ワーキングマザースタイル ・幸せな仕事―1主婦の起業物語by大橋ゆり



2007年07月15日

SOHOからHOをとってSOへ 【準備編】


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前回の【動機編】を読む

SOHOからHOをとってSOへ
・・・ということで7月から新オフィスで仕事を開始した。 30分程度の通勤に馴れない部分はちょっとあるものの、まだ気分はフレッシュなのでオフィスに行くのが楽しい。 今のところはやっぱり出て良かったかなと思っている。

「楽ちんな自宅オフィスを出て外のオフィスで仕事しよう!」と6月半ばに思い立って半月程度の準備、いや忙しかったぁ。
でもたまたまこの時期は仕事も少し楽なので、準備にエネルギーを費やすことができた。
長年のSOHO主婦経験を生かしたオフィス作りをしたつもりなので、その様子を今回ちょっと紹介しようと思う。
今後自宅以外で小規模のオフィスを持とうという方や、単身赴任や一人暮らしする子供用に部屋探しをするときにもちょっと参考になればよいな。(あくまでもSOHOの次のお金をあまりかけないSmallOffice作りの話なので十分に資金のある場合はあまり参考になりません。)
少々長いので興味があったらお暇な時にでも。。

【部屋探し】ポイント1
●シェアオフィスと賃貸マンション、どっちがよい?
一人、または二人くらいであればシェアオフィスも悪くないと思う。初期費用もあまりかからないし、二人くらいまでだったら5万円台くらいでもある。部屋は狭いけれど会議室や受付などの設備もある。ただし3人以上になると一気に高い。10万以上のところが多かった。うちの場合は私を含めて3人常駐なのと、好きな音楽をかけながら仕事したい、時々自炊したいという希望もありやはりシェアは無理だと断念した。どんなに小さくても「自分の城」であったほうがいいと思った。

【部屋探し】ポイント2
●よい立地条件でもコンパクトなら安い!
仕事のために出るならやはり便利なほうがいい。
以前から気になっていた小田急線の「経堂」(新宿から急行で11分)でたまたま駅から3分の商店街の中のワンルームがあったので、あまり迷わず即決した。
大学通りなので500円台の定食屋なども多く、コンビ二、百均、銀行、ポストなどすべて徒歩1~2分なので便利。
利便性は抜群だけれど16m^2と狭いワンルームなので7万円以下で借りられた。ちなみに16平米は壁に向かってデスク&チェアを3つ並べて、その後ろにちょっとしたランチや打ち合わせ用のサイドテーブルと小さい丸いイスを置ける程度の広さ。(でも結構これで十分必要な役割を果たしている。)
打ち合わせに行ったり来てもらったりするのにすごく便利になった。

【部屋探し】ポイント3
住居用オフィス可がねらい目
事務所貸しだと保険金や敷金などが5ヶ月6ヶ月と高い、初期費用を抑えるために住居用でオフィス可のところを探した。
ひとつの部屋を複数の不動産屋が扱うので、何件か渡り歩いて「この案件、あっちの不動産屋さんより安なるなら考えたいんだけど」と交渉。礼金2を無料にして家賃を3000円負けてもらった。この時期(6月くらい)は案件が動かないので交渉すると下がるのだ。

【部屋探し】ポイント4
給排水、エアコン、収納などの建具チェック
安いところはやはりこのあたりがひどいことが多い、何十年前のエアコンですか?というのがついていたり、窓や収納の開け閉めしづらかったり、水道の蛇口から水がちょっと漏れてたり。
そのあたりは主婦の目でしっかりチェックした。一人暮らし用のワンルームなので全部がスモールサイズだが、エアコンもわりと新しく、IHコンロがついていて収納も新しく造りつけられていたので印象が良かった。それでもエアコンのリモコンがなかったりと多少不備があるところは即座に対応してもらった。

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【購入編】ポイント1
【PC・FAX・電話】
まずPC、うちは制作会社なのでここはケチると仕事の効率が落ちてしまう。性能重視でアキバショップで必要なところを強化したマシンを組み立ててもらった。。FAXやコピーなどは個人事業向けのコンパクトな複合機を用意、これで十分だ、リースなどする必要はない。
電話やネット関係は加入権や工事、ADSL1年間無料などまるごとお得のプランに決めた・・・が電話工事の日から実際ネットが使えるようになるのに10日以上かかった。首尾よく段取りしたのにこの間賃料は発生しても引っ越せないのでちょっとイライラした。通信関係は仕事の命綱なので、できるだけ問題なくすぐ使えるように前から手配などをはじめたほうがよい。

【家具・生活用品】
ここは徹底して、いかに安くいかに見栄えよく・・を追求。通販組み立て家具(組み立てはちょっと大変)、オークション、IKEA、百均でほとんど揃えた。

SOHOからHOをとってSOへ
SOHOからHOをとってSOへ
IKEAで見つけた折りたたみの赤いサイドテーブルが気に入って、家具類は白(狭いので圧迫感が少ないように)、小物などは赤と紺でテーマは「トリコロール&ポップ」(安い家具だったらポップでかわいくしたほうがいい)。
SOHOからHOをとってSOへ
このチェアは組み立て家具で6700円、値段の割りにとてもすわり心地がよくメッシュなので涼しい。SOHOさんにもお勧め! デスクと一緒にオークションショップで買った。「オフィス家具」などで検索するといろいろ出てくる。
SOHOからHOをとってSOへ
こっちの時計はIKEAでなんと150円 案外可愛かったしちゃんと動いている。
SOHOからHOをとってSOへ
食器類も100円以下なのにちょっと外国風でおしゃれに揃えられた。ミニ冷蔵庫や3号炊き炊飯器、電気ケトルなどはオークションで新古を安く落札した。生活用品などはほとんど百均で揃えた。


【事務用品・事務小物】
会社のロゴ入り封筒や紙類、事務小物などはカウネットで準備、種類も多いしお買い得品もあって、なによりネットで注文して翌日とか翌々日くらいには届くのがありがたい。飲料水やトイレットペーパーなどもココで購入した。
個人の注文窓口もあるみたい。

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おおよそ準備金の総額としては全部ひっくるめて100万円くらいかな(そのうち6割はPCやFAX、電話回線など)
大人3人が一日の大半をそこですごし、過不足無く仕事するためにはやはり最低このくらいはかかるだろうと思う。
月額のオフィスにかかる固定費(人件費は除くすべて)はおおよそ10万ー12万円程度に抑えたいと思っている。
SOHOの次のスモールオフィスはこのくらいが身の丈でちょうどよい。

固定費をかけずにリスクもすくないSOHOでやっているのがよいと思っていた私だけれど、実際出てみるとやはり「仕事しやすい」と思うことが多いし、スタッフのやる気もアップしているように思う。クライアントにとっても常駐するスタッフがいるということは安心につながると思う。
SOHOで良かったところ、自炊したり、好きな音楽を聴いたり、は継承できるように少しアットホームな雰囲気は残しつつ、仕事への意気を高めていきたいと思う。

※イレギュラーなオフィスの使い方として、日曜や夜間など娘たちが自習室に使ったりもしている。家より集中できるそう。

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2007年06月25日

SOHOからHOを取ってSOへ 【動機編】


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1主婦の起業物語から更に1年近くたって。
その後の報告もかねて続きのエントリーを2回ほどで書いてみようと思う。

起業から3年目を迎えて、またひとつ新たなる一歩を踏み出すことにした。
これまでSOHOのネットワークカンパニーで、同じようなSOHOスタッフさんと連携して仕事をしてきた。
正直の話この形、自宅事務所で運営し、業務委託でスタッフに仕事をお願いしている限り、固定費はあまりかからずリスクは少ない。それに家庭の主婦、母であることには変わりがないので、やはりSOHOは楽だということもある。ずっとこのスタイルで無理せずのんびりやって行こうと思っていたが、ここ最近で気持ちが変わった。

事務所を外で借りて、常駐スタッフ(契約社員)も2名入れることにした。
順調に売り上げを伸ばしたのでそろそろ・・・ということでもない。
正直まだ固定費をかけて運営するには月次の受注は不安定だ。
あえてこれまでかかっていなかった固定費をかけていくのはそれなりに勇気がいる。
会社を経営していて外に事務所を持つのは当たり前と思うかもしれないけれど、SOHOからはじめたものにとってコレは案外大きな壁なのだ。
でも今回は「形から入る」という決心をした。その理由は。。

