投稿者 村山らむね
ワーキングマザーの力強い味方、ワーキングマザーのための雑誌「bizmom(ビズマム)」の編集長を3月まで務めていらした糸藤友子さん。リクルート入社後、ベビカム編集長に転職、その後、契約社員としてベネッセに入社され、bizmom(ビズマム)の編集長に抜擢されたという経歴をお持ちです。インタビュー後に異動され、現在は株式会社ベネッセコーポレーション Woman&Family事業本部に所属なさっています。
とても自然体で気さくなお人柄は、男女問わず他業界にもファンが多いというのも納得です。お二人の息子さんの子育てについても迫ってみました。今回は、bizmom(ビズマム)創刊以来の大ファンである、ワーキングマザースタイルのスタッフ、小梅さんとご一緒してきました。
― まず今までのキャリアをお話いただけますか。
糸藤友子さん(以下 糸藤さん):まずは、新卒でリクルートという会社に入ってます。
― 丙午(ひのえうま)でいらっしゃいます?
糸藤さん:はい、そうです。
― わたしもなんです。
糸藤さん:本当ですか?同じ時代を生きてますね。雇用機会均等法制定が86年にあって、普通に女性も男性も関係なく就職活動していたらやっぱりまだ…という時代ですね。わたしは、自分の好きなことを仕事にするのがいいだろうなと、そして、女性の生活に近いところの仕事のほうが、何か楽しそうかなと思ったんです。それで、住宅メーカーとかに行ったんですよね。そうしたら、やっぱり当時女性には制服があって、女性の営業職はないから、女性は男性をサポートする仕事であるとか、結構びっくりしてしまって。それまで、普通に小学校、中学校、高校、大学と来て、男だからとか、女だからっていう育てられ方もわたしはしたことがなかったし、大学でも女子は、男子はって言われたことはなかったので、戸惑いましたね。
1989年(23歳) リクルート入社
1994年(27歳) 結婚
1996年(29歳) 長男出産
1997年(30歳) 復職 「赤すぐ」に転部
2001年(34歳) 妊娠、ベビカムに転職、次男出産
2002年(35歳) ベネッセに転職
2007年(41歳) bizmom(ビズマム)担当
― ご兄弟はどのような構成ですか?
糸藤さん:三姉妹の真ん中です。なので、父にも小さいころから、女性でも手に職をつけて、人の役に立つ仕事を一生懸命しなさいって言われていました。母は、薬剤師でずっと働いていたので。
ワーキングマザースタイルのスタッフ小梅さん(以下小梅さん):お母さまの影響は、大きいですよね。
糸藤さん:そうですね。影響はすごくありましたね。就職活動したら「あれ?」って思ってしまって。そこで、業種で選ぶよりも、男女も、年齢も、大卒だとか高卒だとか関係なく、誰もが頑張ったら頑張っただけ認めてもらえる会社がいいなと、最初の就職活動のつまずきから結論を出して、それでリクルートという会社を選んだんです。リクルートはすごいオープンな会社で、男性とか女性とか関係なかったし、高卒の先輩もいたんですね。自分よりも年齢は下の先輩が活躍していたりしました。区別はあっても、差別はないという会社だったんです。そこで一生懸命仕事をしたんですね。それで、子どもができました。入社8年目で子どもを出産しました。
当時、育休制度は、リクルートの中ではある程度定着はしていて、当たり前に産んで帰っておいでよと言われましたけど、でも、産んでも100%仕事に没頭できている先輩は、みな、ご実家の近くに引っ越されたりとか、親御さんが田舎から出てきて、娘の両立を応援したりしている状態でした。リクルートできっちり働くためにはそういう親がかりが必要だったんですね。わたしのほうは、そこまでしなくても、出産して子育てが楽しかったらいったん辞めてもいいかなぐらいで思ってまして。一回辞めて、またどこか就職したらいいみたいに、考えていたんですね。今だと、絶対にそんなことは難しいと思えるんですけど。
ところが産んでみて、長男の育休のときに、1年間つらくて。今まで仕事を通じて頑張ったら、頑張っただけ評価されて、毎日達成感を感じていたし。お金も時間も自由だしっていう毎日から、急に、今日は何曜日だっけという毎日になって、育児ノイローゼの一歩手前まで行きましたね。自分の思い通りにいかないことがあったんだって、初めての体験でした。
小梅さん:私もそれは衝撃的でしたね。
糸藤さん:そう、世の中、自分の思い通りにいかないことがあったんだって。まだ、若かったんですね。
― それまではトントン拍子でいらっしゃったんですね。
糸藤さん:リクルートっていうところは頑張ったら、頑張っただけ返ってくる。それが育児は違いますよね。わたし「魔のトライアングル」と呼んでいるんですけど、家とスーパーと公園、その三箇所をぐるぐる回って溶けちゃうんじゃないかって思うぐらい、絶望的に達成感のない日々で。今は当たり前と思えるんですけどなんですけど、一生懸命離乳食作ったって、子どもは食べないときもあるし。
小梅さん:そうですよね。ぱっと、ひっくり返しちゃったりすることもあるし。
糸藤さん:そうそう。
昨日は1時にお昼寝して1時間だけ自分の時間を持てて本が読めてすごくうれしかったのに今日は何で寝ないのって、イライラしてみたり。それで育児だけではつらいって思って、育休復帰をしたんですね。育休復帰したものの、親のサポートは基本的にはなかなか難しい状況。夫の実家が奈良で、わたしの実家が群馬なので、じゃ、二人でどうにかやりくりするしかなかったんです。
96年当時、リクルートでも時短勤務みたいなのが、少しずつスタートしていて、じゃあ時短勤務で働いてみようかなと思い、戻りました。そのときは広報にいたんです、リクルートの社内報の編集。
小梅さん:わたしもリクルートに何年か、在籍していました。
糸藤さん:本当ですか?どの部署に、小梅さんはいらしたんですか?
小梅さん:わたしは、新規のウェブとかプロモーションの部署でした。
― わたしも一時期リクルートの方々とカフェのオーナーになっていた時期があるので、何か、自分もいたような錯角が…。
小梅さん:リクルートはオープンな感じがありますよね。
― すごく吸着力が強いというか、好奇心の塊のような方がたくさんいらっしゃいますね。戻られてからはどういうキャリアを形成なさったのですか?
糸藤さん:わたし自分の興味あることを仕事にするのが多分好きなんですよね。なので、子どもとか育児をテーマに仕事にしたいと思って、妊娠・出産期の通販雑誌「赤すぐ」に異動しました。復帰して4年ぐらいたって二人目を懐妊しまして。2000年に。
で、どうしようかなと。先ほども言ったように、リクルートで本気で上に上がっていこうとして、かつ子どものいる方は、おばあちゃんにサポートしてもらったりとか、夫が専業主夫だったりとか、そういう状況のかたも多いんです。「自分の好きな仕事をしていたいよね」みたいな人たちって、契約社員として続ける人も多かったんですね。
「赤すぐ」に異動した理由は、雑誌を作りたいという気持ちに加えて、自分の育休時代のつらかったこととか、密室の育児にならざるを得ない社会環境とか、問題意識をもっていたからなんですね。もっとお母さんたちが元気になれて、その結果子どもも元気になれるっていう、そんな一石を投じたかった。自分が働くことで生き生きとなれたから、それをもっと本質的な仕事に生かしたいそんな気持ちが芽生えたのです。ただ、異動したものの、これから契約社員になって、与えられたページだけをやるのはどうかなと思って。リクルートの中で、頑張って夜中まで仕事するのは難しいかなと。いっそのこと、働き方を変えようと思って、小さなベンチャーに転職をしたんですよ。ベビカムっていうサイトなんですけど。妊娠中に転職をさせていただいて。
― 妊娠中に?
糸藤さん:そうなんです。産休アンドちょっと育休で、3ヶ月で戻りました。入院する直前まで家で仕事をしていて、陣痛が来たのでそろそろ病院に行きますとか。退院してきて、元気に帰ってきたので、滞っていた仕事を、少しずつ始めますみたいな感じで。ほとんど休まずに働いていて。わたしは精神的にはそっちのほうが良かったのかなと思います。
わたし、好奇心旺盛なので(笑)、やっているうちに段々と営業広告もやったり、サイトもどんどん人数も増えてきて、活性化もし始めたんですけど、ただ、やっぱりちょっと待てよと。
そのときちょうど34とか35だったんですけど、ここから自分の人生、どうしようかと思って。このサイトで2万人を相手にやってみるよりも、もしかしたらもっとたくさんのお母さんたちや子どもたちの役立つための、もしかしたら最後の転職のチャンスなのかもと思って。
もっと世の中に影響力のある仕事をやってみたい。今だったらそれができるのではないかと。影響力っていうのは、たくさんの人たちに伝える力のある仕事という意味なんですけど、だったらもうベネッセしかないと思いました。そこでベネッセの人事に電話して「私、これこれ、こういう者なのですが」と。
― すごいですね。
糸藤さん:結局、人事の方に会っていただけて、ベネッセに2002年に転職しました。下の子が1歳過ぎぐらいですかね、転職をしています。ただ、やっぱりそのときにですね、今思うと本当にいい経験をしたなと思うんですが、35歳で、1歳5カ月の子どもがいて、あと、わたしのスキル的にも足らなかったと思うんですけど、正社員ではなく契約社員での採用になりました。当時、35歳の中途採用は珍しく、「あの人、誰?」っていうところから始まって、もう本当に、消しゴムの場所も分らないし、伝票の書き方も分らない。本当に一からやらせていただいて。
― どんな部署にいらしたんですか?
糸藤さん:最初は、「こどもちゃれんじ」(キャラクターは「しまじろう」)のブランドの部門にいたんですね。インターネットの会社にいたことから、まずは「しまじろうサイト」担当をやりました。
その中で何か新しいビジネス、「こどもちゃれんじ」で新しい価値を会員のみなさんに提供しようという機運があったんです。これまでの"教育”“遊び”の支援に加えて、“生活”の支援、親子の、子どもたちの、「毎日の暮らし」を支援できないかっていうことが、一つのテーマでありました。そこで、「生活用品の通販を立ち上げよう」となり、リーダーとふたりで担当することになりました。立ち上げて数年間で、大きな成果を出すことができました。その成功が、今の私の大きな自信の1つであり、ベネッセでのバックグラウンドになっています。
小梅さん:bizmom(ビズマム)が最初2005年に、「たまひよ」の別冊みたいなかたちで出たときに、わたし、すごい感動して。表紙もすごく覚えているんですけど、そこの企画段階から携わっていたのですか?
糸藤さん:いや、わたしの参加は2007年からです。ベネッセでは「たまごクラブ」、「ひよこクラブ」、「こっこクラブ」という流れをつくっているんですけど、今でも出産と育児で7割の母親が退職するわけで、当時の読者は専業主婦のかたを中心に考えていました。でも、ずいぶん働き続ける人が増えてきているよねと。じゃまずは「ひよこクラブ」の不定期刊で雑誌を出してみよう、となったのが、2005年の小梅さんがご覧になったのはその号かと思います。
私が担当になったのは、これから本格的に少子高齢化になって、労働力も足らなくなる。ワーキングマザーが増えていく事実に対して、ベネッセとしてどういうふうな、新しいマーケットを作るべきか。既存のマーケットに対しても手を打っていったりしなくてはいけないよねということで、いよいよワーキングマザーを1つのテーマにしようとなったわけです。多くの情報を集め、ネットワークを構築するために、ブランド発信をするうえでも、雑誌の役割は大きい、そこで、2008年の春から、季刊にしました。
小梅さん:リクルートで仕事をしていて、周囲にいた人も独身ばかりなので、子どもがいるどころか、結婚している人もいない状態で、本当に1人で孤独で、もう家事と育児と仕事のバランスが取れなくてってなっているときだったので、本当に感動して。いろんな方のね、たくさん事例がよかったですよね。
― ワーキングマザーというテーマにこだわれている理由は、糸藤さんの経験のほかに何かありますか?
糸藤さん:そうですね。そもそもワーキングマザーとどんな縁があるかっていうと、すごい縁が深くてですね、いろいろと。一つはうちの母がずっと働いているお母さんだった。小さいころから薬剤師として働く母の背中を見ながら、何か、お母さんが働いていることが当たり前だったんです。もう一つは卒論のテーマ。アグネス論争って覚えてます?
― ええ、覚えてます。
糸藤さん:林真理子VSアグネス。わたしは、社会学を勉強していて、家族学とか社会学の中で、ワーキングマザーをテーマに卒論をたまたま書いていたんです。
女性が出産しても働き続けるためには、どうしたらいいのかと。何が問題なのかと。当時アメリカでも、スーパーマザー症候群って、頑張り過ぎてゴムが切れてしてしまうワーキングマザーの話とかありましたよね。
自分が育休でつらい思いをしたりとか、どうにか転職もしながら働き続けてきたり、そんな経験もありながら、ワーキングマザーというテーマが自分の中でいつもいつもあったんだと思いますね。
― いろんなインタビューなんかも読ませていただいて、存じ上げている部分もあるんですけども、お母様が薬剤師というのは、知りませんでした。
糸藤さん:祖母も、薬剤師で。今96歳のおばあちゃんなんですけど。
小梅さん:素晴らしいですね。職業婦人ですね。子どもがいても、自立して働いていくんだよっていうお母さんの精神は見事についでいらっしゃる。
糸藤さん:そうね。
― ワーキングマザーに対する処方せんを配ってるっていう意味では、ある意味薬剤師さんですね。
糸藤さん:ありがとうございます。うち実家は、まちの薬屋なんですよ。近所の人とかが、夜中子どもが熱が出ちゃうと、シャッターをたたいたり、電話を掛けてくるんですよね。12時でも、1時でも。そうすると、母は一人でパジャマの上にコートを掛けて、薬を売ってあげるんですよね。働くっていうのは、端の人を楽にすることだっていつも言っていて。
なので、わたしももちろん結果としては、それがお金になったらうれしいですけど、人の役に立つとか、誰かが元気になれるとか、そういうところがうれしいですよね。なので、雑誌で、あとウェブとかではがきとかを見て一番うれしいのは、「bizmom(ビズマム)を読んで、また頑張ろうって元気になれました」とか、「わたしだけじゃないんだ、みんな、頑張っているから、わたしももう少し、頑張ってみます」とか。そんな声をいただけるとほんとこちらも元気になります。
小梅さん:わたしも毎号、まったく同様の感動と元気をいただいています。
糸藤さん:ありがとうございます。
小梅さん:本当に、こんなに頑張っている人もいるんだって。
― バンバン、宣伝します!!
糸藤さん:(笑)ありがとうございます。
小梅さん:でもわたしが最初に産んだときよりも、今の時代はワーキングマザーに対して追い風になっている気がしますね。
糸藤さん:随分、追い風になって。またこの不況で、ちょっと逆風になってしまうかな。
小梅さん:友人が最近、保育園探しをやっていたら、今年は桁が違うっと言われて。これはやっぱり不況の影響かなって。
■ベネッセという会社について
― ベネッセについては、今もワーキングマザーが大変多い会社だそうですね。
糸藤さん:そうですね。女性従業員の約4人に1人がワーキングマザーです。
小梅さん:素晴らしい。
― 女性人員の割合は?
糸藤さん:6:4で女性が多いです。
― このうちの、6割のうちの25パーセントということは、全社員の15%程度がワーキングマザーということですね。
糸藤さん:そうですね。出産や育児を理由に、辞める人はほとんどいないですね。
小梅さん:制度が、整っているということですね?
糸藤さん:3つ理由はあると思います。1つ目は制度の充実。2つ目は職場の環境や理解ですね。最後の1つはベネッセの仕事は、女性や母親が力を発揮しやすいテーマなんですよ。重厚長大の会社より、当たり前に働きやすいでしょ(笑)。「こどもちゃれんじ」などの教育、「たまごクラブ」「ひよこクラブ」に代表されるような妊娠・出産、もちろん子どもを生んでいない若手も優秀ですけど、子どもを生んだ、育てた経験が役に立つ仕事が多くあります。
小梅さん:子どもを産むことがパワーになるってことですね。
糸藤さん:そう、そう。
― 生活者としての知識が深まれば、深まるほど、それが生かされる企業ということですね。
糸藤さん:そうですね。
― 他の企業も、風向きも変わってはきてますけれども、それが積極的に評価されるっていうところまでは、行っていないのかなという印象です
糸藤さん:そうですね。最近、メーカーさんでも、例えばTOTOさんとかだと、生活者としての視点を持っている主婦や子育て経験のある母親社員を、子どものトイレの開発にアサインしたり。これからもっと変わってくるとは、思うんですけどね。
― また、男性もお父さんになることが、社内で評価されるようなかたちになると、もうぐぐっと、何か日本も変わってくる。
小梅さん:やっぱり男性のサポートがないと、結局回らないですものね。つぶれていっちゃいますよね、女性が。
糸藤さん:そうですね、夫の協力は大切だと思います。
■夫と息子たちは、一番力強い応援団
― じゃ、自然にちょっとだんな様に話が流れますね。旦那様は協力的ですか?
糸藤さん:はい、ただ協力したい気持ちはあっても、忙しくて時間がない、という現実です。
小梅さん:応援団ですよね。フレー、フレーってやってくれてるんですね。でも、手は出さず?
