世の中。
私が、そのために来年は心血を注げますように。