●娘たちが育ちあがったら(学費の心配をしないですむようになったら)、今のままのゆるいスタイルでいると働くモチベーションが下がってしまいそうだったから。(現在 大2、高2)
●自分自身40代半ばになって、あと5年してから行動に移せるか自信がなかったから
(親の介護などがいつ必要になるかわからない)
●経営の中核に参加してもらう男性スタッフにSOHOスタイルが合わなかったから
(一般的に男性には「職場」という社会性を持つ『形』が必要だということがわかった)
●リスクのない状態で「受注拡大」「売り上げアップ」と唱えるより、そうしないとやっていけない厳しい環境に身をおいたほうが「結果が早い」と思ったから
●オンオフをつけて、家にいるときは相方と向かい合う時間を増やす努力をしてみようと思ったから
●チャレンジしないで人生を終わることをできるだけしたくないから

事務所を外に持つことでの対外的な信用と言うよりは、むしろ内部的理由、私の精神的な理由のほうが大きい。でもおそらく結果としては出ることでよりビジネスライクにはなってくるだろうとは思う。
凶とでるか吉とでるかわからないけれど、やるからには当然「吉」を目指すわけで、その動機付けには十分なった。

決めたら行動は早いので、2日で場所を決めて、ほぼ一週間ですべての段取りを整えた。

事務所の移転準備は私にとってかなり楽しくエキサイティングな時間となった。
これからの大変さはちょっと棚にあげておいたとしても、やはりもうひとつの生活空間=別宅作りはワクワクする。しばしの間それを楽しませてもらった。
場所の選択、部屋の選択、事務所のレイアウト、PCやFAX・電話などの選択と購入、家具や生活用品の選択や購入、電話回線やネット手配、引越し段取り手配、これらをほぼ一人で行った。どうやったら低予算でいいオフィスができるか、そのあたりは主婦ならではの生活観や金銭感覚をフル活用した。
おそらく(同じくらいの仕事の規模の)男性が事務所を構える時に必要と考える準備金の3分の1以下で、手のひらサイズで居心地のよい空間を作ることができたのではないかとひそかに思っている。

次回はそのあたりのことをちょっと詳しく書いてみようと思う。
オフィス作りでなくても何か役に立つ情報になればいいな。

次回 SOHOからHOを取ってSOへ 【準備編】お楽しみに!

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2006年11月14日

【幸せな仕事―1主婦の起業物語】第10回 受け渡すバトンのために


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前回の物語を読む

この物語の第1話の大学卒業時から20年あまりの時がたった。その時に授かった娘は来年20歳になる。この20年の間にワーキングマザーにとっての環境もかなり変わったと思う。働き方も多様化したし、保育の環境や行政の対応も少しずつではあるけれど改善はされてきているとは思う。何しろ私の子育て時代初期には一時保育という考え方も一般的ではなかったし、SOHOなんて言葉もなく、インターネットでさえ一般では使われていなかったのだから。
今はブロードバンドも整い、Skypeなどを使えば外国との無料通話だってできるし、SNS(ソーシャルネットワーク)等を利用して新しく人脈開拓やビジネス交流なども持てる。このwmsに参加していることもそのうちの1つで、らむねさんをはじめ仕事も家庭も欲張りに楽しんでいる仲間に日々触発され、そういったことがモチベーションアップにも繋がっている。(感謝してます<ALL)
よくも悪くもインターネットは巨大な情報の塊となり、いろいろなサービスから自分に合うものを選んで活用したり、その気になれば自宅にいながらネットひとつで開業できる道も開けた。そういう環境はワーキングマザーにとってある意味「いい時代になった」と言えるのだろう。

でも本当にいい時代になった?

連日報道される暗いニュース、わたしのまわりだけでも鬱病に悩む人、子供を産み育てる自信の無い人、セックスレスに悩む人、登校拒否になっているお子さんを抱える人も少なからずいる。仕事にしても勝組み、負け組みなどと言われるように所得格差はますます大きくなった。便利になったこと=いい時代になったとはやはり一概には言えない。

この物語のテーマでもある『幸せな仕事』を実現できている人はどれだけいるのだろう?と時々考える。
私はどうかと言えば、幸せの青い鳥を探して日々迷い悩んでいるのが正直なところだ。そしておそらく多くのワーキングマザーも日々戦い悩みながら「幸せな仕事」のあり方を模索しているのだろうと思う。

それでも『幸せな仕事』は確かに存在すると考えている。

それは絶対的な存在ではないかもしれない。一瞬のうちに過ぎ去ってしまうものかもしれない。
でもその一瞬は確かに『幸せな仕事』をしたという鮮やかな記憶になって心に刻まれる。

・情熱を尽くして頑張った仕事が評価されたとき
・仕事に対して「ありがとう」と心から言ってもらったとき
・仲間と自分達の仕事を笑顔で語り合えるとき
・家族や友人が仕事を応援してくれたり協力してくれたりしたとき
・自分達が作った商品やサービスが自分の手を離れて広く世の中で役立つものになったとき

『幸せな仕事』をしたと実感と満足感を得られるだろう。そしてその味が忘れられなくてまた苦労も省みず新たな仕事に向かうのだろう。

私の中の『幸せな仕事』の定義は以前は自分が満足できる作品を作ることだった。
でも今は、自分のみならずクライアントやそのサービスのユーザー、関わってくれているスタッフ、協力してくれている家族みんなが『幸せだ(楽しい、面白い、ステキだ、満足だ、など笑顔のある状態)』と感じる仕事をすることだと思う。
しかし言うは易しで、そんな状態には簡単にはならない。たいていどこかにしわ寄せがいってしまう。もちろん私のいたらなさ、未熟さによるしわ寄せも多いので、まだまだ改善はできるとは思っているけれど(苦笑)

でも少なくても起業して会社という社会的な顔を持ったことで、より『幸せな仕事』のあり方を追求したいという気持ちは強くなった。
前にアメリカで事業をしていたクライアントの年配男性に聞いた話だけれど、アメリカの銀行は女性経営者には積極的にお金を貸すそうだ。なぜなら「女性は子供を育てるように会社を育てるので、会社を簡単には潰さない」からだそうだ。
本当のところがどうかはわからないけれど、私はちょっとその話に感銘をうけて、自分もそうありたいと思った。そうやって時間をかけながら誰かの役にたち、この世の中にほんのちょっぴり足跡をつけて死ぬことができたら本望だ。

さらにもっと個人的な気持ちのレベルでは『幸せな仕事』のバトンを受け渡したいという思いがある。
私が教えてきた受講生達が私を超えて「いい仕事」をしてくれること、私の造形教室の子供達がここをきっかけに何か自分の表現をみつけて活躍してくれることを心から願う。
そして私の娘達。。。。

娘達は常に仕事優先の母の後姿を見て、いろんなことを感じてきたと思う。
あるときには寂しい思いも悔しい思いもして、綺麗事ではすまされない悪いところも沢山見てきたのだと思う。当然反発もあるし、すんなりとは受け入れられない複雑な感情もあると思う。
でもいつか、私が大切に育てた『幸せな仕事』への想いを受け継いで欲しいと思う。
どんな職種の仕事でもよい、自分の『仕事』と思えることに、誇りと情熱を持って強くたくましく生きて欲しい。そして自分の子供達に「ママはあなたたちと同じくらい仕事が大好きなの。あなたたちと仕事の両方がママの幸せなの。」と笑顔で言えるようになって欲しい。私よりすこし上手にそれができるようになってくれればなおいい。

そのためにも、もうしばらく『幸せな仕事』を目指して頑張ろうと思う。私を踏み台にしてジャンプして欲しいという気持ちはあるけれど、一方では簡単には超えられないくらいのハードルでありたい。それにまだまだ現役のデザイナーとして若いもんに負けるわけにもいかないし、経営者としてももう少しは会社を成長させたいという野心も夢もそりゃちょっとはある。
あと10年?15年?いつまで頑張れば自分に「ご苦労さま」といえるかわからないけれど、そのころには今より『幸せな仕事』に1歩近づいていたいと思う。


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【幸せな仕事―1主婦の起業物語】
第1回 出来ちゃったんだからしょうがない
第2回 子供がいるからこそできる仕事
第3回 インターネットは『どこでもドア?』
第4回 それでもWebデザインの仕事がしたい!
第5回 背中を押されて
第6回 インプットとアウトプット
第7回 「主婦仕事と言われたくない!」
第8回 波乱の幕開け
第9回 起業して人生が面白くなった
第10回 受け渡すバトンのために <完 >