糸藤さん:そう、手は出させず。理解はずっとしてくれている(笑)。
― うちは逆ですね。理解はあんまりしてないと思うんですけど、わりと手は出してくれます。わたしが全然、家事ができない人なので。料理をやればもうぐっちゃぐちゃで。もう、お皿洗えば割っちゃうという感じなので。もう彼がやらざるを得ないっていう感じではあるんですけれども。でも、どちらかであってくれればいいんですね。精神的な理解か、本当に手を出してくれるか、どちらかせめて。
糸藤さん:34歳以下のワーキングマザーたちは、夫と二人で育児も家事もやりながら仕事もしているっていう感じがありますね。それを実現するために戦っているママたちも、たくさんいますし。
小梅さん:女性のほうが結構縛られていたりするんですよね、無意識に。
糸藤さん:そうですね、わたしも、できれば自分が料理や家事をしたほうが、スムーズだしおいしい、って思っていますし、実際にもやりくりしています。でもわたしが忙しくて家事ができない状況のときは、コンビニの弁当でも全くいいし。洗濯も全く畳まなくていいよ、と言ってくれます。その洗濯ものの中からみんなで引っ張ろうよとか、言ってますし。(笑)
― それは糸藤さんが“できちゃう人”だからだと思うんですけどね。
小梅さん:できちゃうって、大きいですよね。
― わたしたち、ワーキングマザースタイルというサイトなんですけど、スタッフで飲み会とかすると、夜出られないというお母さん、すごく多いんですよ。私にはいつも二つ思いがあって「偉いな」っていうのと、「出てこいよ」っていうのと。
糸藤さん:例えばわたしだと、上の子が生まれたときから、週に一回、夜自由な日をつくっていたんですね。そのときには、保育ママさんにお願いをして、夜9時までには夫が迎えにいくっていうかたちにはしてなんとか自分の時間を作っていましたね。まあ、それはそれぞれの家のかたちがあれば、いいのかなと。
小梅さん:うちも、今、そんな感じになってます。三回分の洗濯の山からシャツ取って、みたいな。
糸藤さん:ええ、それで文句言ったら「じゃあ、あなたやって」って(笑)。
小梅さん:言った人がやるっていうルールが不可欠ですね。
― じゃあ、次にお子さまのことをお聞きしてもいいですか。ご長男が12歳ということは……。
糸藤さん:今、中1。下が小2です。
― 受験をされたってお聞きしましたが?
糸藤さん:そうです。昨年中学受験をしまして、今は私立の中学校に。大変だったでしょうって言われると、わたし、本当に大変じゃなかったんですね。
― おできになるお子さんをお持ちのお母さんって、必ずそうおっしゃるんです。
小梅さん:勉強しろなんて、言わなかったとか言いますよね。
糸藤さん:そうなんです。がんばったのは、毎日、塾のお弁当をつくるぐらい。
― いやあ、うらやましい。
糸藤さん:でも、宿題の多さや、親の手間の多さなど、ちゃんと先輩ママや専業のママたちにヒアリングをして、拘束時間は長くても、宿題が少なくて、塾でできるだけ完結するところを選びました(笑)。
小梅さん:そうですよね。家に帰ってまで宿題の面倒は見られませんものね。
糸藤さん:うん、やっぱりそこのサポートが大変そうじゃないですか。あとは、本当に君は受験をしたいのかということを、最初にはっきりさせましたね。お母さんがしたいわけじゃないと。君がしたいんだったら、お母さんととうちゃんは応援するという姿勢ですね。本人に、預ける。それで息子なりに考えて、「受験したい」となりました。
― ご本人の意思が、固まったというのは、心から褒めて差し上げたいですね。
糸藤さん:そうですね、頑張ってましたよ。だから最後は、合格しようがしまいが、本当に褒めてあげたかった。あと、できることだったら合格させてあげたいって思ったのは、達成感を味あわせてあげたいという気持ちからですね。自分が一番行きたい中学校に「頑張ったから行けた」んだと。「「頑張れば、できるんだ、かなうんだ」っていうことを経験させてあげたいと思ったので。そういう意味では、本当に合格できてよかったなとは思いますね。
― 素晴らしいですね。そういう自然体で受験ができればいいですね。うちも、今度6年生なので。
糸藤さん:そうですか。頑張ってください。
― うちはもう全然、レベルが違うので。
糸藤さん:でも、本当に受験は大変ですけど、子どもが望むんだったら、最大限のサポートをしてあげたいなって思いますね。
― お子さんたちも何か、雑誌が売れたって言うと喜ばれるそうですね。
糸藤さん:そう、喜んでます。お母さんを応援しているって。息子たちには、よく仕事の話しをしています。うれしいことも、失敗したことも。今日ね、こういう人を取材したんだよとか。わたしが朝、スーツとか着ていると、「今日は何? 偉い会議なの?それとも取材なの?」って。
小梅さん:すてき。それはお兄ちゃんのほうですか。
糸藤さん:下が言いますね。あと、「うちはお母さんも働いているから、家族みんなで協力してほしい」って、小さいうちから手伝いをさせたりしています。洗濯やご飯炊きは、子どもの仕事です。
― 家族で、外出、休日を過ごすときには、どういう過ごし方をなさってますか。
糸藤さん:そうですね、どうかな。おいしいものを食べに、家族で外食に行ったりとかはしますけど。夏とかはキャンプに行ったりとか。でも、そんな特筆するほど素晴らしい過ごし方をしているわけでは全然ないですし。休日は子どものために!なんて考えていないですね。習い事なども私が積極的にさせることはないですね。彼らがしたいと言えばさせてますけど、親が英語をやらせなきゃとか、何かをやらせなきゃとか、わたしは本当に全くなくて、あまり熱心ではないんですよ。
小梅さん:確かにわたしの周り、今ちょうど35歳で団塊ジュニアだけで集まって、働くママの会をやっているんです。とってもみんな教育熱心で。
糸藤さん:そうですよね。特にね、東京に住んでいるママたちはね。
小梅さん:二人目を生むのも当たり前だし。だから、小学校の壁とか、二人目の壁って結構ないのかなと思って。わたしたちの世代って。そこが、多分、この5年で大きく変わったんじゃないかなって思っているんですけど。
糸藤さん:そうですか。
小梅さん:飲み会を企画していて、今回10人来るんですけど、4人が今年中妊娠って書いているんです。
糸藤さん:その方たちって、大きな会社に勤めている人ですか?
小梅さん:皆さん、大企業ですね。かつ、専門職。事務職じゃないんです。
糸藤さん:だからですよ。わたしたちの雑誌で定量調査していくと、二人目の壁はまだまだありますよね。小1の壁についても、皆さん、とても心配しています。
小梅さん:ちょっと特殊なんでしょうかね。まあ、わたしの知り合いが。
糸藤さん:大きな会社は制度的なバックアップが十分ですよね。
小梅さん:あと、最近のテーマはお受験や習い事はどうするとか、本当に専業主婦の人たちの会話と同じような内容をしていますね。
― 育児と仕事の両立が自然体になってきたんですね。
糸藤さん:取材をしていくと、シッターさんにお願いしたり、夫にお願いしてとか、いろいろケースが出てきます。それぞれ補完するやり方を皆さん、工夫されてらっしゃるわけですよね。
― 自転車を駆使して2本立て、3本立てとか。うちも火曜日は3本立てですね。女の子だと、お友達がやっていると、自分もやりたがるんですよね。やりたがるし、やめたがらないからついつい、すごく多くなっちゃって。月謝を計算すると怖くなるみたいな。
■覚悟のある人を応援したい
― じゃあ、ちょっとお子さんの話っていうのが、一段落しましたので。次は、これからやりたいことをお聞かせいただけますか?
糸藤さん:子どもを産み、育てる、そして長く働きつづけるという当たり前の選択を、すべての女性ができるようになるといいなって思っています。働くって精神的にも、経済的にも、大きなやりがいを生むと思うんですよ。だから働くこと、産むこと、育てることが、当たり前になればいいとおもいますね。
今、「bizmom」の読者は、自分たちよりも一世代下の30代のママが中心なんですけど、元気に子育ても仕事も楽しみながら、いろんな課題はあるけど、そういう課題は一生懸命どうにか解決をしながら、自分らしく働いていてよかったって思ってもらえるような機会とか、きっかけとかをもっと提供できるといいなと思っていますね。
あと2月末に、「おしごとパーク」というママの再就職を応援するサイトをウィメンズパークの中で始めました。出産で働き続ける環境がなかったりとか、夫の転勤があったりとか、あとは子どもを生んだら辞めるものだろうと気楽に考えていたりとか。そういう方に再挑戦の機会をもっと提供できればと思います。
小梅さん:本当に数年前までは、産んだら辞めるという風潮でしたよね。
糸藤さん:いや、今でもまだそうですよ。女子高生の調査とか、揺り戻し現象が見られます。なので、一回専業主婦とか、ブランクのある方にも働くっていうきっかけをご提供できるといいなって。ただ、今は不況なので求人が少なくてたいへんなんですけど。
― これは素晴らしい取り組みですね。私の前職が、もう一回働きたいというお母さんを200人ぐらいネットワークして、SOHOで仕事をしてもらうというものだったんです。主婦の面接を多分200人から300人やりましたね。
小梅さん:わたしも、面接してもらいましたよね。一人目の妊娠中。
― 懐かしいですね。その仕事のときに、すごく学歴も高くて、仕事の実績もあるんだけれども、やっぱり5〜6年完全に専業主婦をなさっていると、やっぱりちょっとコードが変わってしまうんだなと残念に思うことがありました。
糸藤さん:分ります、分ります。
― ここをもうちょっと思い出してくれればとか、新しい情報を入れてくれれば、もっと高くこの人を売れるんだけれども、やっぱり面接のときにジーパンで来てほしくなかったなとか。そういうのがあるじゃないですか。
糸藤さん:ありますね。
― だから、こういう「おしごとパーク」みたいな取り組みでも素晴らしいと思うし、再就職する専業主婦の方が、これで少しでも時給換算で50円でも100円でも高く売れてほしいなって強く思うんです。
糸藤さん:そうですね。でも、やっぱりそのために企業の意識も変えなくちゃいけないし、本人の意識も変えなくちゃいけない。働きたい、働きたいって言っても、「週3日で1日5時間、でも正社員で」って、おっしゃるんです。その条件はなかなか難しい。
小梅さん:(笑)そうですね。やりがいのある仕事がいいとか、責任のある仕事がいいとか…。
糸藤さん:そう、そう。そこの覚悟っていうあたりも、もっと持っていだきたい。
― 編集長の場合は、年下の人に、伝票を切るところから教えてもらったというように、再就職にはそういうことって必ずあるわけじゃないですか。自分で自分に対して思っている価値と、周りから見た自分の価値のギャップというものを摺り合わせていく作業が意外と、難しい。
小梅さん:そうですね、そこがつらくて、ちょっと入りづらいんでしょうね。
― そこをまた、応援してあげたいなっていうふうに思われているんですね。
糸藤さん:わたしもだから、覚悟のある人、がんばる人を、本当に応援してあげたいなって思っています。
― 企業の担当者の方も、ちょっと意識を変えていただきたいですね。
糸藤さん:そうですね。ただ、企業もボランティアじゃないので、その人を採用することで、どれだけ成果があがるか、生産性があがるかっていう観点で判断しますから。この不況で今はなかなか、再就職の道も厳しい。でも、こういう時期だからこそ勉強してみるとか、駄目もとでやってみるとか。確実にね、労働力はどんどん減っていくので長い目で見ればチャンスなんです。なので、これから出産する方は、できるならば、「辞めない、働き続ける」選択をぜひしてほしい。いったん辞めてしまった方に対しては、もう1回、小さくてもいいから、一歩踏み出してほしい、と願っています。
■最近の状況の悪化について
― 最近では、育休切りみたいな、少し問題になってきていますね。実はわたしもあとから振り返ってみると、ちょっとした育休切りだったのかなと思います。
小梅さん:わたしも完全に、育休切りです、1回目。
― 私の場合、復職したのが99年で、そのときもかなり不景気だったこともあり、なかなか自分が意図する仕事にはつけずに、結局一年後に辞めてしまいました。複雑な思いがありながらも、切りやすい存在として、育児休職中の人間がピックアップされるっていうのは、まあ致し方ないことなのかなと思いましたね。経営側から見たら、ずっと仕事をしている人と休んでいる人って見たら、取りあえず育休中の人を切るっていうのは、しょうがないことかなと。もちろんその当事者として、怒りや悲しみは今でもあるのですけど。
小梅さん:今ほど、フォローされていなかったんですね、きっと。
― もちろん、法的な保護は今よりも脆弱でした。ただ、今のように法律的な保護がされていても、罰則規定がないとこういうことが繰り返されてしまうのかなと思うんです。
糸藤さん:今、罰則規定はないと言いましたけど、法律違反は法律違反じゃないですか。だから、育休切りみたいなことをされたんだったら、労働局なりに訴え出たほうがいいと思うんですね。まだ当事者たちにも情報が足らない部分があるかなと。それはもっとメディアがちゃんと発信していかなくちゃならないとも思いますね。能力のある方は、いったん辞められても再就職とか仕事ができる現場がありますけど、正社員でずっと働き続けるのと、いったん辞めて非正規でもう一回戻るのって、それこそ生涯収入で、1億とか、1億5千万とかの違いが出てきたりするのが現実なんです。あと再就職って、本当に辞める人が思っているほど、簡単じゃない。
小梅さん:すぐ戻れるだろうって思っていますよね。
糸藤さん:そうそう。決して現実はそう簡単じゃないことをしっかり理解して、辞めるなり、働き続けるなり選択すべきだと思うんです。早期退職制度を発令した会社では、育休中の人を狙っているという話も聞きます。そんな環境の中でも続けるっていう選択をする人は、意に沿わない部署に異動させられるなど、納得できない部分もあるかもしれないけれど、辞めたくないのであれば、辞めずにがんばるしかない。もちろん退職勧告されるようなことが、法律的に違反であれば本当に訴えるべきだと思うし、なし崩し的に辞めてはいけないとは思うんですよね。
― 実際には男性と女性とのいすとりゲームになってしまっているじゃないですか。例えば事業部で10人リストラしなければいけない目標が出てしまうと、育休中の女性にスポットが当ってしまうっていうのが、悲しいなと。
糸藤さん:そうですね。難しいですよね。
― その人自身が、辞めないという強い気持ちを持つということが重要なんでしょうね。
糸藤さん:あと、仲間を募ったり声を上げることで、法律に詳しい人が応援してくれたりとか、一緒に労働局に訴えに行ってくれるかもしれないし。やっぱり泣き寝入りは決してしてはいけないとは思うんですよね。
ただ、辞めるという判断をするのは自分だし、その会社を選んだのも自分なんですよね。わたしの考え方なのかもしれないんですけど、人のせいにして、ずっとそのことを悲しんでいても、何も生まれないじゃないですか。だったら、早いタイミングで切り替えをして、続けていくんだったら必死に続けていく。辞めるんだったら、辞める。そこで資格を取るとか、やっぱり一歩でも切り替えて前に進んだほうが、いいんじゃないかなとは思うんですね。だから、育休切りとか、そういうこと自体は、許し難いことですし、あってはならないことだと思うんですけど。たまたま自分がそういう目に遭ったら、どちらかの選択を自分でするにしろ、しっかり前向きに行きたいと思いますね。
小梅さん:救えるのは自分しかいないですよね。自分の気の持ちようだったり、自分がどう動くかということしかないですよね。
― わたしなんかも、振り返って、ああいうふうに左遷されたからこそ今のわたしがあるので(笑)。
糸藤さん:そうですよね。絶対、そうだと思いますよ。
― それはすごく、感謝しているんですよね。感謝しているんですけど、でも、やっぱり心のどこかで、ずっとあの会社にいたらどうしたかなっていう気持ちも正直あって。先ほど編集長がおっしゃったように、歯を食いしばってでも続けるというオプションと、すっぱり違う人生を探すというオプションを、自分がコントロールするんだという熱い気持ちが、重要ですよね。
糸藤さん:自分で決めないと、何も解決しないと思いますね。わたしもベネッセに入社したとき、右も左もわからず、転職しなかったほうがよかったんじゃないかなと、思うこともありましたよ。でも、ベネッセに転職することを決めたのは自分だからと、自分に言い聞かせて、前進するエネルギーにしてきました。
小梅さん:そして、こんなにピッタリのお仕事に巡り合えるなんて、本当にすばらしいですね。
― 本当ですよね。
糸藤さん:今はね。そうですよね。
■印象的だった勝間さんとのインタビュー
― 最新号でも編集長がインタビューされていますが、勝間和代さんみたいなスーパーワーキングマザーが太陽のように照らしてくれると、勇気が出ますよね。
糸藤さん:そうですね、今回、勝間さんの取材をさせてもらって、あの勝間さんですら、やっぱり「最後は帰れば子どもの寝顔があって、それが昔から変わらない私のエネルギー」だと。この本文の中でも、訳の分らないおやじが、ああだこうだとか言ったとか、仕事がああだこうだとか言っても、そんなのどうでもいいと。家に帰って娘たちが「お母さん」って話し掛けてくると、すべてオールクリアになると。やっぱりそうだと思うんですよね。子どもがいるから私も頑張れるし、仕事の嫌なこととか、うれしいことももちろんなんですけども、やっぱり家に帰れば子どもがリセットしてくれて、それが根っこにあるというか、根っこなんですね。だからワーキングマザーはあまり倒れないし、強い根っこがあるということはありがたいなと。
― そうですね。
糸藤さん:子どもを生んだ、結婚したというのは、たまたまわたしのチョイス。それがすべてではないし、それが偉いとか、偉くないとか、専業主婦より上だとか下とかいうわけでは、全然ない。実は専業主婦のほうが大変だと思うんですけど。ただ、やっぱり“子ども”とか、“おうち”っていう根っこがあることは、すごい豊かなことだなって思うんですよね。「わたしの基盤は、この家。わたしと子どもの生活である」これを勝間さんが最後、ぽろっとおっしゃって、編集者的にも「いただきました」って(笑)。
― 最後に、ワーキングマザースタイルの読者に、メッセージをいただけるとうれしいかなと思います。
糸藤さん:そうですね。最近、わたしはいろんなところで言っているんですけど、1+1が1.5になるといいなと思っていて。今までは男性だけが働いてきて、1をいかに1.2にするか、1.3や1.5にするかだったのが、今の時代は、男性も女性も働いて、1+1を2にしなくてもいいと思うんです。そんなにたくさんお金があっても、使いようがないし。やっぱり物質的なだけじゃなくて、精神的な豊かさって人が生きていくために大事なことで。1+1が1.5でいいと思うんです。そうしたら、1よりも0.5多いわけですよね。だから、豊かですよね、経済的には。
2人が働いていれば、1人が転職やリストラを経験しても、今の時期は妻が支えるとか、こっちが妊娠・出産していても、今の時期は夫が支えるというような柔軟性が発揮できると思うんです。これからの時代、男性も、仕事して、育児もして、家事もやって、自分のこともやれて。女性も家事や育児だけじゃなくて仕事もするという、両輪で走るスタイルがリスクを減らしていくと思いますね。これから景気だけでなく社会的にも不安定な時代になってくる。両輪のほうが、安定感があっていいのではないかと思います。
小梅さん:お互い、無理がないですよね。1人が全部背負いこむよりも。
糸藤さん:男性の読者の方で、妻が働きたいっていうことで「何、両立できるの、うち?」って思ってワーキングマザースタイルが検索エンジンに引っ掛かってきたときは「できる」と知っていただきたいです。そのほうが、あなたのリスクも下がるよ、と。うちの夫が賢かったのはその部分。彼は、わたしが働き続けるときに、ちゃんと自分のリスクを計算していたと思うんですよね(笑)。自分1人で頑張るよりも、仕事の好きな妻にある程度がんばってもらうほうが豊かに暮らせるだろうと。
小梅さん:頭がいいですね。
糸藤さん:そう、そう。それが分っている男性が増えていると思います。わたしの同僚の男子とか、絶対奥さんにはずっと働いてほしいと思ってる。自分だけでそんなに頑張って稼ぎ続けるなんて、無理だって言ってるし。両輪スタイルを男女ともに支持する時代になってくるかなと。
小梅さん:団塊世代の人たちから見たら、若い男はふがいないみたいに思うかもしれないですけど。
糸藤さん:ふがいないですけど、優しくていいじゃないですか。
― いつも思うんですけど、夫婦で読みたい雑誌ですよね。bizmom(ビズマム)は。いつも、もうあっという間に売り切れちゃうしアマゾンでプレミアムがついて売っていたりしますよね。ワーキングマザースタイルの読者の皆様には、定期購読とともに、夫婦購読を強くお勧めします。本日はありがとうございました。
●インタビューを終えて
創刊当時、いや正確には創刊前から大ファンの「bizmom(ビズマム)」
「ついに働くママ向けの雑誌が!!」と衝撃的過ぎて表紙の写真まで強烈に覚えています。そういう方、きっと多いですよね?本当はただ「同行させて頂く」はずが、お話をうかがうだけで力が出すぎてしまい、こちらの記事を見て分かる通り、前のめりに話に入り込みすぎてしまいました。でも!糸藤さんが雑誌以上に魅力的な方で、「この人にこれを聞きたい!」「もっと話したい!」という欲望が抑えられなかったのです。そして、「ビズマムは糸藤さんを筆頭に、きっと似た様なパワフルな方々が作っているから、読むだけで元気が出ちゃうんだ」と納得。仕事への意欲までわいてきちゃいましたよ!ありがとうございました!(田村小梅)
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生き生きと、かつ熱くワーキングマザーとしての生きざまをお話し下さって、お別れする時にはなんだか胸がいっぱいになるほどでした。子育ての辛さと、働くことの喜び。契約社員としてゼロから始められたというところには、頭が下がる思いでした。とにかくご一緒しているとこちらが元気になる女性。こんな女性がワーキングマザーをテーマにした雑誌の編集長をしてくださっていたことに、ワーキングマザーの一人として感謝したい、そんな気持ちでした。ありがとうございました。これからも夫婦で愛読させていただきます。今後のお仕事の成功を確信しております。(村山らむね)
●「働くママの食卓 Oixiオイシィ」

毎日の食卓を描いた、糸藤さんのブログ。働いているのに、どうしてこんなにきちんと作っていらっしゃるの?と思わず聞いてしまったほど。手際の良さが光ります。
インタビュー第18回目は、いい紅茶ドットコム 藻谷ゆかりさん
投稿者 村山らむね
東大出身、ハーバードMBA取得と、華々しい経歴の藻谷ゆかりさん。いち早くオンラインショップの成長性に着目しインドの茶園からの直送の紅茶を販売する紅茶通販専門店 いい紅茶ドットコムを立ち上げ、また千葉から長野へ移住し地元の教育委員として活躍するなどど、その新しいライフスタイルには、学ぶところがたくさんあります。キャリア、インド、そして教育。さまざまな角度から藻谷さんの魅力に迫ってみました。
■東大から就職、そしてハーバードのMBA取得へ
― 東大の経済学部を選んだきっかけというのは、何かあるんですか。
藻谷ゆかりさん(以下 藻谷さん):そうですね、私の高校時代というのは切迫感があって、大学を出ても女子は就職が無いというふうに言われてた頃です。きっと先が見えていない頃で、皆さん就職はしていたけれども、適当にどこかに入ってとかいう感じじゃなかったですよね。その中で、私は文系だったんですけれども、弁護士になるということではなかったし、そちらの方面はあまり興味がなかったのと、でも文学部に行っては、とても食べてはいけないなというような切迫感があって、自分がどうしても文学をやりたい、法学をやりたいというのがなかったので、ちょっとこう比較をして、経済だったら食べていけるんじゃないかなぐらいな感じですね。今、思い出しても高校時代、結構、切迫感はあったのかなと思います。
― 女子の高校でいらっしゃいますよね。
藻谷さん:ええ、はい。
― じゃあ、その女子高全体的に、そういうムードがあったということ。
藻谷さん:今みたいに職業教育をやらなくても、何となく学校の全体の雰囲気が「学びが職業に直結する」という雰囲気がありましたね。何らかの職業を持って働きながら家庭を持とうというのは先生方もそうでしたし、それが当然みたいな感じでした。
― で、見事、東大に入られて、私なんかからすると、東大って凄いな、もう、本当にもう別世界だなという気がするんですけれども。その四年間、いかがでした?