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2006年10月29日

【幸せな仕事―1主婦の起業物語】第9回起業して人生が面白くなった


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前回の物語を読む

前回は起業前起業直後の『大変のオンパレード』の話になってしまったが、今回は予告どおり『起業してよかったぁ』と思うことをいくつか書いてみたいと思う。起業といっても規模もやり方も様々なのであくまで個人的な話だけれど、結果的は起業して『大正解』なのだ。

その1―起業により自分自身が成長した―
よく子供を生んで育てながら親も成長する・・という話があるが、まさしくソレ。起業することでこの歳にして少しだけ精神的に成長したのではないかと思う。特に対人関係において変わった面が多々ある。
昔の私は自分が満足できればそれでよく、他人や世の中のことにはあまり関心がないという浮世離れしたところがあったが、それでは会社は経営していけない。今改めて人間関係を学びなおし社会勉強している感じだ。クライアントに対して、またスタッフに対して、横のつながりに対して考え方が変わった。メリットとメリットを繋いでいくということ、他人のことを考えないサービスはありえないことがわかった。

その2―定年やリストラの心配がなくなった―
外で働くと会社の事情や規則で自分が続けたくても仕事を辞めざるを得ないこともあると思う。
歳を増すごとに「この歳でやとってもらえるのだろうか」と再就職のたびに心配もするだろう。
特に女性の場合子育てがようやく終わったと思うと、介護の問題も出てくるのでそれで両立するのもまた頭の痛いところだと思う。
でも自分で起業してしまえばある意味、仕事が続く限りは自分の意志で行うことができるし、少なくても人に辞めさせられることはない。決定権が自分にあればいろいろな意味で融通が利く。
これは実は私にとってはちょっとした安心材料になった。連れ合いの仕事は、何かあった時に保証がない。これまでずっと危ない橋を渡っているような気分だったが、会社ができたことで、もし何かあっても会社を母体にどうにでもできると気持ちが大きくなった。
「会社自体が大丈夫?」というのはまた別の心配でもあるんだけどね(笑)


その3―会社を背負うことで「信頼度」「扱われ方」が向上した―
個人事業でやっているよりはやはり法人にしたほうが対外的な信頼度はアップすると思う。あくまでも一般論で、wmsの中でもきらりと光る個性と実力ある仕事で十分やっていけている個人事業の方もいるので、一概には言えないけれど。
でも特にこれといって華のない私のようなものでも、会社というものを背負っているというだけで「女性経営者」として少しだけ余分に信頼度がアップされている感はある。
その信頼を裏切らないようにしないといけない。
また、例えば制作をやるとしても以前は「ああ、SOHOの主婦の方ね」という扱いを受けることもあったが、今は「社長さん自らがやってくださるなんて光栄です」というように多少は扱われ方も変わった。
でも最終的には実力に見合ってなければ恥ずかしいだけだが、そう言われれば期待を裏切らないようにしようと更に努力する気持ちにもなる。要するに人に期待を寄せられる分(責任がある分)モチベーションがあがるという効果がある。よく「『社長』と呼ばれるたびにだんだん『社長』になっていくものだ」といわれるが、実際そういうものなのだろう。肩書きとブランドを自分で作れることは起業の醍醐味だと思う。


その4―数字で考える癖がついた―
個人事業の時よりも、少しは数字で会社の経営を考えるようにはなった。
家計簿のひとつもつけたことなかった私が、今は損益分岐点計算なんていうのもやってみたりする。
スタッフの人件費、自分の給料、もろもろの経費と収入のバランスを常に考える。
それでもどんぶり勘定といえばそうなのだが、税理士がそのあたりは助けてくれる。
時間、お金、効率、クオリティ。
お金をマジメに考えることはとても大事なことで、きちんとしていれば信頼にも繋がる。
何より金銭感覚を磨くというのは、生活全般においても役立つことが多い。


その5―経費と割り切って必要なものは買えるようになった―
もともと貧乏症なので、あまりものは買わず、できるだけお金がかからない方法であらゆるものをしのいできた。個人事業のときは、仕事のお金とプライベートなお金の区別があまりついていなかった。でも起業して仕事の経費は割り切って使えるようになったので関連する本や必要なソフト、セミナー受講などには惜しまず使うようになった。そのへんをケチらない分、仕事のスキルや効率、クオリティがあがった。またセミナーやビジネス交流会に顔を出すことで人脈も増えた。やはり使うべきお金、かけるべきお金というのはあることを知った。


その6―度胸がついた-
前回の「大変オンパレード」ではないけれど、まぁいろいろなことが起こる。これは会社経営でなくてもそうだけれど、大変なことを乗り越えればそれだけ強くもなる。あるビジネス本によれば華僑やユダヤ人は、自分から積極的にリスクを取りに行き、失敗した経験値から成功を導くのだそうだ。そこまで割り切ることはなかなかできないし、うちのような極小企業は金銭的リスクは無理だけれど、でも大きなリスクを防ぐために、小さいところで少し新しいことにもチャレンジして自分の労力程度の失敗や投資はしていくべきだと思う。トライ&エラーを繰り返すことは大事だ。
起業することで普通に主婦をしていれば抱えることのないと思われる、いろいろな問題に直面するが、チキンでヘタレな私でも、ちょっとずつ経験値は高まり、それにともない度胸もついてきたと思う。
ちょっとくらいのボヤの火消しは『どんとこい』と言えるくらいになりたいものだ。


何はともあれ「起業してよかったか?」と聞かれれば間違いなく「良かった」と言える。

これらすべてをひっくるめてひとことで言えば
起業したことで人生が面白くなった
コレに尽きるのではないかと思う。

むしろあと10年早く起業していればもっと良かっただろうとも思うけれど、それは言っても始まらない。
人生どこからでもスタートしても遅くないと信じよう!

**===次回予告===**
いよいよ、次回は最終回。
船は港を出た・・・・そして船は何処へ行く??
私の人生のメインテーマです!

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2006年10月15日

【幸せな仕事―1主婦の起業物語】第8回波乱の幕開け


投稿者 fellow

前回の物語を読む

新しい体制ができるまで・・・それは今でも二度と繰り返したくない大変な時期だった。
仕事を絞ってゆとりを作ったはずなのに、また私はいっぱいいっぱいのパンパン状態になってしまった。
今回の話は『大変!のオンパレード』なので今思い出して書くのもちょっと『痛い』感じだ。


その1―引き続き仕事が大変!―
何しろ仕事が多すぎてどうにも処理がしきれず、せっかくの本気度計画の成果なのに「現在案件過多のため、ご依頼を受けられません」という但し書きをトップページに赤字で出さざるを得ない時期が続いた。人には「嬉しい悲鳴じゃない」と言われたが、実際はかなり苦しかった。何しろやりたくても身体はひとつしかない。HappyWeb工房のスタッフは何人かいるけれどみな専門に特化しているので私の代わりができる人はいなかった。
成果を出すことばかり考えていて、実際仕事が多数入ってきたときに回せる体制ができていなかった。
人に振りたいけれど、人に振ることは実は自分がやるよりずっと難しい。きちんと時間をかけて培った信頼関係と納得できるだけのスキルがないと簡単にお願いすることさえできない。新しい体制ができたらまずはスタッフを育てるところから始めなければならないとまた1つ学んだ。

その2―引越が大変!―
自宅の引越と起業の準備が始まった。2005年早春である。
これも性分なんだろうか、引越の手配も起業の準備も結局自分が全部やる羽目になった。
仕事の時間を縫って、何件か物件を下見に行く、ことごとくダメだったりハズレだったりで疲れ果てる。ようやく物件を決めてからも膨大な書類の準備で、あちこちの市役所だの銀行だのを駆けずり回った。
主婦にとって「家を買う」ってことは一生涯の中で1番大きな買い物だし、本当はもっともっと楽しみながらやるものだと思う。でもそのときの私は「とにかく早く納まりたい」と願うばかりだった。
それでも3月の初旬、小田急線百合ヶ丘の小高い丘の上のマンションに引っ越すことができた。
正直仕事には不便なところを選んでしまったが、行き帰りに見える大きな空や夜景、四季折々の花などに癒されたくて決めてしまった。自分の仕事場もできた。ここが当面の会社の事務所になり、また私のプライベートな空間になると思うとちょっとだけ嬉しかった。(この物語は今そこで書いてます)


その3 ―起業が大変!―
引越が終わったら今度は起業準備だ。起業については人のアドバイスを受けながらではあるけれど、司法書士にも依頼せずに「有限会社の作り方」という本を読んで自分で書類作りすべての手続きを行った。時間や手間を考えるとどちらがいいかわからないけれど自分で行うことはそんなに難しいことでもない。ひとつひとつを仕事のタスクと思いこなしていけばいずれ終わる。類似商号がないかを法務局に調べに行ったり、定款を作って公証人役場に持っていったり、会社の印鑑を作って印鑑登録したり、全部書類ができたら登記に行ったり、会社設立届を出しに行ったりでおおよそ1ヶ月半くらいはバタバタした。、ここでは詳しくは述べないけれど、起業する方法について書かれた本やWebは山のようにあるので、これから起業したい人は少し勉強してみるとよいと思う。


その4 ―もろもろの資金繰りが大変!―
大変なのは労力だけではなかった。何しろ私の場合は個人事業者での実績があったので、1円起業はできない。有限会社を作るのに最低300万の出資金が必要だった。引越の頭金と起業資金、それに娘たちの私立の学費、トリプルパンチで脳天がクラクラした。何を隠そう実はそれらの資金は娘の大学費用の貯蓄から使ってしまった。親からも引越資金は返済書つきで100万借りた。翌年に長女は大学進学、二女は高校進学する。起業と引越でほとんど貯蓄も使い果たしてしまったので、一年間でなんとか娘たちの進学資金を捻出しなくてはならない。
またまた私の背中にかかる重圧は大きくなった。(私ってM?とマジメに思った)


その5 ―人間関係が大変!―
結局HappyWeb工房のスタッフ内であれこれ話し合った結果、津田さんは携帯専門の制作会社を私はPC版専門の制作会社をそれぞれ作り、興津さんはもともとのキャリア開発業に専念し、それ以外のスタッフは個人事業として活動し、お互いよい協力関係でかかわって行こうということになった。
でもそこに至るまでが大変だった。何かが変化するとき、それは物理的にも感情的にもいろんな波紋がおきるのは仕方がない。余裕がある状態ならまだしもパンパンではまともな話もできない。「何のためにやっているんだろう」と溜息がでることも多かった。
この頃WMSのらむねさんを始めいろいろな人に相談をして「経営者のあり方」を尋ねた。
その時にもらったアドバイスは今でも私の大きな指針になっている。
おかげさまで今はそれぞれとても良い状態で仕事にプライベートに関わりながらやっている。このころ力になってくれた方には感謝の念がつきない。


これらの『大変!』を経て「有限会社 Plusプラス」は2005年4月6日に設立に至った。
でもそれだけでまだ私の苦行は終りではなかった!

起業と前後してこれまで受けたこともない一桁違う仕事がいくつか入ってきた。これまでは自分達とたいして身の丈が変わらない個人事業主や中小企業の仕事の依頼が多かったが、入ってきた仕事のクライアントは誰でもが名前を知る一流企業であったりもした。そういう会社と経営者として取引をしていかなくてはならない。私は正直ビビリまくっていた。


その6 ―トラブルが大変―
それにそういう状態がわかるとそこに上手く付け入る人間も出てくる。
親切な顔をして巧妙に近づく人間もいるのだ。詳しくはいえないけれど私は起業早々、弁護士を雇うハメになる。その時はいきなり大海原に投げ出されて藁をも掴みたい気分だった。そして実際つかむ藁を間違えてしまった。今にして思えば、これまで自分が行なってきたことにもっと自信を持って、やれることをやれる分だけ自然に行なえばよかったのだと思う。
私は会社を設立するということで必要以上の責任と焦りを感じ「このままではいけない。ちゃんとしないと、Web会社として恥ずかしくないようにしないと」といきみすぎてしまったのだと思う。

その結果、私はかなり手痛い勉強をすることになった。自業自得の結果に泣くことも自分が許せず辛かった。
弁護士に「起業早々こんな目にあうなんて不運だと思う」と言ったら「起業したばかりだからあうんですよ、そういうトラブルは数え切れないほどある」と言われた。
でもそのおかげで近づいてくる人を信用しすぎないこと、人に依存せずに最終的には自分で考え決断することを肝に銘じることができた。それは会社経営にとって大事なことだと思うので、得たものもそれなりに大きい。しかし繰り返さない努力は必要だ。私の精神的な弱さが招いたことなのでそれを克服しなくてはならない。「チキン」な経営者では会社もスタッフも守れない。その点についてはまだまだ修行中だ。


何はともあれこんな感じでまさしく波乱万丈の幕開けであったが、産みの苦しみは多くても私は子供をもう1人作った。会社は私の3番目の子供だ。どんな嵐が吹こうが守って育てて行こうと誓った。

**===次回予告===**
今回は『大変のオンパレード』で「なんか大変そう!」と、これから起業したい女性に悪影響があったらそれこそ大変!次回は起業してよかったことを沢山書こうと思います。これに懲りずまた来てくださいね♪

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2006年10月01日

【幸せな仕事―1主婦の起業物語】第7回「主婦仕事と言われたくない!」


投稿者 fellow

前回の物語を読む

夜昼休日なくの仕事の仕方が「結局自分も家族も大事にしないやり方」と気付いてから、やはり仕事を絞ることを私は考え初めていた。制作と講師業、正直どちらも捨てがたく、どちらもある意味「天職」と思えたので迷ったが、やはり本来の目的であったデザイン制作を取ることにした。制作は自宅でやる。どんなに忙しくても娘たちを常に背中で感じられる距離にいたいという思いもあった。

Web制作を「ライフワーク」に選んだ私は、講師業からは一部を除いて撤退した。現在講師業で残っているのは全日制の専門学校での週1のFLASHと基礎デザインの非常勤講師と月に2回の子供のための造形教室のみである。


さて、気を引き締めなおして本業に徹するぞと思いきや、よくよくこれまで行ってきたWeb制作の仕事状況を見返すと、やはり片手間は片手間なりの仕事だということがよく見えるようになった。これまでかなりの時間をしめていた講師業と日々追われる勉強があったので忙しい気になっていたが、実はWeb制作は本業にするには不安定極まりない受注状況であることを改めて思い知らされた。

「HappyWeb工房」のメンバーは心意気はあるものの、みな私より子供が小さく家庭も比較的安定しているので何が何でも「仕事が欲しい」状態ではなかった。
あくせくせずに来た仕事を丁寧に行なうのが当時の「HappyWeb工房」のスタイルだった。
それはそれで主婦の仕事のひとつの良いあり方だと思うし、だからと言ってみんながいい加減だったわけでもない。

「家庭や子供も大切にして仕事をしていこう。
お互い子供の病気や家族の都合など困ったときは融通を付け合おう。
自分の専門のスキルを生かしていこう。
“今の自分だからこそできる仕事”をしていこう。
子育てや生活に精通した経験自体を“売り”にしていこう。」というコンセプトから外れていたわけでもない。

でもビジネスと言うには遠かった・・・

おそらく私達の1年分の年商が一般の平均的な制作会社の月商と同じくらいかそれ以下だったかもしれない。健全な営利追求がなければやはりそれはビジネスとは言えない。自分が生涯をかけていく仕事のあり方としてはこれでは物足りなくなってきていた。
メンバーは大好きだけれどこのままの形では満足できない。
私は「主婦仕事と言われたくない!」という思いを次第に強くしていった。


本気度計画―2004年春
「主婦のチームSOHOから、本当の女性のWeb制作会社へ」
まずは自分もそしてメンバーにもモチベーションアップが必要だった。
私は現状のチームのダメ出しを行い、仕事状況などを客観的にみて今後の指針をたててメンバーにも意見を聞いてまわった。
何かを改善したり改革するには絶対に中心に「熱を持った核」が必要だ。
中心に赤く燃えるエネルギーの球がありそのまわりにみんなが手を繋ぐような状態に持っていきたかった。

「本気度計画」では以下のような項目で改善を打ち立てた。
●3年以内に取引先を3倍にする
●サイトが上位検索されるようにする
●顔の見えないネットの世界でどうどうと本名顔出しで信用を得る
●業務範囲、提携スタッフを増やしていく
●すべてをユーザーの視点から考えるようにする