藻谷さん:急に女子校から男子校(笑)。今は2~3割まで増えたそうですけれども、その当時、女子学生は1割未満で、特に経済学部とか法学部関係のところはもう本当にクラスに3人しか女子がいないというような状態で、でも、相変わらず、やっぱり危機感はありましたね。男性でさえ東大出たって、世の中渡っていくのは大変だみたいな危機感がすごくありましたよ。就職のときは何とか女子でも同待遇で取ってくれるところというのを希望する気持ちっていうのは強かったですね。
1982年 18歳 東大 経済学部入学
1986年 22歳 日興証券入社
1989年 25歳 ハーバード大学ビジネススクール入学
1991年 27歳 結婚・帰国
1992年 28歳 長男出産
1993年 29歳 長女出産
1994年 30歳 モトローラに転職
1995年 31歳 GMに転職
1997年 33歳 ダ・ヴィンチ設立
1999年 35歳 次男出産
2002年 38歳 長野に移住
― じゃあ、もう研究者になるというよりは、就職したいというお気持ちが強かったんですね。
藻谷さん:ええ、就職のことはずっと思ってましたね。
― まず、日興證券というのは、選ばれたというのは、どういうきっかけだったんですか。
藻谷さん:私が入社したのは1986年の4月1日なので均等法が施行された日なんですよね。ということは、就職試験が行われたのは施行前なんですよ。ただ、一応、施行が見込まれていて、その3年前ぐらいから日興證券は総合職を取っていたんです。先輩も何人も入社していたのも理由として大きかったと思います。
― 最初、どういう分野に配属になったんですか。
藻谷さん:最初は企業情報部というところで、M&Aを扱っていました。ただ、その当時はM&A自体がそれほど今ほど活発ではないので、まあ、資料をまとめたりが中心でしたね。
― ハーバードのビジネススクールのほうに留学なさったのは会社からですか?
藻谷さん:そうなんです。M&Aの分野ではどうしてもアメリカ流のファイナンスの知識が必要なので、ぜひ取ってらっしゃいということと、その時の部長さんがご自身も留学されたご経験をお持ちで。もちろん男性の部長さんでしたけど、そういう留学経験がある上司についたというのは大きかったですね。
― でも、他にも男性の社員がたくさんいる中で、藻谷さんを選んだというのはすごいことですよね。
藻谷さん:まず上司も「自分も留学したから君も留学したら」ぐらいの感じで推薦をしていただいて、あとは人事部が選ぶんですよね。
― 人事部もすばらしいですね。
藻谷さん:たまたまチャンスがあったというだけで。
― ハーバードのほうではいかがでした?
藻谷さん:私も別に帰国子女とかではないので最初は自分の意見を言うのが大変でした。特にハーバードビジネススクールの場合は、今日の教材というのを読んで、理解することももちろん大事ですけれども、それに対して自分がどういうふうにどこのところで何を言うかなんていうのを前日に全部予習するんです。自分が当らなかったりもするし、発言できなかったら成績がグンと下がっちゃうので「ああダメだったか」みたいな(笑)。野球でいうとヒットが打てない打者って苦しいじゃないですか、あれと似ていることですよね。たまに発言した内容が先生が導こうと思っていた結論のほうに近かったりすると野球で言えばホームランみたいなことが、ごくたまにはあったりはしますけれども。帰国子女だったら少なくとも英語の面で不自由はないと思うんですけれども、そうでない私にとっては、まあ、かなり厳しいところでしたね。
― 二年間で、今、思い起こしてみて何を一番もたらしてくれたと思いますか?
藻谷さん:自分の力でロジックを組み立てて実践すること、これに尽きますね。例えば税法を教えてくれたとしますよね。先生自体がおっしゃっていたんですけれども、「今教えたのは当然アメリカのTAXです。あなたたちがプエルトリコへ行ったらプエロトリコのTAXがあります。中国へ行ったら中国のTAXがあります。日本へ行ったら日本の税法があります。だから、今、TAXを学ぶのだけれども、それぞれの国へ行ったら違うまた税体系があるから、その学ぶ力を身につけてください」と。ハーバードの場合はケーススタディーなんですけれども、ケースでこういうことを勉強しました、こういうことをしたことがありますといういう知識だけじゃなくて、必ず自分の頭で一回でも考えてみて、自分なりにオプションを5つなり考えるとか、その中で実行可能なものはどれかとか、ちょっとくだらないようだけれども紙と鉛筆を持ってちゃんとやってみて、それに対して数字的なバックアップをちゃんと自分で持っておくとか、そういう毎日のケーススタディーを通してのエクササイズといいますか、そういうことが一番大きいと思うんですよね。ですから、私も、ハーバードにいるときは、必ず紙と鉛筆を持っていました。まだパソコンもそれほど普及していない時代でしたし。一応、試験答案とかレポートとかはパソコンで打って提出しているような時代になってはいましたけれども、かといって教材がPDFでくるとか、そういうことではないですし。
ハーバードで何か特定の知識とか、何かのテクニックを教えてもらったわけではない。私自身も縁があって、1997年に紅茶の会社を設立して、じゃあどうやって売ろうかと思ったときに、じゃあインターネットでやってみようという新しい挑戦ができるという素地といいますか、そういう気持ちですよね、やってみようという。そういうことが一番ハーバードで学んだことだと思うんですよね。新しい局面に向かっていく柔軟な気持ちと、それを組み立てていく論理性。学ぶ力そのものを得た気がします。
― 藻谷さんのその後のキャリアなどに大きな意味を持ったというMBAですが、今、主婦というかワーキングマザーでも、ワーキングウーマンでも、MBAを取ろうとしている人すごく多いですし、実際に挑戦をされている方もたくさんいらっしゃいますよね。そういう方々、これからちょっと挑戦してみたいなという方々に何かメッセージみたいなものはありますか?
藻谷さん:資格というのは形にすることじゃないですか。機が熟したなら、挑戦することです。時期もそうだし、お金もそうですし、自分の体力、気力や何かもそうです。MBAを取りたいと思えば、日本国内であろうと海外であろうと、挑戦すべきだと思うんですよね。私は証券会社に勤めて、二人の子どもを産んでから外資系に転職しました。ファイナンスじゃなくて経理のほうをやりたいと思ったものですから。モトローラとGMに2度転職しました。モトローラなりGMが採ってくれたのもMBAを持っていたからなんですよね。一定の訓練を受けた人でしょうということで。MBAは修士で学位は学位なんですけど、何か学術的な功績ということに対して与えられたものではなくて、一定のトレーニングが済みましたということですから、その証明として取れるときに取っておいたほうがいいと思いますね。
― できれば早いうちにということですね。
藻谷さん:いつでもいいんです。機が熟すのは、人によっては30歳かもしれませんし。それはいつでもいいんですけれども、自分が取っておいたほうがいいなと思ったら、やっぱりそれは取っておくべきだと思うんですね。
― MBA取得後、91年に帰国されたのと同時期にご結婚?
藻谷さん:ええそうです、はい。
― 何か出会いは?
藻谷さん:ハーバードの一年先輩だったんです。ですから、卒業してから二日後に、そのチャーチで結婚をして。
― わー。えー。(聞き手、異常に盛り上がる)
藻谷さん:卒業してすぐ結婚をするんだって言ったら、クラスメートのアメリカ人男性が、「じゃあユカリは二つディグリー(学位)を取ったんだね、MBAとMRSだね」って言って。
― MRS?
藻谷さん:あのう、ミセス。(少々照れて)
― 面白いですねー。
藻谷さん:まあ、ちゃっかりしてるねって言いたかったのかもしれないんですけど。今もそうですけれどもジューンブライドってあるじゃないですか。学校が終わってすぐに結婚する人がいいっていうのがあるんです。で、実際6月に結婚する人が多いんですよ。一区切りついたっていうことなんです。日本で言えば3月に結婚が多いのと同じ理由なんですよね。
― そうですか、すばらしいですね。で、戻っていらして、それでお子様が二人生まれて。
藻谷さん:ええ、はい。92年と93年に。
― いいですね。92年は男の子、93年はお嬢様ということですよね。そうですか。で、日興證券のように金融で総合職でお子様を育てながらというので、何かご苦労とかありました?
藻谷さん:時間に関しては、もう本当大変でした。朝、走っていって。で、またお迎えのために帰ってくるという感じで。その頃、夫は外資系の金融機関に勤めていたんですけど、朝が比較的ゆるかったので、夫が朝、子どもたちを送って行くんですね。私はとにかく早く出社して、夕方のお迎えは私がするという形で分担していたんですけど、今考えても年子で子どもを産んでフルタイムっていうのは、若いからできたんだなと思います。
― まあ、そうですよね。保育園の先生ぐらい怖いものはなかったですよ、私も勤めていた頃は。何て言うのか、お迎え時間の遅刻寸前のときに駆け込んで行って、仁王立ちになっている保育園の先生、もう上司よりも何よりも恐かった(笑)。そういう中で日本の社会、もうちょっとこうなったらいいのになっていうような思いとかありました?
藻谷さん:勤務先で自分の希望の職種体系とか働き方というのは追求をとことんまではできないと思うんですよね。もうそれはわがままの世界だと思うんですよ。それを我慢して続けるか。それともやめるか。
私の場合は、もう会社に期待するのはやめて、自分で会社を作ってやりましょうということを選んだんですね。
― それはすごく難しいところですね。あくまでも会社に譲歩してもらうというか、会社のシステムに変化してもらうことを望む人もいるし、そのために一生懸命力を尽くす人もいますよね。
藻谷さん:それをやられた方々の努力が今につながっているとは思いますし、敬意をひょうします。、均等法にしたって1日で出来たわけでは無いですから。でも、待った無しじゃないですか。小さい子がいて、自分もクタクタの時に、それでも起業という道を選んだんですけれども、起業という道を選んだこっちもイバラの道ですよね。自分で責任を負わないといけないし、収支も合わせないといけない。
― 起業の前に日興證券と、そのあと外資系を二社ご経験をされていて、その中で、外資系の方が働きやすいなとか、いや、あまり変わらないよとか、何かそういう印象っていかがでした?
藻谷さん:外資系のほうが働きやすいことは、もちろんそうですね。全体的に、こう、余計なことでは縛らないっていう感じで。ただ、外資系の場合はもう仕事量が多すぎて。もう終わりようがない仕事というのか。それと、やっぱり締め切りなんかも厳しいですし、それに対する人数も最低限ですよね。自分以外の代わりがいないという感じで。もう少し日本企業のほうが、今はちょっと違うかもしれないですけれども、その当時(90年代初め)はですね、十分な人材がいたというのか、そういう気はします。
― そうですね、なんか、この間、メリルリンチの小林社長のお話をお聞きしたんですけれども、私のような、などと謙遜しておっしゃっていましたけれども、「私のような人間が社長になったのも、もうとにかく人がいなくて。これは低い立場の人間だからやらないとか、やるとか、そんな問題全然なく、誰でも彼でも、何でもかんでもやらなきゃいけなかったから、結果的に、その結果で私はここに今いる」みたいな、おっしゃり方をした。「もう、本当に外資は人がいなかったし、且つ、ある時期、いろいろ困難があったじゃないですか、メリルリンチも。その間に、みんな優秀な男の人は辞めて逃げていったと。私は逃げ切れずに残っていたら、こうなった」って。
藻谷さん:どっちもあると思うんですよね。会社がすごい伸びていったから、自分にもチャンスが来たということと、ちょっとゴタゴタがあって、いろいろな人が逃げちゃったから、最後まで残った自分が責任を持ってやらなきゃならないという、どっちのケースもあるとは思うんですけれども、でも日本の企業よりも、そういうゴタゴタって、どっちのほうにいくにしても女性がチャンスを掴みやすいと思いますね。まだ日本の企業のほうが組織が堅いというか、しっかりしているというか。
― 日本の企業でいえば、女性の場合は外から女性を採用するのは上手いんだけれども、中の女性を育てるのがとても下手だなと思うのですけど。
藻谷さん:ええ、まだ、そうですね。
― 何か、すごくその辺がもったいないと思いますよね。いろいろな企業さんの執行役員とか、いろいろ拝見しても、女性でなっている方の経歴を見ると割と外から連れてきている。
藻谷さん:ああ、そうですね。官僚のかただったり。
― たぶん中にも、いくらでもその執行役員クラスになれる女性はいるんだけれども、なかなかそれを育てられないのか、発掘できないのか。ちょっと気の毒だなという気がするんですよね。
藻谷さん:そういう部分はありますね。
― 少しずつでも男性経営陣の意識も改革していただければいいかなと思うんですけれどもね。
藻谷さん:それこそ昔はセクハラとかの概念もなかったのが、少しずつ女性にとっても働きやすい環境への理解もできてきた。何れにしろ、均等法だって、1日でなったわけじゃないので、先駆的な女性の方々の努力という流れがあって、現在の女性たちの環境があるのかなと思いますね。
■そして、起業へ。歯車にならないというビジネスモデルを保って
― 1997年、とうとう起業ということで、最も大きなきっかけというのは何ですか?