この計画を元にサイトのリニューアル、名刺リニューアル、役割分担などすべてを見直すことにした。
まずはメンバーの撮影会から行った。女性の感性を売りにする私達にビジュアルは不可欠だ。SEO・SEMも勉強し、サイトもテキストベースでなおかつインパクトのあるカラースキームとデザインを考えた。サイトを訪れた人の視点で考えることは実際簡単なことではなく、何度も練り直す必要があったが、そこは絶対はずしてはならないポイントなので妥協せず行った。

それでもどんどん順調に進んだわけでもない。
ありがちなことだが、対クライアントの仕事が忙しいと自分達のことは後回しになる
自分の庭を手入れすることは、その気はあってもいざとなると腰が重くなるものだ。自分達のことを客観的にみることは意外に難しいのだ。それでもみんな自分にムチを打って頑張った。

本気度計画から半年かけてサイトリニューアルは完成した。手ごたえはすぐにあった。その何日か後にはそれまではシーンとしていたサイトからの引き合いがくるようになった。Yahooビジネスエクスプレスに登録されるとその勢いは増し、実際2005年には半年くらいの間仕事を断るくらいの状態が続いた。私達の本気度計画はまずまずいいスタートだった。嬉しかった。

HappyWeb工房は「Web制作 女性」「女性のホームページ制作」などで常に上位に検索されるようになった。
そろそろ目標から2年半になるが、本気度計画はほぼ予定通り目標に達していると言っていいだろう。もちろん最初の分母が小さかったから達成しやすかったというのはあるが、それでも歩いてきた道は確かに残っている。

しかし忙しくなることは必ずしも良いことばかりではない。仕事に対する温度差が生じたりすれ違いも多くなった。1部のメンバーは離脱した。私の行き過ぎが反感を買うこともあった。現在はまたそれぞれが違う形で落ち着いているので、お互い仕事でもプライベートでも協力し合うよい関係になっているが、当時はかなり精神的にしんどいことも多かった。
それでも意見しあいぶつかり合うことは根底に信頼と尊重がなければできない。それがあるので長い目でいい関係を続けていくことができるのだと思う。

そういった中、これまで会社の傘を借りていた興津さんから独立しないかという話が持ち上がった。
「ここまで仕事が本格的になってきたならそろそろ事業を独立させたほうがいいのではないか」という申し出だった。興津さんは「主婦の背中を押す」というテーマでHappyMotherNetworkの事業を行っていた。彼女から私達は「卒業証書」を貰ったのだ。

でも私達はこの「卒業証書」に激震してしまった
本気度計画・・・必死でプロジェクトを推進して来たが、それでも私はまだ「本気」でなかったと思い知らされることになった。私には『経営者になる心構え』がまるきり出来ていなかった。
私が「社長?」それはにわかには受け入れにくいことだった。これまで一度も経営者になりたいと思っていたわけでもなく経営の勉強を専門にしたわけでもない私は、急に不安になってしまった。
不安は不安を呼ぶ。あの頃を思うと「形のない不安、目に見えないプレッシャー」にチーム全体が怯えていたんだと思う。
23で子供ができて、いつも自分の考えられる範囲内で仕事を作ってきた私にとって、「起業」とはそれくらい大きな出来事で、氷山が目の前に立ちはだかったような気がしていた。

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2006年09月17日

【幸せな仕事―1主婦の起業物語】第6回インプットとアウトプット


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それからの私はまた急に忙しくなった。
Web制作チームのHappyWeb工房を作ってすぐに、いきなり大きなプロジェクトにもかかわることになり、なおかつPC講師の仕事も多くなってきた。
ちょうどPCやWebの進化とともに私の仕事もよりスキルアップを求められ、それと歩調を合わせていくのはなかなか大変だった。
2000年~2004年まで私はこの両輪で仕事を続け、昼は講師、夜は制作という具合に行なってきた。
子供が大きくなって来てからはその逆もあり、夜間講座で毎晩帰りは深夜になったこともある。
でも講師と制作を両方行うことはどちらのスキルアップにも有効で自分にとってはベストな形だった。

政府が支援した初心者向けのIT講座も一通りの波を過ぎると、一般のITに関する認識は高まり今度は講師にも、もっとスキルアップした技術とノウハウが必要になった。
私は念願のWebデザインの講師として、再就職支援の3ヶ月講座などを任せられることになった。

ここでは企画から始まり、HTML、CSS、JavaScript、CGIなどの言語、フォトショップ、イラストレーターなどのグラフィックソフト、MacromediaのDreamweaver Flash FireworksなどのWeb制作系ソフトの習得を行い、実践にも耐えうる卒業課題の制作までを面倒見る必要があった。

講師も制作もインプットとアウトプットを繰り返す仕事だ。自分の中がカラだと教えられることができないし、クライアントを満足させるものもできない。上っ面の知識では人はついてこないのだ
自分にしかできないことが増えるのは充実感はもちろんあるけれど、実際1人でこなすのはかなり厳しいことだった。アウトプットの2倍のインプットが必要であり、私は仕事以外の時間は夜昼なく勉強することになった。特にプログラミングに関わることは本来得意でなく必死で頑張ってもなかなか辛いものがあった。
また長期講座は、何人かのサブ講師や、場合によっては担当を分けた講師と一緒に行なうことも多かったので、これまでと違う組織のあり方や講座の進め方、講師同士の人間関係で悩んだりもした。
このころから土日祭日一切無く睡眠時間も極端に減った。
「実務経験の豊富な講師」「講師もできる(人に分かりやすく話せる)Webデザイナー」が私の「売り」になったけれど、詰め込みの仕事、プライベートもほとんど返上しての仕事の仕方は、やはり家庭にも健康にも影響しはじめた。

まず家庭では連れ合いと口をきく機会が減った。そのころ連れ合いの仕事もIT化の余波を受けいろいろ難しい問題もあり、本来もっと親身になって話を聞いてあげるべきだったと思う。でもその時はそれを受けとめている余裕がなかった。PCに向かう背中越しに機嫌の悪さを感じながらもスルーしていた。そして下の娘は学級崩壊の影響と少し早めの反抗期で小学校の高学年で荒れはじめていた。かっこも派手になり、仲間とつるんでゲームセンターにも行くようになり、いじめに荷担したり逆にいじめられたりして勉強どころではなくなっていた。なんとなくぎくしゃくとした家族関係、問題を感じつつも立ち向かいたくない、現実を直視したくないという気持ちもありますます仕事に没頭した。

また体調面では激しい肩こり(文字通り首がまわらない状態)と膀胱炎に頻繁になるようになった。
首にものすごく痛い注射を6本も打って、どうにかしのいだりもしたが所詮一時凌ぎだった。
冬になると咳が何ヶ月も止まらず、毎日40人の前でマイクもなく大きな声を張り上げるのは辛かった。
そのころのお盆や正月休みはいつも死んだように倒れていたように思う。

「やはりこれでは持たない。子供や家庭のために働いているのに(もちろん自分のためでもあるんだけれど)家庭が崩壊したら本末転倒だし、自分が働けなくなったらそれこそ長女の学費を払うことさえ困難になる。」自分自身が本当は1番限界を知っていた。それでも認めたくない気持ちもあり日々揺れていた。

ある時、下の娘のグループが起こした問題で学校から呼び出された。
よくドラマにあるみたいに「ウチの子はそんなことをするわけない」と思ったけれど、激しく問い詰めると認めた。
そのことをキッカケにようやく私はブレーキを踏む決心ができた。娘に手をあげて、そのあと抱きしめて一緒に泣きながら一晩話し合い、もう一度ちゃんと向かい合ってやり直そうと誓った。

実際にはそれで仕事をやめたわけではない。でも何がなんでも自分で全てかかえるような仕事の仕方は改めた。それまで正直多少のうぬぼれもあった。「これは私でないとできない。他には任せられない」と。
でも本当はそんなことはないのだ。私に得意なこともあるけれど、他の人に得意なこともあり、私がいなくてもそれなりに仕事は回る。そんなことがようやく分かった。

娘も6年生になって私立受験を決意し、これまでの反省を含めて頑張るようになった。
遅いスタートだったがやれるだけのことはやろうと話し合った。仲が悪かった姉妹関係もほぐれて、また家族の歩調も合ってきた。

「母親が仕事に夢中になること=家族の崩壊」ということはない。ちゃんとバランスをとっている人だっていくらだっている。でも私はまわりが見えていなかったのですこしばかり気付くのが遅くなってしまった。