藻谷さん:GMという巨大組織にいたからだと思うんですけれども、とにかく意思決定が遅いというか、無いんですね。GMジャパンから何か提案してもアジア本部に行って、国際本部に行って、最後にGMの本社に行くっていうディシジョンメイキングだったんですね。何ヶ月も経って、戻ってきたときには全く違った結論になる、っていうより戻ってこなかったですね(苦笑)。
― ブラックホールのような感じですね。
藻谷さん:そうですね、巨大組織だからでしょうか。自分がビジネスで良かれと思うことを実践したいじゃないですか。当たり前ですけれども、少しでも良かれと思うことを。何も手応えがないというのか、組織が巨大すぎることの弊害を痛感しました。個人的には、もうちょっと子どもたちの側にいれるような仕事をしたいとも思いました。でも、実際には、起業したら12月31日まで働かなければいけないような環境になっちゃいましたけど。
― そうそう、私もそうだったんですけれども、小学校に入るというきっかけに起業したんです。もうちょっと子どもの世話をしようと思って。でも、とんでもないですよね、特に起業1年目とかね。
藻谷さん:フレキシブルではあるんですけれども、でも、“これは絶対”っていうときには踏ん張らなければいけないですし。
― そうですよね。だから、授業参観とかも行けなかったりして、ずいぶん子どもに恨まれました。親にも「言ってたことと違うじゃない」って言われたり。
さて、紅茶というものを選ばれたきっかけというのは?
藻谷さん:インド人の友だちが、起業の2年ぐらい前に来て、私に紅茶をくれたんですよ、それがダージリン紅茶だったんですけれども、本当に緑の葉の紅茶で、「あれ?ダージリン紅茶って緑色だったの?」ってびっくりしたんです。普通のイギリスからの缶の紅茶は真っ黒焦げの紅茶ですよね。でもそれを飲んでみたら、ほとんど日本の緑茶に近いような新鮮な香りがあったんですね。
でも、売られている紅茶って、やっぱり真っ黒じゃないですか。おかしいな?ととずっと引っかかっていたんです。自分が何か起業をしようと思ったときに、あの紅茶にしようと。調べてみると、その当時、あまりネットとかもないこともあったんですけど、そういう新鮮な緑のダージリン紅茶を扱うお店が一部あったんですけれども、とても高かったんですよ。じゃあ自分はこの紅茶を安く売ればお客様に喜んでいただけるだろうなと思って始めたのが紅茶のビジネスなんです。
― そのインド人の友だちというのはどちらで知り合ったのですか?
藻谷さん:ハーバードの時の学友なんです。
― じゃあ、やっぱりハーバードが大きな果実を。
藻谷さん:そうですね。
― 私もほんの短期のサマースクール留学したことがあるんですけれども、韓国人とかバングラディッシュ人とか、やっぱりアジア系でかたまりますよね。
藻谷さん:そうですよね。馴染みというか。
― 小売を選ばれたっていうのは、すごく意外なんですけれども。
藻谷さん:起業したのが1997年で、それからネットが、これからはネットの時代だっていう認識があったので、全国の方に売ろうというような意欲がありましたね。
― ダ・ヴィンチという社名をつけた思いは?
藻谷さん:実は紅茶を始める前から会社名をつけて、とにかく会社を作らなきゃいけなといって、何をするかわからないんだけども、何でもできるようにしようと思って、いろいろなことの天才と言われているレオナルド・ダ・ヴィンチからつけたんです。それから、ゆっくり考えて、じゃあ紅茶にしようと。
― 面白いですね。
藻谷さん:オフィスを借りたりしなきゃいけないじゃないですか。だから、何をするかって決まる前に幕張にあったベンチャービジネスセンターっていうところに、もう、ここにするんだということを決めてて、そのためには名刺は必要だし、会社も設立していなければいけないしって、何か、そっちのほうが先で、形から入ったというか。最後に紅茶をやるということを決めたものですから。
普通の人は好きなことを仕事にするのか、仕事を好きになるのかというと、私は仕事が先なんですよ。住宅ローンもありましたし。とにかく仕事をしなければならない。
何か好きな事を仕事にするというよりは、とにかく会社を辞めたんだから、働かなくちゃ、じゃあ会社を作りましょう、オフィスを借りましょうというのがあって、次に会社も登記しましょうとかいうのがあって、じゃあ、どういう仕事をしましょうという感じで。もちろん、紅茶というのが嫌いだったらとてもできませんけれども。まあ、こういうこともあるということはね、とにかく稼がなければいけないわけですから。
― ダイナミックですね。このあたりが藻谷さんらしさですね。
藻谷さん:そうかもしれないですね。紅茶好きが極まって紅茶を扱っていると、どんな紅茶も好きっていうことになっちゃうじゃないですか。ところが、私の場合は、この紅茶を届けたいというのが先なんですよ。そんな緑の紅茶がこの世にあっても、まだ知らないかたも多いでしょうし。
それから、ミルクティー用のアッサムの紅茶などは、本当に、ああ、こんなに濃いかなっていうぐらい濃いんですよね。そうすると、濃いのを知らないという感じになって。ただ、紅茶好きが嵩じてっていうと、この紅茶もいいですね、あの紅茶もいいですねっていうか、こう、幅が広くなっちゃうんですけれども、私の場合は逆に、「あ、これこそ紅茶だよね」みたいな、すごい狭いんですけれども、でも、その代わり、そういうスタンスを信頼して買って下さるかたもいるんですよ。
だから、よく言うんですけれども、お客様に紅茶を選んでいただくために、200種類とか用意して、お客さんが選ぶような紅茶屋さんじゃなくて、店が選んだ紅茶を買っていただく紅茶屋ですっていうのがコンセプトなんですね。その代わりハズレを出さない。ハズレを出したらお客様に迷惑なのもそうなんですが、うちの場合には輸入元ですから、ダージリンのワンロットっていうんですけれども、一つ買い付けたら、それは100キロとか125キロなんですよ。だから、ハズレたら、こっちが困るんですよね。これが大きいある程度の規模の紅茶の輸入になると、10種類ぐらい買い付けることになると、まあ、これも良さそう、あれも良さそうでOKじゃないですか。ああ、これも良かったねみたいな、お客様にもある程度の水準でっていうのがありますけれども、私の場合には数種類しか選べないので。もう選び抜いたものしか扱えないんですよ。リスクは自分が一番大きいんですね。ここで選ばれたのなら、もう、テイスティングとかしなくても、もうOKだってご理解いただいたお客様は最初から100グラムを三つとか、もう500グラムとか、そういうふうに買って下さるので。他の紅茶屋さんとは、そこがかなり違うかなと思いますね。ですから、紅茶のビジネスでも、どのビジネスでもそうなんですけれども、フランチャイズみたいに大きく広がるビジネスと、うちみたいにブティックみたいな感じで、特定の方しかひきつけないかもしれないけど、自分のとんがりを維持できる、それで存在意義があって、あまりアップダウンがないというビジネスのやり方もありますので。そういうブティックタイプで大きくなれば一番ではあるんですけど、欲張ってしまうと資本力の問題になってしまいますよね。
― じゃあ、ここで。そのおいしい紅茶をいただきます。
美味しい。ワーキングマザースタイルのオフでいただいたサンプルも、すごく美味しかったです。大好評でしたよね。
藻谷さん:何人かの方が、ご注文いただいております。
― やっぱり女性に飲んでもらいたいですよね。
藻谷さん:そうですね。でもね、結構ね、男性の方も買われますよ。
― そうですか。
藻谷さん:紅茶っていうと女性ビジネスかと思うんですけれども、意外に男性の方でも、リピーターになって大量購入してくださいますね。
― 意外ですね。こだわるのかな。1997年からだと、もう10年以上ですね。どうですか、ビジネスの調子は。
藻谷さん:固定のお客様に救われている、支えられているという感じですね。ただ、ご存じのように1997年から仕事をしていても、いろいろなネットの状態がすごく変わるので、たとえて言えば、ある商店街がすごく流行っていたんだけれども、ショッピングモールがあっち側にできていて、全く流れが変わっちゃってっていうことも、この11年間、あったじゃないですか。初期の頃に活躍していたお店も、もう、お店自体をやらなくなっちゃったりとか。動きは急ですよね。
― そんな中、11年続くというのは、すごいことだと思いますよ。
藻谷さん:結局、最初に設定した軸がぶれなかった。もしかして紅茶がすごい好きだからっていって始めた人は、たくさんの紅茶を扱わなければいけなくて、こう、資本力の大きいところに負けてしまうけれども、うちは、もう、不遜に聞こえるかもしれませんけれども、選んだ紅茶を買っていただくビジネスモデルで、それを貫くことができたので、その意味ではありがたかったと思います。
― 今、会社自体は何人で?
藻谷さん:1人です。アルバイトの人が3人。
― 私も1人会社なので、どうして1人会社になさっているか、すごくよくわかります。でも、一応、説明してください。
藻谷さん:フランチャイズでキャッチオールで大きくやるビジネスと、小さくやっていくビジネス、これがライフスタイルの違いだと思うんですよね。大きくやるビジネスになってしまうと資本力勝負になってしまいますし、資本力勝負になると自分のために働くのじゃなくて、株主のために働く、これをはっきりと意識しなければいけないと思うんですけれども、私は自分のために働いているので、こういうスタイルでやるということですね。あと、もう一つ、うちの夫もMBAなんですけれども、彼の会社もパートナーと二人なんですよ。ストラテジストとエコノミストであるうちの夫と二人でアシスタントの人という形で。じゃあ、そういう独立系リサーチだから、一応フルラインにすることも可能は可能かもしれないけれどもリスクも大きいこともあるし、そういうのが自分たちのライフスタイルではないということですね。やっぱり働き方というのがライフスタイルと両輪のように合うはずなので、自分としてはどっちを選択するのかというのをよく見極めないとダメだと思いますね。
― いやあ、本当にそうですよね。何て言うのか、歯車というか、そういう競争の中に身を投じてしまうとキリが無いじゃないですか。どこかで自分のライフスタイルって確立しなければいけないと、すごく思うんですね。そういう意味で藻谷さんの生き方を見ていると、本当の賢さがあるなと思うんですよね。
藻谷さん:この会社を設立して11年間の中で、まあいろいろなことが事業としてありましたけれども、個人的に大きなことが二つあって、一つは会社を設立して二年目に3人目の子どもを妊娠しまして、どうしようかと思いましたよね。会社始めたばっかりなのに、どうしようかと思って。でも、3人目はどうしても欲しかったし、そういうことも可能なようにわざわざ独立したんじゃないかと思いなおして、もうどうにでもなれやとやってみたら、一応、一番大変な時期は乗り越えられて、何よりも3人目の子どもは非常に健康だったものですから、全然保育園は休まない。男の子なのに熱が出ないんですよ。1人目はよく熱を出して、行った日数より行かなかった日数のほうが多いですね、保育園。誰かが家で看てなければいけない状態だったんですけれども、とにかく熱の出ない男の子で、その当時、浦安市は57日目保育というのを始めたばかりで、要するに、復帰8週間から、復帰したときから預かれるというのを導入した時期だったんですね。それに乗っかって3番目は57日目から保育園のほうに預かってもらって。
― 次男さんは親孝行ですね。もうひとつは長野への引越しということですね。
■長野での生活。そしてこれから
― この長野に引っ越しなさったのはどういうきっかけですか?
藻谷さん:今、高校2年生の男の子が、中学になってから行って合わなかったというようになったら困るので、できるだけ一番上が小学生のうちに長野に移るなら移ろうということで、ギリギリ5年生の4月に来たんです。
皆さん、表面的には、ある通販オフィスを千葉から長野に移したからって大きな違いはない、通販だからやれるでしょうとは思われるかもしれないですけれども、会社の設立手続から宅急便の契約、スタッフを集めることから、ちょっとした仕入まで、全部やり直し。もちろん継続したものはあるんですけれども、全て、こっち側で新たにやり直さなければならないじゃないですか。それは結構大変でしたね。第二の創業でしたけれども。
― お引越しなさったのは、いつですか?
藻谷さん:1997年に創業をして、2002年の4月でしたね、引っ越しは。起業から11年過ぎましたから、千葉で5年、長野で6年、こっちの期間のほうが既に長くなっているんです。
― それは、いわゆるフランチャイズ的に拡大志向ではないからできたということですよね。
藻谷さん:そうですね。ええ。既にこっち側に来た段階で、もう、かなりのエネルギーを使っていましたのでね。私が起業する前に、GMのある方が何気なくおっしゃったんですけれども、起業するというのはロケットを打ち上げるのと同じで、打ち上げるときにエネルギーの8割から9割を使っちゃって、軌道に乗って回りだしちゃったら残りのエネルギーは、もうごくわずかしか使わないって。本当にその通りで、起業して形を作るまでに8割から9割もエネルギーを使っちゃって、あとは一旦軌道に乗れば、その軌道をなるべく維持すればよかったので、やっぱり最初の5年間のほうが思い出深いというか、いろいろあったような気がするんですけれども、長野に来てからは、穏やかな生活のせいもありますけれども、会社としては軌道に乗って仕事をやっているように思いますね。
― お子さんとか、変化があったのではないかと思いますが、どういうふうに変化がありましたか?
藻谷さん:そうですね、長男(当時小5)は、こっちのほうの生活がすぐに好きになって、こっちのほうに来て良かったとか言っていたんですけれども、逆に対応力があると思っていた長女(当時小3)のほうが、長野に定住するのが信じられなかったとか言って、にわかには受け入れ難かったみたいなんですね。でも、また数年すると、彼女はもう「私はここから、もうどこにも出て行きたくないから」とか、たまに東京に行くと「もう帰りたい」とか、すっかりこっちの子にはなるんですけれども。
その、子どもを連れてきた段階での年にとって、環境の変化って、受け止め方が違うみたいですね。一番下は3歳のときに来たんですけれども、こっちは保育園が小さくて、赤ちゃんから一まとめになっているんですよ。0歳児クラスが無くて、1、2、3歳が1クラスで暮らしているんです。そうすると、ウチの三番目の子はすぐに4歳になったので一番年長。「友だちはみんな赤ちゃん」とか言って、ブーブー文句言ってて(笑)。でも、彼もすぐこちらの生活に慣れて、向こうのことは、もうあの年代だと覚えていないみたいですね、浦安で過ごしたこととか。
― 子どもを長野で育てたかった一番の理由は何なんですか?
藻谷さん:受験や何かのときに、こう、何ていうのかな、その子の評価に決まっちゃうっていうか、私も首都圏で暮らしていたからすごくわかるんですけれども、制服を着て、東横線なり地下鉄に乗っていても、もう世間の見る目が決まってきちゃうじゃないですか。そういうのって、何か、嫌だなって思って。別に、普通に公立の中学に行って、普通に県立の高校に行けばいいじゃないかって思うのが私なんですね。で、のびのび育てたいという根本方針と、大学は本人の希望でどこに行ってもいいから、高校までは親子が密接に暮らしたいというのか、そういうのが希望としてありまして。
― 何か、すごく他人からの評価に窮々としているところが、やっぱり自分も含めてありますよね。
長野のこの生活っていかがですか?いかがですかって言っている前に、私がもうすっかり、もう、何か、もううらやましくてたまらないんですけれども。
藻谷さん:でも、確かに、コンビニまでも遠いし、来た当時はコンビニも無かったんですね。小学校、中学校までは4キロあるし、大変ですけど、まあ、子供は慣れますよね。
― 小学校、中学校までは歩いてらしたんですか?
藻谷さん:歩いてたんですけれども。浦安では歩いて5分ぐらいのところに住んでいましたから、4キロ歩くというと、本当にくたくたになって帰ってきたり。
― 体力が付きますね。
藻谷さん:4キロ子どもが朝歩くと、途中でお手洗いに行きたくなるんですよ。そういう時にどうするか。まだ家とかが無いところだったら、ちょっと、草むらのほうに入ってするとか、もし、集落のほうに入っていたら、近くに通りかかったお婆さんに「すみません」って言ってトイレを貸してもらうだとか、いろいろなことが4キロの中に起こるんですね。そういういろいろな体験というのか、困ったときに「すみません」とか、そういうことが言えるようにならないと、人間として完成してこないと思うんです。海外旅行に行って困るとか、ね。日常的に経験がしてあったら、いままでの経験を新しい土地でやればいいだけですから。
― 藻谷さんも、ご主人さんも、都会生まれですよね。
藻谷さん:ええ。私は横浜市で育って、うちの夫は山口県の徳山市という工業都市であったんですけれども、都市部のサラリーマンなんですね。うちの夫も基本は公立の中学校から県立の高校で、大学行くのは自分の好きなところに行きなさいということなので、あまり、中学受験とかに「目に炎」みたいな感じになりたくないって言っていたものですから、高校の選択の余地が少ない長野県に来るということには積極的でしたね。
― 藻谷さんご自身の人生とは全く逆ですよね。
藻谷さん:そうですよね。ええ。
― それは、何ていうのか、アンチテーゼでしょうか。
藻谷さん:一つは、東大に行ったときに、確かに有名私立、有名国立の子もいるんだけれども、大多数は全国から集まった県立高校の人がクラスを構成しているんですよね。だって、開成は1人とか、そんなもんじゃないですか。まあ、各クラスに1クラスに二人はいるような学校もありましたけれども、でも県立高校でも入れるんだと思って。その実感というのと、もう一つは、東大の大学院に行って、それで東大の先生になるような人は県立高校出身の人が多いんですよ。
もちろん例外もありますけれども、有名私立、国立とかの人っていうのは、ドリルが上手い、一定のところまで一定のことをやりなさいっていうようなことは、基礎的な訓練としてできているんだけれども、例えば、東大の大学院に残る、そして、大学の教授になるというと、例えば県立高校で1人だけで勉強ほうが、本当の学力があると思うんですよね。全員が全員、県立高校の人だってわけじゃないんですけれども、意外にじゃあ有名私立の高校に行ったからって、東大は入れるけれども、じゃあ、そのあと、学術的な方面に進むというのは全く別だと思うんですよね。でも、逆に、そういう受験勉強が上手にできた子というのは官僚になったり弁護士になったりとか、何かの試験をクリアするほうはできるんですけれども、クリエイティヴィティーを要求されるところというのは意外に県立高校出身者が多いんです。
― ああ、そうですか。じゃあ、そういう同級生を見て、子どもの育て方について、ちょっと思うところがあったということでしょうか。
藻谷さん:そうですね、可能性を広げておきたいですね。自分自身が受験を知らない人は、受験するには絶対にこういうところに入らなければダメなんだとか、そういうふうに、こう、決めつけがあるじゃないですか。でも、経験者として、いろいろなルートがあるんだけれども、意外と伸びるのはこういう人よ、という思いも正直ある。このあたりは、やっぱり子どもの教育に生かしたいなと。
― 東大、ハーバードと、世界でも最高レベルの教育環境に身を置いた藻谷さんの言葉には重みがありますね。ところで、最近では、地元の自治体の教育委員も拝命なさったということですよね。
藻谷さん:これはちょっと意外なお仕事だったのですが、興味深いし自分の経験も生かせると思うので、ぜひ貢献したいですね。アメリカの教育を経験したことも大きいと思いますね。例えばハーバードは一年間の学費が400万円必要なんです。日本の場合は、東大などの国公立に行くのが一番安い。ここは日本は胸を張っていいと思うんです。だからアメリカ化することがいいこととはもちろん思わないし、私なりに日本の公教育をさらにいいものにしていくお手伝いができればと思っています。
ちょっと思うのは、若いお母さん方の意識の変化。サービス享受者としての権利意識がちょっと強すぎるのではないかと不安を覚えますね。
― インドはいかがですか?