仕事ばかりでなく家庭にもインプットとアウトプットが必要だ。ちゃんと暖めて溜め込む必要があり、そして充電できればその原動力で外へ向かう。家族のみんながそういう気持ちをもって入れば少々忙しくても大きな問題は起こらない。

ワーキングマザーに必要なことは家事をぬかりなくやることでも、子供の勉強に付き合うことでもない。手抜きはしたっていい、でも家族をちゃんと見ることだけは怠ってはいけないと思う。家庭は家族が充電する場所だ。みんなが充電するために主婦が1人で頑張らなくてもいい、親も子供も夫婦もそれぞれがきちんと家庭でインプットしようと意識すれば、それぞれが仕事に学校に元気良くアウトプットしていけるのだと思う。ただそういう方向に舵をとるのはやはり主婦の役目だと思った。

いい状態でインプットできる家庭作りは口で言うほど簡単ではないし、今でもちゃんとできているかといわれれば3歩進んで2歩下がるようなところもあるけれど、こんなことがあってある意味肝が据わったというのはあると思う。
転んで立ち上がるたびに少しずつ人間って強くなっていくのだろう。そういう意味では転ぶことも無駄ではない。
この先家族にどんなことがあってもすべて自分の責任として受け止めていこうという『覚悟』はできた。
そしてそれはきっと仕事をする上でも大事な『覚悟』だったんだと思う。

娘は翌春受験に合格し、そして連れ合いは転職した。
人生でもっともお金のかかる時代に突入した、仕事はやめない。そして母もやめなければ妻もやめない、もちろん人間もやめない。
インプットとアウトプットをバランスをとっていくことがワーキングマザーの生きる道だと悟った。

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2006年08月28日

【幸せな仕事―1主婦の起業物語】第5回 背中を押されて


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エポックメイキングな出逢い・・・今から振り返っても確かにそうだったと思う。人生には何度かそういう出逢いがあるんだろう。はじめて会ったその女性は当時まだ学生だった。“ハシリ”の学生起業家だ。私とはちょうどひとまわり年齢が違う。

HappyMotherNetwork主宰の興津祥子さん。彼女は自分の苗字からとった興味津津という面白いネーミングの会社を立ち上げたばかりだった。

彼女と話してすっかり気が合って「主婦が主婦に教えるパソコン教室」の事業を手伝うことにした。彼女は「主婦が自分のやりたいことを実現するために背中を押す手伝いをしたい」と熱い瞳で語った。
私は私でインターネットの世界でやっていきたいけれど制作だけでは仕事になっていなかったので、長年やってきた講師を今度はPCの世界で挑戦してみるということに興味を持っていた。教える相手が主婦や地域の人ということも引き受けやすい条件だった。(ぶっちゃけこれまで子供関連の仕事ばかりしていた私には、スーツのOLやサラリーマンがちょっと怖かったので、リハビリにはもってこいだった)

それ以外にも興津さんから学んだことは多い。「今時事務所を構えて固定費をかけて運営するなんてナンセンスだ」と彼女は言った。当時彼女がやっていたパソコン教室はただの何も無い会議室を借りて、そこに自宅のPCを運び込んでセッティングして行なうという、驚くべきやり方で運営していた。パソコン教室といえばずらりとPCが並んでいるところを想像していたわたしは本当にびっくりした。正直「こんなんでお金とっていいの?」とも思った。
それでもそこを拠点にした活動は地域で評判がよかった。体裁や形ではなく、中身がちゃんとしていれば仕事が成り立つんだということを私は学んだ。

そうこうしているうちに実績が認められて都内のPCスクールから声がかかり、その後何年もに渡って私達の「主婦の手によるパソコン教室」は主婦ばかりでなくパソコンを始めたいと思う一般の人に大盛況だった。
一般の人にはITスキルが高すぎる人よりも、等身大で優しく丁寧に教えてくれる主婦講師は受けがよかったのだ。

スクール事業と同時にHappyMotherNetworkではメーリングリスト(ML)をはじめて、500名の主婦会員を集めた。HappyMotherNetworkのよいところは年齢不問で20代から80代まで生活文化意識の高い女性、前向きに自分の仕事や活動を考える女性が集い、自発的に自由に活動できたところだった。
コンサートが行なわれたり、ニカラグアのイベントを行なったり、手作りフリーマーケットを行なったり色んな趣味のイベントを行なった。当時の仲間は今でも信頼関係は深く一生付き合っていける友人として大切に思っている。
そしていくつかの仕事に繋がるプロジェクトも生まれた。
母と子のコンサートの活動を広げるハッピーマザーミュージック、ニュース英語サークル ALPHAそほかにもいろいろな活動が生まれた。そこにはゆるい仲間意識と刺激のしあいがあり、そういったみんなの意識がそれぞれの背中を押していた

私が仲間と立ち上げたのは「HappyWeb工房」というWeb制作プロジェクトで、これが現在の会社の種となった。

子育てをしている私達はOLやサラリーマンのような仕事の仕方はまわりに十分なサポートがない限りなかなかできない。そうであれば男性社会の基準ではなく、自分達の生活スタイルに合った基準を作っていこうと考えてた。
「主婦の手によるパソコン教室」が需要があったように、日々生活をして子供を育てている私達だからこそできるWeb制作があるはずだ。
雇われるのではない仕事の仕方、かと言って一人で黙々と行なうのでもない仕事の仕方、同じ状況の主婦同士わかちあって作り上げる仕事、これこそ自分が求めるスタイルだと思った。

家庭や子供も大切にして仕事をしていこう
お互い子供の病気や家族の都合など困ったときは融通を付け合おう
自分の専門のスキルを生かしていこう。
今の自分だからこそできる仕事”をしていこう。
子育てや生活に精通した経験自体を“売り”にしていこう

それであれば1人より3人、そうだ3人集まれば文殊の知恵という言葉もあるではないか!それぞれ専門のスキルを持ったSOHO同士でチームがいい。感覚としては、そう!強いママさんバレーチームみたいな感じ。ただの主婦の井戸端会議ではなく目的を持ったチーム、それも強くなくては意味が無い。勝ち残っていけるチームを作りたい。そしてきちんと世間に認められる仕事がしたい

MLでライターとプログラマー(wms竹之内ふうこ)に声をかけ、興津さんも仲間に引き入れて私達の「HappyWeb工房」は有限会社 興味津津の傘の下を借りてスタートした。1999年秋のことである。
興津さんはあくまでもスタッフが自主的に作っていく仕事の場を提供するということに徹してくれたので、私達は思うように舵をとっていくことができた。それは私達にとって大変有難いことだった。

その後私はPC講座の講師の仕事とWeb制作の仕事の両輪で5年にわたって活動することになる。
HappyWeb工房には途中から携帯サイトの専門スタッフ(wms津田実穂)も加わってより活動の幅が広がった。

そして時代は私達のこうした気運と同調するごとくIT革命へと突入していった。

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2006年08月14日

【幸せな仕事―1主婦の起業物語】第4回 それでもWebデザインの仕事がしたい!


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何もない『荒野』・・・私は何を期待していたんだろうか。
ほろ酔い気分が急に醒めた、すごろくでまたスタートにもどってしまった状態を自覚せざるを得なかった。
『どこでもドア』の先に輝かしい未来が待っていたわけではない

講座が終わってしまうと、またそれまでと全く変わらない同じ日常があった。
誉めてくれたカッコいい先生も「頑張ってねーバイバイ」で終わってしまったし、ネットの友だちも趣味友としては楽しいけれどそれ以上であるわけもなく、どこからもWebデザインの仕事が舞い込んでくるなんてことはなかった。

私には子供と家庭があり、ハードな外勤デザイナーになれない状態は変わらない。コネなし、金なし、スキルなし(ちょっとばかり勉強したからってすぐにフリーで使い物になどならない)、いったいこの何もない『荒野』をどうやって自分の畑に耕すのか途方にくれた。

インターネットで在宅仕事を探すが、当然まだ実績として出せるものがないので簡単には仕事が得られない。
それに今ほどWeb制作の仕事が巷に溢れているわけでもなかった。
初心者デザイナーが抱える問題は今も同じだけれど、実績もないのにいきなりフリーで仕事を得るのは容易ではない。地域の中で子供関係の仕事を10年もやっていた私には、そういったデザインの業界にもまったく知り合いがいない。私はまだこの業界では「駆け出し」とさえ認められていない。。。
これまで「先生、先生」と慕われてやってきたことを思うと、この『振り出しに戻る』状態は結構精神的にきつかった。