藻谷さん:もちろん貧富の差はすごいのですけど、貧しい人も気持が安定していますね。金持ちにはたくさんの人を雇う義務があり、貧しい人の暮らしを支える使命があるんです。カーストは正しい制度とは思いませんが。
― 今後の夢は?
藻谷さん:今まではSOHO (Small office Home office)だったのですが、将来的には土地を探して事務所を作りたいですね。それからやっぱり今の紅茶の仕事を続けていきたいです。
「商は笑なり」という言葉が好きです。商品を介在して、買い手と売り手が笑い合っているということです。売り手が「いつも買ってくださってありがとうございます」と言えば、お客様が「こんなにいいものを売ってくれてありがとう」とご満足いただく、そんな商売のあり方をこれからも続けていきたいです。
●インタビューを終えて
本当に素敵な長野のおうち。お写真で紹介できないのがとても残念です。私から見ると、超エリートご夫婦でいらっしゃる藻谷ご夫妻が選んだライフスタイルは、長野での穏やかな暮らし。穏やかな中にも、Eコマースの激流の真っただ中にも身を置いている、そんな多面的なライフスタイルにすっかり感動してしまいました。紅茶も一度味わうと病みつきになるおいしさなので、ぜひお試しください。(村山らむね)
■紅茶通販専門店 いい紅茶ドットコム

2007年11月12日
インタビュー第17回目は、カフェグローブ 矢野貴久子さん
投稿者 村山らむね
大人気女性サイト カフェグローブの代表取締役矢野貴久子さん。成功されたIT業界の女性社長として大活躍でいらっしゃいますが、もうすぐご出産の予定です。これまでのキャリアの経緯や、45歳でのご出産を控えてのご心境。そして、カフェグローブの新しいカテゴリー“ペアレンティング”に込めた思いなどをお聞きしてきました。
■編集者から一転、医学部受験、そしてインターネットとの出会い
- 輝かしいご経歴の中で、医学部に挑戦されているというのが昔からとても興味深かったのですが。
矢野貴久子さん(以下矢野さん):ちょうど27、8のぐらいだったと思います。当時編集の仕事をしていて、若気の至りではないんですが仕事のことが一通りわかった気になったんですね。それと、。私の大きなテーマとして、一生仕事をし続けたいという希望がありました。編集の現場の仕事を、50才、60才になっても続けられるのかなって漠然と不安に思ったんですね。まあ、自分探しをしていたんだと思います。天職探したいなというモードに入ったんですね。それで短絡的なんですけど、一生続けるなら資格が必要な医者か弁護士かなって。本当に短絡的ですよね(笑)。
- 正直、ほんの少し短絡的と思いますけど(笑)、でも受かってしまうのがすごいですよね。
矢野さん:私、理数系は全然苦手だったので厳しい予備校に入って。
- 両国予備校ですか?
矢野さん:そうです。さすがに寮には入りませんでしたけど、朝6時から夜中まで勉強しましたね。正味8ヶ月くらい。あんなに勉強したのは後から先にもありませんね。自分がどれだけ出来るかを試してみたかったというのもあります。もちろん医師になりたかったんですよ。
- 医師を志されたきっかけみたいなものはおありなんですか?
1985年 22歳 株式会社日経BP入社
退社後フリーライターとして活躍
1991年 29歳 医学部受験
1993年 31歳 結婚
1998年 36歳 離婚
1999年 37歳 TBSブリタニカ 入社 退職
1999年 37歳 カフェグローブ立ち上げ
2003年 41歳 結婚
2007年 44歳 妊娠
矢野さん:編集をやっていたときにターザンがメインの仕事で、お医者様や大学の医学部の先生に取材をすることが多かったんですね。研究対象の尽きることのない深さとか、医療の現場の大変さとか、そのもろもろを見ていて私も引き込まれちゃったんですね。とても立派な先生って謙虚だったり、人間的にも魅力的だったり。こういう風になりたいなと、憧れてしまったんでしょうね。
- その猛勉強というご経験は、カフェグローブ立ち上げにも役に立ったのではないでしょうか?
矢野さん:そうですね。私、変など根性があるんです、きっと。やらないときは全然やらないんですけど、やるときはホントとことんやります。編集の仕事をやろうと思ったときも中途採用はどこも落ちてしまったんですね。だからフリーで始めたんですけど、経験がないのにフリーと言ってまわって。門前払いされたり散々な思いをしましたが、そのときも最低三年間はと、気合を入れましたね。もうちょっと要領のいいやり方もあるのかもしれませんが、ど根性勝負なところがありますね。
- 結局、医学部には進まれなかったんですね。
矢野さん:その年は私立しか受からなかったんです。本命は国立で、経済的にも私立の医学部にはとても進学できる余裕がなかったので、私立への進学はあきらめました。親にも「家を売るのか?」と泣かれてしまって。もう一年チャレンジしようと、予備校もお金がかかるのでやめてZ会の通信教育に切り替えました。お金も一年目の受験でけっこう使ってしまったので、ちょっとアルバイト的に仕事も再開したんです。でもね、仕事ってオールオアナッシング。都合よく仕事するなんてできなくて。復帰したとたん、たくさん仕事をいただいてしまって。結局Z会に答案を提出できたのは最初の3ヶ月くらいですね。優柔不断な私は、仕事のほうにずぶずぶと引きずられて気がつくと、編集中心の毎日を送っていました。
ちょうどその頃に結婚(1回目)をしたり、『世界で働く日本人女性』という、まさしくカフェグローブを立ち上げるきっかけになった特集に携わったりしているうちに、医学部普通より10年遅れてトライしたんだし、20年遅れてもいいかなと。それなら若いときにしかできない仕事、若いときにしか声をかけてもらえない仕事に邁進しようと思ったんです。
- その後、カフェグローブを立ち上げるまでに何か大きなターニングポイントはあったのでしょうか?
矢野さん:離婚が大きかったと思います。今でも、彼とは仲がいいんですが、友達のまま結婚して、友達のまま離婚した、そんな感じです。その頃は子どもが欲しいとも思わなかったし。1年くらいとことん話し合って、納得して別れました。
- とても丁寧な人間関係ですね。
矢野さん:そうですね。今でも本当に尊敬しています。
- その前後にも雑誌の創刊などに数多く携わっていらっしゃいますよね。
矢野さん:離婚してさすがに稼がなきゃ生きていけないので、仕事バリバリやって、個人事務所を作ったり。あと、ずっとフリーランスで関わっていたフィガロジャポンのTBSブリタニカ(現・阪急コミュニケーションズ)の方から「社員として来ないか」と誘っていただいたんです。
ちょっとさかのぼりますが98年頃から、カフェグローブの元になる構想を企画書にまとめて雑誌社にプレゼンするなんてことをやり始めていました。最初は雑誌でやろうと思っていましたから。でも「働く女性に興味はない」「広告媒体としていかがなものか」と、あまり色よい返事はなかったんですね。それで、「まあいいか、まだ時期じゃないんだな」と。雑誌を1冊面倒見る経験をしたことがなかったこともあって、TBSブリタニカにお世話になることにしたんです。このへんはアバウトですよねぇ。
- 後から見ると全然アバウトな感じではなく、筋道が立っていますよね。
矢野さん:こじつけているのかも(笑)。でも申し訳ないことに、1999年の2月に入社して、6月にシンガポールに住んでいる友人に「あの企画インターネットから始めれば実現できるんじゃないの?」って言われて。それで週末シンガポールに飛んで話を聞きに行きました。編集者の友人で後に創業メンバーとなる青木に相談したら「留学するまで手伝うよ」(その頃青木さんは留学を計画していらした)って言ってくれて。
それで話がどんどん進んでいろいろとやっていくうちに、フィガロジャポンの編集とサイトの立ち上げの両方は無理だと。それで本当に申し訳なかったのですけど、入社8ヶ月で辞めさせていただいたんです。それでカフェグローブを立ち上げたんです。
■成功の秘訣はあきらめないこと。それに尽きます。
- それでカフェグローブが立ち上がったのが、何年ですか?
矢野さん:1999年です。とにかく早くやらなきゃって。1999年のうちにどうしてもオープンさせたかったので、オープン日はぎりぎりの12月20日。なぜか私の中で「2000年では駄目、1999年にオープンさせる」という強い思いがあったんです。
- 「世界で働く日本人女性」というコアなコンセプトから、今では政治経済からファッションまで幅広い話題をとりあげ、たくさんの女性に支持される日本で指折りの女性サイトに成長したわけですが、1999年の立ち上げから軌道に乗るまでいろいろとご苦労があったのではないかと思います。どのあたりが一番ご苦労でしたか?
矢野さん:徹夜してコンテンツをアップするとか、そういったことは編集者として経験していたのでそれほど苦ではなかったんですね。もちろんもう徹夜は年齢的にきついですけど(笑)。私が苦労したのはいきなり経営者としての役割をになったので、さまざまなことを判断して進んでいかなければいけないのですが、いちいち勉強しながらで、とても時間がかかった。一つ一つがすべて初めての経験だったのが、苦労でもあり醍醐味でもありましたね。「医学部なんて受けてる場合じゃなかったよ、MBAとっとけよ」と、過去の自分を呪いましたよ。
- 走りながらのノウハウが実は価値があったんじゃないですか?
矢野さん:みなさんにもそうおっしゃっていただくのですが、その頃の私は財務諸表ひとつ読めなかったわけなのでね。スピード感が違うわけです。
- そうは言っても、ネットバブルがはじけた2000年以降も生き残り、かつ大変な人気サイトで、50人近い従業員を抱える企業に成長なさったわけで。あの頃ネットベンチャーに身をおいていた私から見ると、もう生き残っているだけでもものすごいことですよね。ここまで来れた最大の秘訣はなんだと思われますか?
矢野さん:あきらめないこと。それに尽きますね。
- 今やっていて一番のエネルギーになっていることは何ですか?
矢野さん:私は編集者を14年やって、ネットは8年なんですけど、編集者自体は読者の声をダイレクトに受け取る機会は少ないんです。売れた部数で反響があったんだなとか、もちろんアンケートもありましたが、リアルタイムではない。見られているページがPVと言う形でダイレクトにわかり、コメントやメールなどでナマの意見をもらい、読者とともにコラボレーションしていくという醍醐味はネットならではのものです。紙の編集だけやっていては決して味わえなかったものですね。既存のマスメディアの要素も兼ね備えており、かつ、ビジネスの広がりが無限のインターネットというツールとしての魅力にもわくわくさせられます。
- 一時期たくさん女性サイトができたじゃないですか。そのなかでスタートからのコンセプトを大事に現在まで生き残り、かつ熱い支持を得ているのはカフェグローブさんくらいかなと思うのですけど。自ら育て続けているところがすばらしいですよね。
矢野さん:ありがとうございます。
- カフェグローブの魅力のひとつに読者の方々の質の高さがあると思いますが、いかがですか?
矢野さん:質が高いという言い方が適切かどうかと思うのですけど、意識は本当に高いですね。世の中も良くしていきたい、自分自身も高めて行きたいという思いがありますね。女性の関心ってファッションや美容だけではないと思うんですよ。これからは政治経済も知らないと、自分の選択肢をどんどん狭めてしまうと思うんですね。選択肢が多いなかで自ら選び取れる人になりたいというのが当初からのコンセプトにあったので、知的好奇心の強い人ってこんなコンテンツに興味をもつんじゃないかという仮説を立ててはじめたら、実際、そういうユーザーの方々がついてきてくださったと思います。現在、ユニークユーザーで40万人ですね。
- 私はショッピングサイトのコンサルタントをしてもいるのですが、「今、女性にリーチしようと思ったらカフェグローブくらいしかないね」という話によくなります。それほど、圧倒的に女性サイトとしての地位を築いているということかと思います。先日は、Diorの大きな広告が表示されていましたが、ブランドを大切にする外資系の化粧品会社から信頼されると言うのはネットメディアとしては大変なことかと思います。
矢野さん:やっとですよね。でもまだまだ成功というには早いんですよ。

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■不妊治療の末の妊娠、そして出産への思い
- 二度目のご結婚は?
矢野さん:41歳のときです。
- 40歳になるときは何か感慨はありましたか?
矢野さん:あんまりありませんでしたね。自分が40になることなんてどうでもよくて、会社を成長させることのほうが重要でしたから。
- 私は結構、心理的に抵抗がありましたね(笑)。年齢を聞かれて、咄嗟に40歳と出なかったり。
矢野さん:私は8月が誕生日なんですけど、年が明けると「今年、○○才になります」と、もう加齢しちゃうんです。今は45歳だから四捨五入したら50代。年取るのはしょうがないし抗えないので、楽しい50代にしようと考えるほうですね。
- 二度目のご結婚のきっかけは?
矢野さん:実は、メーリングリストで見つけた人なんですよ。創業当時、米国人の技術者がサイトのシステム構築をしてくれたんですが、ちょっと特殊なツールを採用してしまったんですね。それでなかなか日本でアドバイスをもらえる人がいなくて、そのツールに関するメーリングリストを探し当てて、「助けてください」と投稿したら、助けてくれた人がいて。それが出会ったきっかけですね。もちろん、結婚はずっとあとのことなんですが。
- 現在妊娠中ということですが、今回はお子さんが欲しいなと思われたんですか?
矢野さん:実は40歳の時に、婦人科系のガン検診のついでにいろいろ調べてもらったんですね。そうしたら「無排卵月経」と診断されて、「あっ、このままだと子どもが持てない」と、自覚しました。そのときから不妊治療を始めました。最初はクリニックで漢方を飲むなど1年位しっかりやったのですけど、妊娠には至りませんでした。
治療自体もステップアップしたほうがいいという先生のアドバイスもあって、不妊治療を本格的にやっている総合病院を紹介していただきました。ただ、42歳くらいでものすごいストレスになってしまったんですね。時間的な負担というよりも、できない自分に焦りみたいなものを感じて、こんなにストレスが溜まるのならやめてしまおうと、とりあえず中断してジムで体を鍛えたりしていました。少しでも前向きのほうがいいかなと。
「ああ、もうぎりぎりタイムリミットかな」と再びその病院に駆け込んで。「2年あいちゃったのですけど、どうでしょう」と診ていただいたんです。そうしたらFSHというホルモン(卵胞刺激ホルモン)の数値がすでに治療の限界レベルまで上がってしまっていて「ここまで上がってしまったら、排卵誘発剤が効かないからあきらめましょう」と、先生に言われてしまい…。そうしたら無性に悔しくて、「先生、私まだ最後のステップの体外受精はやっていただいていないんです。あきらめるためにも1回だけやらせてください」と頼み込んだんです。先生も根負けしたのか「それなら卵子はたくさんはとれないけどクロミッドを使うというやり方があるから、やるなら早くやろうか」と、おっしゃってくださって、そうしたらできたんです。
- おめでとうございます。(拍手)
矢野さん:あのときやらないでいたら、その後悔って、一生つきまとったと思うんですね。やってダメならすっぱり諦めようとは思っていましたが。やらなくてできなかったという後悔をしたくなかったんです。
- あきらめないってすごいことなんですね。
矢野さん:子どもをいつか育てたいと言う思いは、二度目の結婚をしたときからずっとあったんですね。自分の子どもが出来ないとはっきり諦めがつくのであれば、養子ということも視野に入れて次のステップに行けるじゃないですか。次のステップに行くためにも、自分では産めないということにケリをつけたかったんですね。
- 子どもを育てたいというお気持ちはどんなところから?
矢野さん:家族を作りたかったんですね。彼も子どもを欲しがっていたし、産めない自分が申し訳ないなという気持ちもどこかにありました。(自分のほうが)年上ということもありましたし。子どもを育てる新しい体験をしてみたいというのも純粋にあったので、究極は自分の子どもにこだわらなくていいと思っていたんですよ。もちろん優先順位としては、自分と彼の子どもがほしいなというのはありましたけど。
ただ、ずっとできない側にいたので、産みたくても産めない人の気持ちがよくわかるんです。だから子ども至上主義にはなりたくないんですね。
- 私などはワーキングマザースタイルというどちらかというと産んだ人に限定しての情報提供をしてしまっているのですが、世の中には産みたくても産めなかったり、産まないという選択肢を積極的に選んだ人がたくさんいるわけで、そういう人たちの気持ちも尊重しながら、ご自分の経験を生かされた情報提供が実現するといいですね。バランスのとれた情報提供がきっとカフェグローブでは実現するのではないでしょうか?
ただ、矢野さんが45歳でご出産されると言うことが世の中に与える影響ってすごく大きいですよ。40歳過ぎて「もう駄目かな?」と漠然と思っている方って多いと思うんです。そういう方々に、大きな勇気を与えてくれると思いますよ。
矢野さん:もちろん、いろいろなリスクはあると思いますが、自分にとっての選択肢は多いほうがいいと。選択肢は多いほうがいいと。
私の場合、あまり40歳を意識しなかったんです。だから40歳前後を無駄にすごしてしまったという反省がありますね。不妊治療を中断したときは知らなかったんですが、低容量ピルを飲むことを選択して排卵を止めて卵子を温存しておけばよかったんじゃないかとか、もっと早く体外受精に挑戦すればよかったなとか。真剣に勉強しておけばよかったなと思いますね。自分が経験して初めて、生殖とか自分の体についての知識って、意外とお粗末なんだとわかりました女性誌の編集者やっていて、情報収集はそれなりにしていたはずなのにこのレベルですから。しかも学校で教えてくれるわけではありませんからね。
- 一番重要なのに、なぜか誰も教えてくれていませんよね。
矢野さん:パートナーはもっと知りませんから。女性は子どもが欲しいのに、人工授精や体外受精といった生殖補助医療をかたくなに拒む男性もいると聞きます。もちろんそういう価値観があってもいいとは思いますが、意外と知らないだけということもあるのではないでしょうか?
- なかなか不妊などの情報は表に出にくいと言うのもありますよね。
矢野さん:私も体外受精というのは妊娠したすぐは、社内でも言っていなかったんです。たまたま妊娠がわかった頃に、日本で初めて体外受精で誕生した女性が出産(※たしか出産だったと思います)したというニュースがかなり大きく出ているのを見て、体外受精ってまだそんな特別なこととして見られちゃうの?と少しびっくりしたんです。ただ調べたら、すでに年間1万8千人もいて、日本で誕生する赤ちゃんの60人にひとりは体外受精と聞いて、なんだそんなにいるんだって安心しましたけど。ほんの一瞬躊躇しましたが、いまはオープンにしています。
- 妊娠なさって意識が変わったこととかありますか?
矢野さん:実感して初めてわかることがたくさんありますね。女性の多い会社の社長として、社員の産休や育休については対応してきているんですが、たとえば、会社に横になれるスペースがあれば、安心して出社できるなとか、自分が当事者になってみてはじめてわかることもあるんだなとつくづく思いますね。
- 少子化対策も年金をもらう立場の人たちが当事者となって考えているから、私たちとギャップがあるんでしょうね。
矢野さん:どうして産まないのかという理由を考えていませんよね。育児参加をしていない男性中心の政治の世界では限界がありますよね。もっと幅広く経験者も含めて政策を提案させるとかしないと、産むことに対しての当事者からかけ離れた政策論議になってしまいますよ。
- あとは1人産んだ人が2人目、2人産んだ人が3人目を産みやすい環境を作るのも重要かなと思います。会社に勤めながら3人目が産めるってなかなか難しいと思うんですけど、それが可能になるといいなと。
■新カテゴリー“ペアレンティング”をオープン
- 今後の夢をお聞かせいただけますか?
矢野さん:夢と言われると難しいのですけど、一番のミッションは会社を成長させていくことですね。それと育児をどう両立させるかというのもありますが、どちらも楽しんでやるということくらいしか今は考えていないですね。社長だけが音頭を取ってばりばりやればいいという規模ではそろそろなくなっているので、組織として動ける仕組みづくりを進めていければなと考えてすでにいろいろ進めています。
せっかくこんなに遅くに子どもを授かりましたから、楽しく育児をしながら、これからの後半の人生はいろいろなことに挑戦していければなと思っています。今はこれくらいで実際に生まれてみたら大変だと思うんですけど。
- 矢野さんは大変楽しく育児されると思いますよ。
矢野さん:私が妊娠したからというだけではないんですが、今年の春くらいから編集スタッフたちが妊娠・出産・育児関連のコンテンツを準備してきました。みんな、「私も将来子どもを持ちたい、けれど持てるのかな?」という漠然とした不安を抱えているようなんですね。
社内でも毎年産休取得者がいますし、現在は2人目の出産で産休をとっている社員が2人いるなど、出産しても働きやすい会社作りというものを強く意図しています。また、カフェグローブユーザーの方々も子どもを意識し始めていることもあり、ユーザーに向けて何か発信できないかと考えたわけです。「いつ産むか?」「私は産める体なのか?」という読者の最大の関心事も含めて。
11月9日に“ペアレンティング”というものをテーマにした新しいカテゴリーをデビューさせます。対象は、これから産もうと思っている人、すでに子どもを持っている人、それからもちろん男性、そして子どもはいないけれど、なにかしら社会を通じて子どもと関わって行きたいという方。そんな方々に向けて“ペアレンティング”(parenting)というものを考えていけるきっかけしたいということで、あまり近視眼的なものにならないコンテンツにしてければと考えています。
元フジテレビのアナウンサーだった政井マヤさんをスペシャルエディターとしてご迎えて、出産・子育てに関わるジャーナリスティックな発信をしていただこうと考えています。世の中にペアレンティングという言葉を普及させたいなと。
ワーキングマザーとかママコンテンツというよりも、社会的に子育てを考えるということをカフェグローブではやりたいかなと考えているんです。
- 確実にステップが上がっていますね。
矢野さん:産まない、あるいは産めない方々もいらっしゃるわけですが、子どもへの関わり方はこれから本当に多様化していくと思いますし、それがparentingという言葉に凝縮されるような気がします。不妊治療にしても、基本は自分の体をベストな状態にもって行くための治療だったりするわけですよね。
- 自分の体との対話を割と軽視しがちですものね。
矢野さん:選択肢は多いほうがいいですから、将来産みたいと思うのであれば、そのなかで産める体作りとは、という意味での“ペアレンティング”ということにも焦点を当てていきたいなと考えています。
- 産まないという選択肢をとった人が居心地が悪くなることなく“ペアレンティング”を伝えると言うのはとても難しいことだと思いますが、カフェグローブさんならすごく上手に出来る気がします。
矢野さん:夫、妻、子どもという、いわば当たり前の家族もあれば、シングルマザーやシングルファーザーの家庭もある。自分で子どもを持たなくても、仕事で子どもと関わるということも含めて、もっと広く社会で子どもを育てていくというような視点でつくっていければと編集部も張り切っています。
- とても期待しています。本日はお忙しいところ、本当にありがとうございました。
■カフェグローブ
■セレクトカフェ
カフェグローブのセレクトショップです。矢野さんがお召しになっている女優スーツ、胸元のダイヤモンドジュエリー、そして3WAYのクラッチバッグ。どれも大人気のオリジナルアイテムだそうです。
■朝と夜のあいだに | カフェグローブ
矢野貴久子さんのブログです。
●インタビューを終えて
太陽のように明るくて、起業家としての明確なリーダーシップを感じさせながら、女性としての細やかさも伝わる本当に魅力的な女性でした。不妊治療についてもさばさばとおこたえいただき、これをお読みになったいろいろな立場のたくさんの方々が、とても元気になるのではないかと思います。矢野さんが母になることは、たくさんの女性たちを間接的に幸福にしていくのではないかと、心から期待し確信しています。本当にありがとうございました。(村山らむね)
2007年06月22日
インタビュー第16回目は、フリーキャスター・エッセイスト 雨宮塔子さん
投稿者 村山らむね
■子供がいるからという理由で物事を諦めるのは、子供を盾にした自分への言い訳
- 今回はインタビューのお時間をいただき、本当にありがとうございます。憧れの雨宮さんとこうしてお話することができて本当に嬉しいです。
超有名人でいらっしゃるので、ご存知の方もたくさんいらっしゃるとは思いますが、現在までのキャリアの軌跡を簡単に教えていただけますでしょうか。

撮影:篠あゆみ ヘアーメーク:瀬川真奈美 『小さなパリジェンヌ』(小学館)より
雨宮塔子さん(以下 雨宮さん):1993年にTBSアナウンスセンターに入社し、6年間アナウンサーとして勤務しました。1999年3月に退社して渡仏、パリで暮らし始めました。
- 雨宮さんの退社は私にとってもすごく衝撃だったのですが、29歳という年齢で、人気絶頂のこの時期にリセットというか退社されたのは、どのようなお気持ちがあったのでしょうか?
雨宮さん:30代をどう生きるかというのを入社してから考えるようになって、30代を迎える前にスタートを切りたかったんですね。それで29歳という半端な年齢だったのですが、私の中では実は確信犯的に準備を進めていました。
1970年、東京生まれ。
TBSの人気アナウンサーとして活躍
1999年、TBSを退社し、単身パリに遊学。(ルーヴル美術館美術学校)
2002年、フランス在住のパティシエ・青木定治氏(「パティスリー・サダハル アオキ パリ」オーナー)と結婚。
2003年に長女を出産
2005年に長男を出産
現在はパリで子供を育てながら、フリーキャスター、エッセイストとしても活躍。著書に『金曜日のパリ』(小学館)、『それからのパリ』(祥伝社)がある。
- ルーヴル美術館の美術学校に留学されていますが、大学時代から関心がおありだったのですか?
雨宮さん:いえ大学では英文科で美術とは全然違うことをやっていて、でも美術はいいなぁとずっと思っていました。小さい頃から美術だけは成績がよかったので好きではあったのですが、本格的に勉強したいと思ったのはTBSに入社してからですね。
- 私のことを言って恐縮ですが初めての海外旅行がパリでルーヴルに衝撃を受けて1週間で5日も通ってしまったこともあるので、ルーヴルには少々思い入れがあるんですね。だから、ご経歴を拝見してとてもうらやましかったんです!ルーヴルの美術学校でのご専攻は?
雨宮さん:私は聴講生だったのですが、3年間在籍しました。ルーヴルのプログラムは、先史時代から中世、ルネッサンス時代、現代美術の3本柱で成り立っていたんですけど、それを1年間でひとつずつ全部で3つ専攻しました。でも、初めの頃は語学もちんぷんかんぷんで、勉強したうちに入らないかもしれないですね(笑)。テープ等には取ってましたが、理解できていないところも多かったと思います。
そういうふうにどっぷり美術に浸れる機会は、パリに来てからです。そういう環境に身を置きたかったので。それは、日本にいてはできなかったし、時間もないとできなかったことですね。
- 聴講生として飛び込む勇気はすごいですよね。“憧れる”と“行動する”の間のギャップの大きさに打ちのめされます。
雨宮さん:いえいえ、正規の学生は大変ですけど聴講生はそんな勇気はいらなくて。最初は正規の学生というのも考えていたのですが、最初から厳しくするとパリが苦しくなるよ、というアドバイスがあったので、まずは楽しもうと聴講生として入りました。
- その頃の生活は、「金曜日のパリ」の本で楽しく読ませていただきましたが、最後、唐突に結婚されて妊娠されてらっしゃいますね。(補足、最後のほうであくまでもパリ在住の人気パティシエとして青木定治氏を紹介なさっていたと思ったら、十数ページ後にそれがきっかけで入籍なさったことをさらりと書いていらっしゃる)
雨宮さん:あの本は、ある女性誌で連載していたものなのですが、結婚後、連載を一時中断して本にまとめる準備をしていた時、妊娠が判明したんです。結果、あとがきに出産したことも書き加えたのでああいう形になっちゃったんですよ。
- 1冊目の「金曜日のパリ」は非常に自然体でありながらも異国での立ち位置を探るような緊張感がある本で、2冊目はすごくゆったりして母の視点というかすごく視野が深く広がっていていいな、と思いました。
雨宮さん:そういっていただけるとありがたいのですが、むしろ狭くなってきた気もするんですよ。
- 狭いというよりは、育児の中で自分の時間も、自然に生活のなかで調和しているという気がします。
アナウンサー時代もブラウン管から拝見していて、たいへん頭の回転の速い方でいらっしゃるのに、かつ天然で親しみやすくいらっしゃるところのギャップがすごく好きだったのですが、文章も、読んでいて背すじがぴーんと伸びるのに、堅苦しくない。硬質な文章なのにしなやかさがある。女性的な繊細さがあふれているのにどこか男性的な部分もあるという二面性が興味深かったのですね。テレビでしか存じ上げない人にとっては、かなり男性的な感じがする文章だと思うのですが、読んだ方に驚かれませんか?
雨宮さん:親しい人には、文章の方が近いらしいです。アナウンサー時代の頃も、私の一面であることは間違いないのですが、実像と少し違うよね、とよく言われてました。
- すごく魅力的な文章を書かれていて、本当に惚れ込んじゃいます。
雨宮さん:ありがとうございます。
■時間は自分で作り出すもの
- 次に、育児と仕事についてお伺いします。自然体でお仕事をしてらっしゃる印象がありますが、雨宮さんにとって現在の仕事の位置づけとはどういうものでしょうか?
雨宮さん:そうですね。会社を辞めたのは、自分の好きな仕事をやりたいという思いがありました。会社員だと断れない仕事もありやらなければいけないこともあります。フリーになったことで、僭越ながらも自分のしたい仕事を選ばせていただける立場になれ、とても恵まれていると思います。自分で選んだ仕事なだけに、それに伴う責任を取る腹づもりもできます。育児をしているので時間的な拘束が短いのもありがたいですし。普通に働いてる方には優雅だね、と言われちゃいそうですが。
- 原稿はいつ書いていますか?1日のうちのどの時間ですか?
雨宮さん:全く書かないときもありますし、締め切りが迫ってくるとたくさん書くときもありますね。
余裕があるときは、子供が二人共、偶然同時に寝てくれた時や朝方早く起きたりしたときに書き、せっぱつまってくると、ベビーシッターさんにお願いして無理やりでも時間を作り、カフェなどに行って原稿を書いてます。パリのカフェは、周りもあまり気にしないのですごくいいんですよ。
- 素敵ですね!お姿が目に浮かびます。お子さまが生まれたことによってますますメリハリが出ているのでしょうか?
雨宮さん:はい。子どもが産まれてからは、時間があるときにやればいいや、という逃げができなくなりましたね。時間は自ら作るものというか。
- そうですよね。母になると、時間は自分で作ったり買わないと、ただ「時間がない」で終わってしまいますよね。
雨宮さん:そうそう、気分じゃない、という言い訳も通用しないし。もう、ここしかない、という状況。
- また子どもって不思議と、ここ、という仕事のときに体調崩しますよね。
雨宮さん:ええ、そういうことありますよね。
- 旦那様も大変お仕事忙しいかと思いますが、家事の分担はどうしてますか?
雨宮さん:家事は分担できてないですね。ほとんど自分ですね。彼の帰宅が毎日深夜なので、平日は子どもと一緒に寝ちゃったりもします。休日は彼がご飯を作ってくれたり、最近、平日もたまに幼稚園に送ってくれたりしますね。
- なさそうに見えますが何か生活で大変なことはありますか?
雨宮さん:彼が月に1回は日本に帰ってしまうので、いない時は、まぁいても(忙しいので)変わらないのですが、子どもが二人とも病気したりすると心細いですね。それくらいですね。あとは、父親はこういう仕事なのだからと、腹はくくっています。
■フランスの子育て事情、勉強と食についての意外なこと
- 日本では今、少子化なので、フランスの子育てや育児事情が注目されてますが、ずばり日本とフランスの育児に関する考え方の違いは?
雨宮さん:フランスの人は子供を産んでも、子どもは子ども、自分は自分、で自分の人生を生きていますね。子どものために何かを犠牲にする、という感覚が一切ないと思います。
- だからたくさん産めるのでしょうか?
雨宮さん:そうですね。産前と産後で環境をガラっと変えなくてもいいので、迷いがないですね。今の環境を変えずに子どもを育てられるので。
- 私は会社員をやりながら子どもを産んだので、育児休職時も孤独で、復帰してからも肩身が狭くって。フランスではそういうことがあまりないのでしょうね。
雨宮さん:はい。フランスでは、みんな子どもを産んでも働くのが当たり前なので、環境というかサポート体制などが整ってますね。あとは、べったり子どもとの時間を作るというよりは、メリハリをつけていて、ベビーシッターさんや託児所等、お金で解決する部分が多いけれども、子どもの文化的な催しには熱心だったり、すごくメリハリが効いていると思いますね。
- なるほど。メリハリ、いい言葉ですね。だらだら過ごすより、自分の時間と子どもといる時間とメリハリをつけている。ところで、ご主人はパリを拠点にされてますが、今後お子さんにはフランスで教育を受けさせるご予定ですか?
雨宮さん:ええ。
- それはうらやましいですね。お子さんの幼稚園生活はいかがですか?
雨宮さん:今、幼稚園に通い始めて1年目なのですが、やはりまだ言葉の壁があるので、友達ができづらかったり、毎朝泣いたりしてましたが、最近ようやくだいぶ慣れてきました。
- 家では日本語?
雨宮さん:はい。
- じゃあバイリンガルですね。
雨宮さん:そうなるといいんですけれど。時々ませたことを言うぐらいおしゃべりな子なので、フランス語の環境だと伝えたいことがブロックされてそれがストレスになっている気はします。でも、ちょっとずつ(フランス語も)話せるようになってきました。
- 子育ての悩みはありますか?
雨宮さん:悩みというか、やっぱり子どもに友達が出来づらかったり、泣いて帰ってきたりということがあると、こっちもせつなくなってしまいますね。
- それはせつないですね。
雨宮さん:あと、逆にこっちは勉強、勉強、という感じなんですね。意外かもしれないですけど。例えば友人の小学校1年生のお子さんなどは、6時まで学校で復習して、家に帰ってさらに家庭教師のもと、勉強しています。日本人の子なのですが、(フランス語の)書き取りなんかがどうしても他の子より遅れるので追いつかせるために勉強漬けにならざるを得ないのです。日本では土いじりだったりびのびした教育がある、と聞くとうらやましくなります。
- 日本でも中学受験のために小学校3年生くらいから塾通いってありますけど、でもフランスはのびのびしている印象を勝手に持っていましたが。
雨宮さん:いいえ、むしろ勉強、勉強、という感じですね。
- 日本の育児情報はあまり気にしてないですか?
雨宮さん:はい、あまり気にしないようにはしています。子どもの日本語のために、週に1回日本語の学校には通わせようかなと思っています。

■小さなパリジェンヌ
- それでは、新しい本小さなパリジェンヌについてご紹介いただけますか?