「それでもWebデザインの仕事がしたい!」私は諦めなかった。

私はとりあえず自分のホームページと名刺を作った。
名刺には「Webデザイナー 大橋ゆり」と書いた。
仕事もないくせいに結構立派な名刺で、かすかに自尊心を保つのに役立った。
私は大して面識のないイラストレーターに頼みこんでサイトを作らせてもらうことにした。
「無報酬で結構です。その代わりに仕事の実績として使わせて下さい」

3ヶ月かかってそのサイトを私はとても真剣に作った。グラフィックソフトを駆使しFLASHを使い、はじめてHTMLでコーディングした。割が合う合わないは一切考えなかった。そのサイトは唯一の私の実績になり、これを『種』としてスタートするしかなかったからだ。無料だから、安いからといって手を抜いたものは決して次には繋がらない

しかしそれは損得抜きに面白い作業だった。
イラストレーターの作品を生かし、そしてWebデザインとコラボレートする。
もちろん主はイラストレーターの作品には違いないが、それと対等な力関係でWebデザインが存在する。私はこの仕事で「Webデザイナーは単なるオペレータではなく、クライアントのパートナーとなるべき存在」だということを知った。それにはクライアントの3つのしこう-思考、志向、嗜好を知る必要がある。
私は何度もおじゃまして遅くまで語り彼の仕事の話を聞きすべての作品も見せてもらった。

こうしてできたサイトをイラストレーターはとても喜んでくれて、その後しばらくして一流の建築士の方を紹介してくれた。
やった繋がった!凄く嬉しかった。
この建築士のサイトが私の有償での第一号の仕事となった。手法は古いけれどデザインは10年近くたった今でも色褪せていないと思っている。
このサイトはのちに『Webデザインの見本帳』に5Pに渡って紹介された。

それでもその後次々仕事が舞い込んで来たかと言えばやはりそう甘いものではない。
相変わらず私は生活のために半分は子供関係の仕事を続け、それ以外は時々来るちょっとしたデザインの仕事を行なってなんとか食い繋いでいた。

「とりあえず仕事あるんだしそんなに焦らなくてもいいじゃない」と人は言ったけれど、そういうわけにはいかなかった。上の娘が私立中学受験を決め、折りしも連れ合いの仕事である製版業界や印刷関係は、主流になりつつあるDTPに押されバタバタと倒産しはじめた。皮肉なことに私が向かった「PCで仕事をするスタイル」が、もともとのアナログの職人を排除する結果になっていた。

「このままではヤバイかもしれない」誰が悪いわけでもないけれど、これが時代の流れた。
連れ合いがコケた時には私が頑張るしかない。
歩みを止めるわけにはいかなかった。

そんなとき、地域新聞の広告欄である募集を見た。
「主婦が主婦に教えるパソコン教室講師募集」
早速電話してみると若い女性の声で「すぐ会いたい」とのこと。
予感めいたものを感じ私は翌日多摩センターに出向いた。

そこにはエポックメイキングな出逢いが待っていた。

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2006年07月31日

【幸せな仕事―1主婦の起業物語】第3回 インターネットは『どこでもドア?』


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1995年ウチにWindows95のパソコンが来た。連れ合いが欲しがって買ったものだ。
当時私は「パソコンなんて買ったってどうせ埃かぶるだけだからやめなよ」と言い放っていた。
それがミイラ取りがミイラになったような状況だから笑えない。
PCのスペックも今では考えられないHDD 1GB、メモリー8MBという恐ろしい環境で価格は今より高い(35万前後)だったと思う。初めの1年はPCは連れ合いが音楽やゲーム遊びをするのと私の子供関係の仕事の「お知らせ作り」以外には使われなかった。

私がハマりはじめたのはNiftyのパソコン通信で、ある音楽の会議室でチャットを始めたことだった。私はこの10年子供とともに音楽や造形の活動をしてきたが、実際は自分が本当に好きだった種類の音楽や映像などからは逆に遠ざかっていた。すべてが「子供」中心だったのでそれ以外のものは無意識のうちに封じ込めていたのだ。
でも、本当に純粋に音楽や映画のことを語るうちに私の中の眠っていたものにちょっとばかり「火」がついてしまった
美大を目指していたころの気持ち、仲間と芸術やデザインについて語っていたこと、子供や生活や当時の仕事ではなく本来私がやりたかったこと、大切に思っていたこと。。

その頃そういったパソコン通信などで楽しんでいたのは、PCに詳しいいわゆるオタク系の人が多かった。そういった人たちは私にいろんな情報をもたらしてくれた。あるアーティストの詳しい情報や滅多に手に入らない音源などをくれたり、私の知らない世界を見せてくれた。
今でこそ、欲しい情報を手に入れるのに人の手を借りる必要はないけれど、当時まだネットを知らない私には、それはとても「凄いこと」のように思えた。
まだ誰もまわりでインターネットをやっている人さえいない状態で、PC初心者の私は彼らにどれだけ教えてもらったか分からない。顔が見えないネットでの関係に警戒よりも好奇心と可能性を遥かに大きく感じていた。

インターネットは私の世界を広げてくれる『どこでもドア?』
主婦の世界は狭い。家、学校関係、地域関係、そして仕事と言っても私の場合やはり主婦と子供相手の限られたもの、不満足なわけではなかったけれど、どこかでくすぶっていたものがあるのだろう。
外界に繋がるひとつのドアはものすごく魅力的に見えていた。

一旦そうなるとこれまでの自分の仕事に少しずつ興味が薄れていった。やるだけのことをやったという達成感があったことと、子供も大きくなり少し手が離れてきたこともあった。
「潮時」という言葉が浮かぶ。これ以上この仕事に最盛期の情熱を傾けられないと思った。
それと同時に「インターネットで何か仕事ができないか」という気持ちがむくむくと湧きあがってきた。子育てと家事を同時に行なわないといけない主婦こそネットの恩恵を120%活用できるのではないか、ネットを介してだったら諦めていたデザインの仕事もできるのではないか・・・と。

そう思うといてもたってもいられなくなり、私はリトミックの仕事の半分をやめて2D、3Dグラフィックを勉強しに行くことにした。やはりやるならデザインだ。
3ヶ月ほど個人授業を受けたが、今思えばそこで教えてもらったことはきっかけにはなっても、正直たいして役にはたっていない。結局現在Webデザインの仕事に役立つスキルのほとんど90%は独学によるものだ
とはいえ学んでいる3ヶ月間は楽しかった。フォトショップ、イラストレーター、3Dソフト、そしてホームページ制作の基礎を習い、もともとデザインも1からではないので「覚えが早い」「センスがいい」と若くカッコいい先生に誉められてますます調子に乗っていた。卒業したらすぐにでもデザイナーとして仕事になるように錯覚していた。

でも私の心境の変化は家族にとってはあまり望ましいものではなく、風当たりは強かった。
ネットに嵌る母、PCに向かって笑いかけ独り言を言う妻、そしていそいそと楽しげに勉強に出かけていくことは受け入れがたいものもあったんだろう。
この頃を振り返り娘達は「ママのパソコンを何度窓から捨てたいと思ったかわかならい」と言う。連れ合いにおいては「気持ちが悪い」とさえ言われた。
でも『どこでもドア』に向かう気持ちは止められなかった。

しかし私の第2の挫折は勉強が終わったあとに来た。
ときめきながら開けた『どこでもドア』の先に待っていたのは、何もない『荒野』だった。

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2006年07月17日

【幸せな仕事―1主婦の起業物語】第2回 子供がいるからこそできる仕事


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子供が生まれて1年間、私は生涯で一度きりと思われる「専業主婦」になった。
娘はものすごく愛しかった。赤ちゃんだった娘がだんだん大きくなり、表情も出てきてハイハイし、ヨチヨチ歩くようになり、片言を話すようになり、その一年の成長は人並みに嬉しく、一度たりとも子供を産んだことを後悔した日はない。連れ合いも定職について細々とだけれど生活はできた。

でも自分は「番犬」になった気がした。自分から会社という看板とその立場での仕事をとったら何が残るのだろう。。「誰も私のことを知らない」「世間は私が子供のそばで添い寝している時に私に関係なく動いている」
そんなの何かの間違いだ!!
近所のお母さんとの付き合いにどうしようもなく違和感を感じ、結局公園デビューもできないまま、このままでは自分がダメになってしまうという憔悴感で押しつぶされそうになっていた。まだ24歳、このまま埋もれたくないって気持ちが強かった。

そんな時、近所の喫茶店で「写真を飾らないか」という話があった。

たまたまマスターに趣味の写真を見せたことがキッカケだった。私はその企画に夢中で飛びついた。写真展は大盛況で多くの人が喫茶店を訪れてなんと小さい額入りの写真は30枚あまり売れた。この経験は、砂漠で死ぬほど喉が渇いていたところにオアシスで一気に喉を潤すほど私を昇天させ、溜まっていた欲求を衝動に突き動かす転機となった。
「仕事がしたい。それも自分しかできない、自分の“今”を生かせる仕事がしたい」

私はありったけの情報を集め(と言っても当時インターネットはなくアルバイト情報誌のみ)一番ふさわしいと思われるものを見つけた。
幼児リトミック・・・それは以前黒柳徹子さんの「窓際のトットちゃん」で知り興味を持っていたもので、自分の音楽の経験と想像力、そしてリアルタイムの子育て経験が生かせるものだと思った。なんと言っても幼児リトミックは午前中から午後の早い時間にかけての仕事であることが良かった。
たまたま運の良いことに、知り合いの保母さんが保育園の0歳児枠がひとつ空いていることを教えてくれた。私はリトミック講師の資格が取れる専門学校に申し込み、なんとこの時は「学生」を理由に保育園に入れてもらったのだ。学費の30万はやめた仕事で得た失業保険で賄った。
1才になる前の娘を保育園に入れることには躊躇いはなかった。なぜならその保育園がとても評判が良く、ストレスを貯めた私の元で四六時中過ごすより遥かに健全だと思えたからだ。

リトミックの勉強は音楽的な要素以外にも幼児の発達段階や心理を学ぶ必要もあり、それは子育てにそのまま生かされるものでもあった。沢山の手遊び歌や子供の表現遊びなどを覚え自分でも創作した。
娘は私のよき練習台になり、またよき先生でもあった。娘が喜ぶこと=生徒が喜ぶことという基準で、さまざまなカリキュラムを開発した。娘は私の仕事の発想の源だった
勉強し始めて3ヵ月後に、仕事の斡旋もしていた専門学校から1つ目の教室を持たせてもらい、その半年後には一気に3教室の講師になった。ちょうど幼児リトミックが流行り始めた“ハシリ”だったので運も良かったんだろう。
翌年には自力で地域のセンターを使って立ち上げたサークルが2つ増え、専門学校で講師育成のための授業も行なうようになり、それこそ毎日がリトミック三昧の日々となった。
娘が生まれてからちょうど丸3年たったとき、私の幼児リトミックの生徒は1週間で総勢200名くらいだったと記憶している。
ちょうどその時に2人目の娘を出産しているが、今度は産前産後1ヶ月ずつの産休で復帰した。
2人目が生まれて、保育園生活も大変にはなったが、それでも勢いは留まらず、さらに自宅でピアノ教室の開き、子供の造形教室を開いた。子供の教育、これぞ『天職』と思っていた。

このリトミックと子供の情操教育に費やした10年あまりは、私のひとつの時代として今も輝かしい思い出になっている。自分の娘達を2人育てながら、子供の教育に関わるこの仕事にすべてのエネルギーをかけてきたことは現在の私の根底にある「自信」に繋がっている。
もちろん10年をひとくくりには語れず、その中にはやりきれないことや挫折、相棒とのすれ違いなどいろいろあった。仕事で辛いとき、保育園に迎に行くと幼い娘が両手を広げて飛び込んでくる笑顔にどれだけ救われたか分からない。「何があっても私にはこの子がいる」それは母親でなければわからない最後の砦だ。
私は自分の娘達は保育園に入れ、他人の子供を教えるというある意味矛盾した仕事をしていた訳だが、でも娘達は「リトミックやピアノの先生をやっていた頃のママが好き」と今でも言う。それは私にとって何よりも勲章であることは言うまでもない。

そこまで情熱を傾けていた私が、ある時すべての教室を手放してしまった。(正確には小学生の造形教室だけ現在も継続)
1995年、それはWindowsの幕開けとともに始まった。

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2006年07月05日

【幸せな仕事―1主婦の起業物語】第1回 出来ちゃったんだからしょうがない


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「とりあえずインテリアコーディネーターでいいかぁ」今から遥か20年ほど前(自分では昨日のようだけど)、美大のデザイン科の4年生だった私は進路を決めたばかりだった。
自分がなりたいものは「キャリアウーマン」、今で言う「バリキャリ」に憧れていた。
でも何がやりたいか。。。正直それはまだよく分かっていなかった。自分が輝かしく働いているイメージが漠然とあるだけで何も具体性はなかった。ただこの時思っていたことは「小さいデザイン会社で毎日遅くまで地味な作業をするのだけはイヤ!」ということ。
大学から推薦があった条件の良さそうな会社をいくつかあたり、当時名前がカッコよさげに見えた“インテリアコーディネーター”を目指して、大手建設業のリフォーム会社に就職した。1986年4月、今から思えばまだバブルの’ハシリ’で「就職難」という言葉とは無縁の時代だった。


その私が今、まさしく「小さいWEBデザイン会社」を作って、毎日遅くまで地味な作業をしている。
あの頃を振り返ると「人生はどう転ぶかわからない」と苦笑する。でも当時「イヤ!」だったこの状況はある意味私の天職であり、紆余曲折の末たどり着いた道だと思っている。

この物語はそんな私の20年間の行き当たりばったり、七転び八起きの仕事史そして自分史である。

話を戻して、就職して右も左もわからない状態から薄々わかってきたことは“インテリアコーディネーター”はそう簡単ではないということ、そして思っていたようにカッコイイ仕事でもないということだ。実際には2級建築士程度の知識も必要だし、多くの業者さんとの間に入って上手くやっていかなくてはいけない。やはり残業も多い。でも抱える不満は比較的給料が良かったことで打ち消されていた。とりあえずこのまま何年かこの会社に勤めることになるのだろうと思われた矢先に。。

妊娠した。当時23歳、就職して1年目の秋の終りだった。これは想定外のことだった。もちろんまだ結婚していない。でも結果が明らかになった日、不思議なことに産むことを躊躇う気持ちはなかった。
連れ合いはフリーで仕事も安定せず先の保証は全くなかったけれど、何故か不安に思わなかった。
そこからは急転直下で動いた。一週間後には両方の親に挨拶し、年明けには妊娠5ヶ月で結婚式をあげた。でもこの時点でまだ仕事を辞めることになるとは思っていなかった。

産休をとって当然復帰できると思っていた私に、それこそ「バリキャリ」の独身女性上司が言った。
「この業界は納期もあり夜も遅く、今の若いあなたに初めての子育てとこれからますます責任の重くなる仕事の両方がこなせるとは思えない。産休をとって仕事を続ける権利はあるけれど、私は現場の責任者としてあなたが無理やり仕事を続けることによって起こりえるフォローを他のスタッフに強いたくない。あなたは若いし子育てが一段落してからでも十分復帰はできるから、今は悪いことは言わないから子育てに専念したほうがいい

尤もなことだけに抵抗はできなかった。正直、子育てと両立できるかも自信もない部分もあったので、憤然とした気持ちは持ちつつも、ちょうどまる1年の春に退職することになった。男性の上司は同情してか「事務職に移って産後も続けるよう頼んでみようか」と持ちかけてくれたが、それは自分のプライドが許さなかった。当時はかなり悔しかったが、今もし私がその女性上司だったらたぶん同じことを言うと思う。確かにその頃の私は「まわりがフォローしてまで必要な人材」ではなかった。

こうして私は職を失い、全く安定性のない連れ合いと子供を育てていかなければならない窮地に追い込まれた。でも割り切りのよいB型性格と獅子座の強気と本来のプラス思考が幸いしてかあまり深刻には悩まなかった。
「できちゃったんだからしょうがない。どうにかなるさ!」
しょうがないと言いつつもそれだけ産まれてくる子供に希望があったのだと思う。仕事を失うより生活が苦しくなることより遥かに大きな希望が!!
仕事を失ったその日から私の興味は急激に「子供」に移っていった。

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