雨宮さん:フランスの雑貨やモノの紹介、そのモノへの思いから、時にはパリのライフスタイルや社会の背景にも話をふくらませたつもりです。モノの写真がどーんとあって、そこに文章をつけている、というエッセイですね。
頑なだけれど自然体――そんな生き方、暮らしぶりが
鮮やかに伝わってくる、雨宮塔子の書き下ろしエッセイ
渡仏から結婚・出産までの4年間に渡って綴ったエッセイ『金曜日のパリ』は、同年代の女性たちから多くの支持をうけ、ベストセラーとなりました。あれから4年。雨宮さんは2児の母となり、子育てに追われる毎日を送っています。本書は、今の雨宮さんの生活になくてはならない、愛おしいものを題材に、日々の思いを書き綴ったエッセイ。・・ものの写真を通して、パリでの暮らしぶりがリアルに伝わってきます。アート、モード、グルメといった華やかなパリではなく、地に足のついた生活をしているからこそ見えてくる“もうひとつのパリ”がここにあります。
- 写真も雨宮さんですか?
雨宮さん:写真はいつもの篠さんです。篠ワールドが展開されてます。実は、らむねさんから頂いた漆器も紹介してるんですよ。あれは昔から好きな漆器で、日本のもので唯一登場していて、食育にからめて書いてます。
- 小さいうちから本物を使うっていいですよね。食のことも今までたくさん取り上げてらっしゃいますが。日本では今いかに簡単かというのが凌駕していて、でもフランスはいかに食に手をかけてるかというのが主流な気がしたのですが、いかがですか?
雨宮さん:逆ですよ逆。手を抜いている人は多いです。ひどいところでは、パスタにチーズを絡ませただけのお昼を食べさせたり。離乳食でも、日本では細かなレシピもありますがフランスでは見たことがありません。だから市販の瓶詰めのみの食事で済ませてしまう人もいます。離乳食をきちんと作ってるお母さんは知らないですね。でも食は大事な国なのでマルシェやスーパーで食材を買って、夕食はきちんとつくっていますが。子どもの栄養バランスをすごく考えているとは、私は思えないですね。
- えー、意外ですね。フランスこそ、小さな頃から食に関して力を入れそうなのに。意外です(笑)。ところで、お子さんはお父様の影響でお菓子好きなんですか?
雨宮さん:そうですね。特に息子のほうが好きですね。娘は私に似てお菓子の中でも好みがうるさい(笑)。息子は彼に似て甘いものなら比較的何でも好きです。
■理想は“自分の人生を謳歌していて、子離れできていて、でも愛情たっぷり”
- 雨宮さんが今後トライしたいことについてお伺いしてもいいですか?
雨宮さん:書く量をもう少し増やせれば、とは思います。でも、時間的には今でいっぱいいっぱいですね。書く分野ももうちょっと広げられれば、と思っています。
- ぜひ小説も、お書きになってください!
雨宮さん:小説は、もう、自費出版で(笑)。そうなれればいいなとは思いますけど。
- 目標にしてる方はいますか?
雨宮さん:私それが、いないんですよ。フランス人女性は見てていいなと思いますけど。自分の人生を謳歌していて、子離れできていて、でも愛情たっぷり、みたいな。
- 「子供がいるからという理由で物事を諦めるのは、子供を盾にした自分への言い訳」という雨宮さんの言葉にワーキングマザースタイルのスタッフも皆、感動・賛同していて、私も全くその通りだと思うのですが、仕事か育児か、と2者択一で考えてしまって悩んでいる方や、仕事と育児のバランスの取り方に悩んでいる女性に何かメッセージはありますか?
雨宮さん:子どもに我慢を強いたりさびしい思いはそれはさせていると思うけど、外で仕事をしていて自分というものを保てる分、子どもにもいい笑顔を向けられる、そうして本当に愛情を示すことができる。私にはそれしかできないですね。
- 時間と愛情を、その人なりにきちんと示せればいいのだけど、こうじゃなきゃいけない、という思い込みがあるかな、って思いますね。
雨宮さん:仕事を辛そうにしていると子どもにも影響はあると思うけれど、仕事をしているお母さんが魅力的に映れば、子どもも将来自分もそうなりたいと当たり前のように思うようになる、そういうことが伝えられればな、と思います。
- お母さん自体が幸せであることって重要ですね。普段、疲れまくってる自分を猛烈に反省しました。
雨宮さん:それはそれで我慢しなくていいと思うんですよね。ダメなときは、あぁ、仕事は大変なんだ、と思ってくれて、でもそれはいつもじゃなくて。でも自分に愛情を向けてくれていることは子どもは絶対わかってくれると思います。
- ありがとうございます。ふっと楽になりました。映像と執筆のお仕事をやってらっしゃいますが、今後のお仕事についてはいかがでしょうか。
雨宮さん:映像は時間的な拘束が大きいので、子どもが小さい今、これ以上入れるのは難しいかなと思ってます。スタッフみんなで作り上げるのは好きなので、細々とでも続けていければいいのですが…。
- アナウンサーという憧れの職業からリセットし、日本から遠く離れたフランスでとても自然体に生活をしてらっしゃって、私達も拝見していてすごくハッピーになります。
雨宮さん:そう言って頂けるのが一番うれしいです。
- 今度の新しい本もすごく楽しみにしています。それだけでなく、「それからのパリ」については、食についてや親の本質についてとても素敵に書かれていて、ワーキングマザーにぜひ読んでいただいて、雨宮さんの魅力をより一層知っていただきたいですね。
雨宮さん:ありがとうございます。
- 最後に、同志といったら失礼かもしれないですが、ワーキングマザーである私たちにメッセージをお願いします。
雨宮さん:サイン会をやらせていただいた時、雨の中ベビーカーで来て下さった方がいて、その姿にすごくじーんときました。辛いときや大変な時に、他にも大勢同じ、いえ、もっと大変な環境の方がいることに思いを馳せることで救われることがあって、私自身、励まされている部分が実は多いんです。文章を書くことの背中を押してくれているというか、すごく励みになっています。こちらこそワーキングマザーのみなさんにお礼を言いたいんですよ。
- 旦那様のお菓子も大好きなのですが、旦那様はスイーツで私達をハッピーにしてくださって、雨宮さんは文章やそのライフスタイルで私達をハッピーにしてくださって、お二人には心から本当にありがとうございますと言いたいです。今後のご活躍、心からお祈りいたします。
●インタビューを終えて
すっかりファンモードになってしまって、お恥ずかしいかぎり。でも雨宮さんは初対面の、かつSkypeでのインタビューという条件でとても丁寧に親切に答えてくださいました。言葉をしっかり選んで、かつ何度も周囲の人々への感謝の言葉を口になさる雨宮さんにすっかり魅了されてしまいました。知的な文章が魅力的なエッセイストとして、またパリで大人気のパティシエの奥様として、日本とフランスの文化の架け橋としてのご活躍を心から期待しております。(村山らむね)
2007年05月16日
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投稿者 村山らむね
http://www.wmstyle.jp/archives/2007/05/16_155000.php
2006年08月13日
インタビュー第14回目は、感性リサーチ代表取締役 黒川伊保子さん
投稿者 村山らむね
■しあわせな天才脳に育てるために
「しあわせ脳」に育てよう! 子どもを伸ばす4つのルールの著者である、黒川伊保子さん。脳をエンジニアリングの立場から研究。株式会社 感性リサーチ 代表取締役社長でもある黒川さんに、最近注目を集める脳と子育てに関して、お聞きしてきました
- まずこの本ですが、もし自分に資産があれば日本のお母さん全員に配りたいくらい、今、日本のお母さんに必要な本だと感じました。
黒川伊保子さん(以下黒川さん):そんなに思ってくださって、本当にありがとう。でもね、逆に聞いてもいいかしら、らむねさんはこの本のどこにそんなに感動しましたか?
- お母さんは、もちろん私も含めてですが、ついつい子供を「いい子」に育てたいと思いがちですが、この本の「しあわせ脳」に育てようにあるように、幸せとは脳の状態であって、それはこの本にあるようないくつかのルールを守れば叶えることが可能なのだということが、まず、目からウロコでした。
黒川さん:脳のあり方に感動してくださったということですね。・・・ごめんなさいね。こんな聞き方をしたのは、私の本に書いてあることは「早寝、早起き、朝ごはん、読書」の推奨。あまりに当たり前のことなので、どこに感動してくださったのかな?と、純粋な質問だったの。らむねさんは、そういうことをしっかりやっているお母さんのように見えましたので。
私は、理系で技術畑の人間なので、どうしても、物事の定義をきっちりしないと気がすまないの。子どもを産んだとき、この「子育てプロジェクト」の目標を明確にし、中長期計画を立てなきゃ、と、自然に思った(笑)。それとスローガンも立てなきゃ、と。
私は人工知能の専門家として、脳の機能論を研究する立場。なら、いっそ最高の性能の天才脳に育てようと決心しました。でも、ほら、その前に「天才脳」とは何かを定義しなきゃならないでしょう? そうしなきゃ、その目標に向かえない。「天才脳とは何か」の探求に何年もかかってしまいました。でも、見つけたの。それが、この本の冒頭に書いた「幸福な天才脳」という状態なんです。
脳をどう育てるべきかという研究の成果が、どうしたら「幸福な天才脳」に育つのかが、この本に結実しています。
ただね、天才脳の定義に8年もかかってしまって、当然、うちの子は8歳になってまして(笑)。育て方を確立したときには11歳になっていたかしら。親として脳を育てられるというのは15歳がギリギリなんです。そもそも12歳の段階で大人脳は完成するんです。私自身の子育てというか、脳育てについてみれば、かなり手遅れ。つまり私自身の研究成果は、私の息子には反映できなかったんです。
- そう冒頭でも、書いていらっしゃいますよね。
黒川さん:そうなの。息子には申し訳ないことをしたなと思うんですが。せっかくですからこれから子育てをする人たちに、つまりまだ間に合う人たちに、この本を活かして頂ければなと。
- ありがとうございます。たくさんのお母さん方に代わって、お礼申し上げます。
生きる力
幸福に、生き抜く力
母としての私が、息子に、どうしても持ってほしい能力だった
同じような思いのある方に、きっと楽しく読んでいただけると思う
わたしは冒頭のこの部分にじーんときてしまって。今、たくさんのお母さん方が、情報過多のなかで、子供をどう育てたらいいのか悩んでいると思うんですね。この「幸福に、生き抜く力」という言葉が、すごくシンプルだけど、ひとつの解なんじゃないかなと、この部分だけでも、たくさんの人に知ってほしいなとつよく思いましたね。
いい教育とは何かということを考えるときに、この「しあわせ脳」という言葉がそれを解くひとつのキーワードになるのではないかと。この「幸福脳」という言葉に込めた思いを、もしよろしければお聞かせいただけますか?
黒川さん:実はね、私は「天才脳」という言葉を使っていて、「しあわせ脳」という言葉の名付け親は編集の方なんです(笑)。私が使う「天才脳」というのは、ちょっとそのまま使うと、誤解を招くので、「しあわせ脳」としたんですよ。
私が定義する「天才脳」というのは、つきぬけたインスピレーションをもつ人たちなんです。予知能力が高い、もしくは予知能力事態が顕在意識にないままに、自分につなげていける人たちなんです。だから、 「私って運がいい」と思っているひとなんです。
誰が幸福だったとか、たとえば松下幸之助さんが幸福だったとか、そういうことではなく、純粋に脳科学からの立場なんですけど、直観力が働くということはですね、まあ、専門的に言うと皮質を超えた長い軸索のニューロンが発達した脳なんですね。つまり脳として科学的・機能的に定義できるんです。その人たちが現実的にどんな人たちかというと、
本からの引用
「頭もいいけど、それ以上に運がいい人」といわれる人たちなんですね。具体的にいうと、いつもしみじみとしあわせそうで、常に好奇心と意欲を失わず、健康で穏やかであったかい。おっとりして見えるのに、決断は早い。集中力があり、短いことばに説得力がある。頼りがいがあって、飾らない人柄なのに、なめてかかれない威厳を持っている。いつも、何かに感謝している。(7ページより)
これは、軸索の長い皮質を超えるニューロンが活性化した脳をもつ人の特徴なんです。だから、普通のお母さんが、「天才脳ってノーベル賞の田中さんみたいな人なのかしら?アインシュタインみたいな脳なのかしら?」いうのとまったく逆のアプローチで、もっとも脳のベースの機能が活性化した時に、その人の脳がどんな特質をもっているかということから導き出しているんです。
私自身は、息子に引用部分のように育ってほしいと思ったんですね。科学者であろうと、エンジニアであろうと、研究者であろうと、経営者であろうと、どんな職業であろうと自分の好奇心を追求できるだろうし、人に会いたいなと思わせる魅力をもつだろうし、どこへ行っても「僕は運がいいんですよね」と言いながら幸せになっていく。私はこれが“天才脳”だと思っているんです。
世に言う天才脳っていうのは目立つということがすごく重要だけど、わたしが言う天才脳の持ち主は、別に世の中に目立たなくてもいい仕事をして穏やかな一生を過ごしたりするんだと思うんですよ。人に天才と言われていない人が大部分だと思いますよ。脳科学的に見て、もっとも本人が幸福で、かつ脳が活性化した状態というのを、定義して、かつ、「しあわせ脳」と名づけていただいたんです。
- 今、脳ブームで、巷では脳を鍛えるものが溢れてきていますよね。計算力とか記憶力とか。いわゆる左脳的な、情報処理能力としての脳にクローズアップして、あなたの脳は何歳だとか。そういうなかで、同じ脳に焦点を当てながらも全然違いますよね。
黒川さん:今日、午前中取材だったの。一度、「脳のアンチエイジングについて取材したい」と言われたときには、断ったの。だって、アンチエイジングっていう考え方って、ものすごくナンセンスだと思っているから。
脳は一生、穏やかに成熟しながら階段を登っていくもので、アンチエイジングということを言う人たちは、ある年齢の脳を頂上に見立てて、そこから階段を降りないようにしようという考え方だと思うのね。
脳というのは、生殖適齢期、つまり子供を生んで育てるときに、もっとも過敏に動きます。記憶力もすごくあるし、100なら100、全てを読み取る力もある。それを短期間で処理する力もある。いわゆる頭のいいといわれる状態ですね。これは動物でもそう。今日落ちた穴に、明日も落ちていたら、えさは永遠に巣に運べないわけだし。子育て期間中は、記憶力が生きる力の必然なんです。
人間は18歳から20代までは、記憶力もはたらくし、多数のタスクを処理する能力がもっとも働く時期なんです。だけど、そういうときは、物事を俯瞰する能力は働きにくいんですね。目の前のことを処理することはできても、長期的に物事をとらえられない。
でも、脳が成熟してくると、達観して、より本質的なことを見極められるようになるんです。物事を、遠く、高く、深くみることが出来るようになるんです。脳の質が変わっていくんですね。余分なことは忘れるようになる。
若いときは、短い軸索のニューロンがくちゅくちゅ動いているんです。どうしても左脳偏重型になって、つかみに力が弱くなる。見通す力、待つ力がないんです。それが、30代後半になってくると、そういう力がどんどんでてくるんですね。脳が成熟したり、逆に赤ちゃんのときは、長い軸索のニューロンがはたらくんですね。そんなときにですね、記憶力がちょっと弱くなったからといって、脳をちょこちょこ使う力を鍛えてどうするの?本来、次のステージに上がるべき脳の力なのに。だから、脳のアンチエイジングってほんとナンセンス!何を考えているんだと。私たちの脳は完成に向かってゆっくりと成熟しているから、いつだって1年前より高いところにいるんです。
なんで世の中の人たちが、短い軸索のニューロンのくちゅくちゅ動くものにこだわっているのか。つまりテストの点数なんかは、とれるわけですよ。そっちのほうが。物忘れもしないしね。
でもなんで、その20代の脳を、人間の脳にとって一番いい状態と過信するのか、それから成熟していく脳を、まるで悪くなっていくかのように捉えるのか。それが不思議なんですよね。
短い軸索のニューロンと長い軸索のニューロンは同時に同質には活性化できないんですよ。計算の得意な脳は、予知能力は低いし、生物としての魅力も低いはずなんですよ。だから、そういう未成熟の脳を最高とみたてて、みんながそこに向かって伸びようというのが、私には理解不能。
アンチエイジングも子育てもそう。いい学校に入れるということはなんなのかということも、私には理解不能。だから本当にもうしわけないけれど、「ここが間違っている」という指摘は私にはできない。どうしていい学校とされる学校にみんなが邁進するのか、私にはまったくわからない。私の立場からは、間違っているとも言えないし、痛々しいとも言えない。
子供の成績がいいとか、いい学校に入ったとか、何がそんなにうれしいのか、まったくわからない(苦笑)。
- その感じはよくわかります。なぜなら、この本の13ページまで読むと、今まで私が“いい”と思っていた常識から、ぽーんと突き抜けた表現がたくさん出てくるんです。そして、その後を読み続けると、そのことがいかに脳の仕組みにとって合理的で、自然なことかがわかりやすく書かれているんですね。
たとえば、「早寝、早起き、朝ごはん」という最近、巷(ちまた)でもよく言われることですが、それが脳の仕組みにとってどのように大切なのか、成長過程のどの時期に重要なのかが、精神論ではなく、具体的にかつ科学的に書かれていますね。だから、この本は日本のお母さん必読だなと、もう心酔してしまって。
編集者:でもこれは、絶対こうしなくてはいけないということではなくて、あくまでも黒川さんの一意見ですよね。
黒川さん:そう。わたしの方向からは、子育てはこうとしか見えない。だからゼロ歳児から塾に通わせるとか、一番睡眠が重要な時期に、眠りを削ってお受験をさせるとかについては、もう、どうしてさせるのか全然わからない。
何かをさせるときには、必ずそのことのゲイン(効用)とリスクを考えますよね。まあリスクに気がつかなかったとしてもゲインをなんだと思ってやっているのか。逆に聞きたいくらい。
- お受験させたいという親御さんを代弁すると・・・。いい学校に入れたいというニーズには、いい教育を子供たちに受けさせたいという思いとともに、いい人間関係を提供したいという思いも十分あるのではないでしょうか?たとえば、私なんかも慶應に大学から行っていますが、慶應の幼稚舎(小学校)コミュニティーなんていうものには、大学からぽっと入った私なんかはまったく入り込めない、強固なネットーワークになっているわけです。そういう人たちのご家庭は、それこそ、親の代どころか3代前から日本に対して大変な貢献をしていたりするわけで。知識が身に付くからというだけでない、人間関係の環境という面で、いわゆる“いい学校”に入れたいというニーズがあるのではないでしょうか。
黒川さん:それならいいんじゃない?それはそれで。基本はお母さんがいかに幸せかっていうことだから、お母さんが幸せだと思う道を選ばれたらいいのではないでしょうか。
この本は売れたら売れたでいいけど、売れないほうが幸せなのかなと思うんです。この本に書いてあることは、眠りを削ってお受験なんていうことに、直感的におかしいなと思っているお母さんなら気づいていることばかりなのですから。
脳というものをひとつの製品に見立てて、どのように機能向上するかというものの見方を、楽しんでいただければと思いますね。全てのお母さんが間違っているとも思わないし。
編集者:こういう考え方もあるというくらいにとっていただいたほうがいいかもしれません。

黒川さん:脳は傷ついたら傷ついたなりの、偏ったら偏ったなりの、生き方ができるんです。たとえば、早期教育をさせた脳は、発想力は枯渇しちゃうんですね。だけど、単純なタスクを繰り返す能力はあって、官僚には向いてるわけ。
アインシュタインとか、物理学者の有名な人たちなんかの多くは、伝記を読めば分かりますけど、小さい頃、熱病にかかって死にかけたりしているの。アインシュタインは5歳の頃まで言葉をしゃべらなかったと言われているのね。どっかがショートしているから、「時間が相対的だ」なんて発見しちゃうわけ。ある意味、狂っているのね。狂ったら狂ったなりの、使い前があるのね。だから脳なんてどう育ってもいいのよ。本当は。
お母さんが目標を立てて、こう育ったらうれしいと考えて、育てたのであれば、いいんじゃないでしょうか。まあ、火をつけられたら困るけど、でも自分の子供に火をつけられたら仕方ないじゃない?子供の脳ががストレスを受けて育ったら、それなりの生き方があるわけで。
ただ、この本のように育てると、とりあえず偏りのないように育つんですね。偏りがなく育つと、選択肢の幅が広がるんですね。クリエイターにもなれるし、研究家にもなれる。学校の先生にも、分析家にもなれる。全方位の選択肢がうまれるわけです。
3歳のころから指をたたいてヴァイオリン習わせたら、普通はろくな大人にならない。でも100人のお母さんがそういうことをして、99人は失敗しても1人芸術家が育てば、いい育て方として世間は認知しちゃうわけ。音楽やスポーツには、早期教育でしか身に付かないこともあるので、それがごくまれに、それを受け入れる子供に当たれば、天才が生まれるのね。親の思い込みが大ホームランにつながることもあるわけです。
もっとも幸せな方法論を、お母さんそれぞれが探していけばいいのではないでしょうか。
- 今、お母さん方はたくさんの情報に囲まれて、右往左往しているような気がして、少々可哀想な気がします。いかがですか?
黒川さん:選択をするということは、捨てるということ。自分の子供のために情報を選択するということを、お母さん方には凛々しく考えて欲しい。お母さんは被害者じゃないんだから。基本的にどちらかといえば加害者の立場なんだから。だからわたしは、お母さんが大変とも、かわいそうとも思わない。ワーキングマザーにも自己憐憫の気持ちはもってもらいたくない。私自身、生まれてこの方、自己憐憫の気持ちは持ったことがないのね。「わたしって可哀相。わたしにごほうび」なんて思ったことがない。でも、最近女性誌の取材とかで「わたしって可哀相」とか「がんばったわたしに、ごほうび」なんていうテーマで聞きにこられて。わたしは大人の女性が自分をかわいそうにおもったり、自分にごほうびを上げる心理がわからないから。
みんな大人なんだから、凛々しく自分の足で立とうよ、って思いますね。
あまりの私の著書への心酔ぶりに、少々ブレーキをかけられたご様子。少々厳しいような文面にはなっていますが、まっとうなことをまっとうにおっしゃっているその明快さに、感嘆するばかりです。少々、タイミングは逸しましたが、「早寝、早起き、朝ごはん」とりあえず、新学期から家族で励行したいと思います。最後の最後で、また叱られちゃいそうですが、ほんとうに本、すばらしいので、ぜひ。(村山)
黒川さんが代表取締役を勤める株式会社感性リサーチのサイトです。
■感性リサーチ
本のもとになった、MouRaの黒川さんのブログです。
■黒川伊保子「こたつ亀おやこのまどろみ日記」
2006年03月26日
インタビュー第13回目は、メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン事務局長の大野寿子さん
投稿者 fellow
■難病と闘う子供の夢をかなえる。そのための種をまくのが仕事です
重い病気と闘う子どもの夢をかなえるボランティア団体「メイク・ア・ウィッシュ」。日本事務局長を務める大野寿子(ひさこ)さんは、6人の子供がいるワーキングマザーでもあります。
4人の子供を連れて離婚し、シングルマザーとして、40歳で初めて働き始めるものの、うまくいかず自信喪失・・・。その後、現在のパートナーとの再婚が決まり、家族が8人に増えようとした頃「メイク・ア・ウィッシュ」と、運命的に出会う。そんな大野さんが、ご自身の人生の岐路で感じてきたことや、2月に上梓された著書『メイク・ア・ウィッシュの大野さん』でも書かれている活動内容について、お話をうかがいました。

― ご出身は香川県ですね。子供時代、どんなお子さんでしたか?
大野さん:実家が商売をしていたので、みんなにかわいがってもらえて、人が好きでした! すくすく自由に自己表現ができたし、好奇心旺盛な子供時代だったと思います。
小学校4年くらいの時、キリスト教の集会が市民会館で開催されるという案内をもらったんですが、それがとてもかわいいマリア様の絵のカードだったんです。面白そうだね、とみんなで行ったら、外国人の宣教師のご夫妻とお子さんがいて。そういう初めての異文化体験が新鮮で、それ以来、そこに行ったらクッキーを焼いたり、という知らない世界に出会えて、とっても面白かった。だから、ずっと小学校のころは、教会に行ってました。中学校になると、ほかにもいっぱい面白いことができ始めて、ちょっと遠ざかってたんですけどね。
― 大学進学を機に上京されて・・・在学中は、劇団活動に力を入れてらしたそうですね。
大野さん:今思い出しても恥ずかしいくらい、不出来な学生時代でしたね。お芝居が好きで、夢中でした。当時、劇団四季は、今のような立派な劇団じゃなくて(笑)、まだ切符売りをしなければいけない時代だったんです。私は研究所の5期生で、6期生には鹿賀丈史くんや市村正親くんがいて、もう“プロ”という感じなんですが、5期は「芝居が好き」という程度の普通の人たちで、6期とはものすごい差があるんです。私は、歌も踊りもできなくて、劇団四季ではドンビリだったと思います(笑)。お芝居は好きだったんですけれど。
― 劇団がミュージカル路線にシフトしていったこともあり、大学卒業後、結婚を機に劇団は辞めて、その後、お子さんを続けて産んでらっしゃるんですね。
大野さん:女の子が欲しいと思ったけど全然できなくて、気がついたら4人も続けて男ばっかり(笑)。・・・子育ての時期って、振り返れば、ほんのちょっとの間。でも、それは終わってみて言えることで、中にいるときには、これが永遠につきまとうのかなって感じるよね。毎日毎日、ぞろぞろぞろぞろ、悪ガキをくっつけて歩いてると、この子たちのために自分のエネルギーをすべて吸い取られるようで、4人を風呂敷でくくって押入れに放り込みたくなるような(笑)。もちろん、子育てって面白いけれど、その反面、イヤだこんな生活!みたいに思ったりもしてましたね、正直にいうと。「毎日毎日は、やめてくれ~!1週間に2回くらいにしてほしい!」って(笑)。87年に夫の転勤でアメリカに行ってからは、とにかく、子供たちに英語を勉強させるのと、学校の送り迎えのドライバーをやってるだけでエネルギーを消耗するというか・・・。まだまだ元気な年代でしたけど。
●●大野さんの年表
1951年 香川県に生まれる
1970年 上智大学文学部に進学、東京へ
在学中は劇団四季付属の演劇研究所5期生として、芝居に明け暮れる
1973年 大学卒業後、商社マンと結婚。
計4人の男児の母となる
1987年 夫の転勤に伴い、渡米
1991年 離婚し、子供4人と共に帰国。劇団時代の友人が経営するブティックで働く
1994年 再婚。計6人の子供の母に。
ブティックの仕事を辞め、銀行のパート勤務への転職を考えていた矢先、
アメリカのボランティア団体「メイク・ア・ウィッシュ」の活動を知る。
日本事務所が沖縄から東京に移転すると聞き、スタッフに志願。
以後「メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン」(MAWJ)の事務局長として、
難病と闘う子供たちの夢をかなえる活動に、精力的に取り組む。
■「こんな私でも神様は許して下さっている」とクリスチャンに
― 第2子ご出産後、洗礼を受けられたそうですが、何か、きっかけや心境の変化があったのでしょうか?
大野さん:学生時代、本当に不出来で、学校も行かなかったし、勉強しなかったということだけでなく、生活そのものが不出来だったと思うんですね。いっぱい人を傷つけもしたし、間違いも犯したし。そんな自分が結婚して、夫もいて、子供にも恵まれ、とても幸せな、平安でやわらかな生活を送っている。このような私でも、神様が、ずっと見てて許してくださってるということなんだろうなと思ったんです。そんなところから、クリスチャンになりました。
― 91年に離婚。お子さんを4人とも連れて、帰国されました。自分ひとりで経済的に養えるかどうか、という心配はありませんでしたか?
大野さん:自分でも思うんだけど、ものをあんまりシリアスに考えてないというか考えが浅くて(笑)、普通なら、まず石橋を叩くところを、すぐに渡っちゃうところがあって。とにかく、自分が全員連れて帰って一緒に暮らすしか道がない、ほかに選択の余地はない、と思ってた。周りのお友達が心配してくれて「4人もいなけりゃねぇ。ひとりかふたりだったらよかったねぇ・・・」とかいわれたけどね、だからって、誰かを手放して置いてくるなんてことは、全然、考えてもいなかったし。ただ、じつは、あんまりお金の苦労をしたことがなかったので、それがすごく大変なんだとわかってなかったの。なんか妙に根拠のない自信があって、自分はちゃんとやれるんだ、みたいに思ってて。それは過信だったと、後で気づくことになるんだけど・・・。
■40歳で、初めて働くことに。でも、“へなちょこ”でした
大野さん:日本に戻ってきた後、劇団時代の友だちが経営しているお店で、働かせていただいたんです。本当に彼女がいたから、普通の生活ができたんですね。だって、全然ろくに仕事をしたこともないのに自分はやれると勝手に思い込んでる、鼻っ柱の強い人間だった私を、何のトレーニングもなく雇ってくれて、しかも、「あなたのところはこれだけの子供を養って学校に生かせて家賃を払っていくために、これぐらいは要るだろう」という発想で、お給料をくださったんでね。その人のおかげですね。本当にありがたかった。
村山:ワーキングマザースタイルのスタッフにもシングルマザーが複数いるし、読者の方にも多いんです。なので、すごく、勇気付けられる気がします。
大野さん:でもね、その時代はへなちょこでした(笑)。仕事があまりにもできなくて。仕事ができるっていうのは、ある仕事を指示されたときに、それが仕事の全体の流れの中ではどんな意味があり、次にどうつながるのかを理解して、段取りよく進められることですよね。それが、私は全然その訓練ができてなくて、性格的にもアバウトってこともあるんだけど、たとえば、いろんな色の、たくさんのボールの数を数えて、といわれると、意味も考えず、やみくもに端から1,2,3,4,5,6,7・・・って数え始めちゃう。で、途中で電話が鳴って、それに出たりすると、ボールの数がわからなくなって、もう一度最初から数え始める羽目になる。・・・元気だし、本人も苦にならないんだけど、すっごく能率悪い(笑)。色別に数えて後で足し算したり、分類して整理しておいて、必要な時にはすぐに出せるようにしておく、というような基本的なこともできないんだから、はっきり言って、仕事ができないよね。
― 新卒の社会人1年生レベル、という感じでしょうか。
大野さん:いやぁ、幼稚園レベルね。でも、自分がそんなにできない人間だったとはそれまで思ってなくて。ちょっと努力すれば、何だって他人よりもうまくできる、と思い込んで生きてきたの。だから、できない人を見ると「要領悪いなあ」とか「トロい」「努力が足りない」と、内心軽んじてたの。表面的には仲良くしながらも、心の奥底では、非難したり、批判したり。ところがどっこい、自分がまさにそれだったと気がついて「今までごめんなさい!」と。これは本当に、自分が立ってる基盤を失くすくらい、情けなくて、みじめで・・・無力感でいっぱいでしたね。
― そのときの心境を「この経験がなければ、自分は元気なだけの、自信家のイヤなオバサンだった」と述懐されていますね。
大野さん:そうそう。その通りなのよ。根拠のない自信を持ってて、元気で勢いだけはあるから、きっと周りから見ると暑苦しい、困ったオバサンだったと思う・・・。今は、うまくできない人や失敗する人を見ても「ああ、自分もできないから、わかるよ、その気持ち」と思うようになりましたね。・・・ずっとキャパシティが広がったと思う。
■「やりたいことは決まっているんじゃないの?」の言葉に背中を押される
― 自分への自信が、粉々に打ち砕かれた。そんな経験を「あんな目に遭わなければよかった」と否定したり忘れ去ろうとするのでなく、きちんと受け止めて糧にされているのが、素敵だと思います。・・・その後、教会に通う仲間だった大野さん(現在のパートナー)と再婚されたのが、94年。
大野さん:彼は、私がアメリカに行く前から、奥さんや子どもたちと教会に来られていて。当時は「おはようございます」と挨拶を交わすぐらいの間柄で、そんなに仲が良かったわけでもなかったんだけど、私たちがアメリカに行っている間に、奥さんが、交通事故で亡くなったんですね。

1238円/メディアファクトリー
(この本の大野寿子さんの印税はすべて、メイク・ア・ウィッシュの活動資金として難病の子どもたちの夢をかなえるために使われます)
― 「メイク・ア・ウィッシュ」は、世界30カ国で14万人の子供を夢の実現をサポートしてきた団体ですが、その活動内容を知り、惹きつけられ始めていた頃、じつは、すでに銀行でのパートの仕事が決まっていたとのこと。でも「やりたいことは決まっているんじゃないの」と、再婚することが決まっていた今のご主人が、背中を押してくださって。
大野さん:そうですね。この人と出会ってなかったら、MAWJの活動にも、ボランティアとして時々関わるぐらいはしたかもしれないけど、こんなにのめりこんだり、スタッフになったりはしなかったと思う。のろけになりますけど、彼と再婚するまで、こんなに自立している男の人がいるとは思わなかった。
― うらやましい!
大野さん:うらやましいと思うでしょう? ・・・前の夫は、べつに悪い人ではないんだけど「家に帰ったら、ごはんができているのが当たり前」で、自分が家事をすることはないし、休日は寝てる、というのが、彼にとって機嫌のいい状態だったんですね。私も、機嫌を悪くされるのはイヤだったし、男の人に意見を言ったり頼みごとをしちゃいけない、と思っていて、言えなかったんです。耐えて尽くすのが、居心地よかったんでしょうね。演歌みたいな。
■パートナーを育てて生かす、そんな人がいるとは思わなかった
大野さん:普段の生活って、ごはんを食べたり、掃除したり、買い物をしたり、こまごましたことが多いですよね。大野は、そういうことへの気配りがちゃんとできて、自分でもやり、それを奥さんに求めないんです。あ、ホントは求めてるのかもしれないけど、奥さんができなきゃ、自分がやればいいと思っている。「勝手にしてていいよ」と、しぶしぶ黙認するんじゃなくて、やりたいことや、やろうとしていることを応援してくれる、パートナーを育てて生かす、ということができる人なんですよね。
― パートナーの反応と協力体制によって、女性は、パートなどの残業のない仕事を選ばざるを得ない可能性大だと思います。そういう意味でも、すごく大きな出会いですよね。
大野さん:すごい大きな出会いだし、こういうパートナーじゃなかったら、ここまでやれなかったと思う。私がこういう世代だからかもしれないけど、土日に活動がある時なんかに「ごはん作ってあるから、出かけるね」と堂々とは言いづらくて、夫や家族に気を遣って、機嫌悪くならないようにしよう、とか思うんですよ。やっぱり、しぶしぶ、じゃなくて、にこやかに「うん、いいよ!」と言ってくれないと、イヤだ、という思いはすごくある。そうじゃないと、ここまで、時間やエネルギーは、割けないですよね。
― 家族があまり協力してくれなくて、やりたいことがあっても二の足を踏んだり、思い切りエネルギーを注げない・・・という女性って多いと思うんですが、パートナーがそういうタイプだと、協力的になってもらうように相手に働きかけて変わってもらうことって、難しいんでしょうかね。大野さんのご主人は、もともと、そういう方なんですか?
大野さん:もともとそういう素養はあったんだろうけど、前の奥さんを亡くされてからの5年間という時間が、彼を育てたんだと思います。ほとんど台所に立ったこともなかった人が、中学生と高校生の子供のお弁当を作って学校に送り出す、という毎日を続けた5年間が・・・。
― 大事な人を失った喪失感の中で、日々の雑事をこなされ、しっかりお子さんを育てて・・・。尊敬します。
MAWJへの参加は「半ば押しかけで」と著書に書かれていますが、全くのボランティアでなく、お給料を少しでもいいからもらいたい、という点で、すごく粘って交渉されたんですね。
大野さん:そうそう。やっぱり、ボランティアだと自分の中に甘えが出るだろうというのもあって。「今日はいいお天気だから、休んでおふとん干そう」ってなっちゃう弱い自分なので・・・。4人も子供を連れて普通のサラリーマンのところに行くからには、さすがに何かして働かなきゃ、と思っていたし。ボランティアでやったら、それに、もし家族に迷惑がかかったときに「お母さんは好き勝手やってるからいいけど」と、ご飯ができてないとか、頼んでいたクリーニングを取りに行っていないとか、家族はふてくされて、だんだん機嫌が悪くなりますよね。活動を長く続けていくためには「お母さんは仕事だから、自分で○○やっといて」と言えるかどうかも大きいと思いました。
■「重たい仕事」と本当の意味で気づいたのは、ずっと後でした
― 「難病の子供の夢をかなえる」というのは、有意義な活動でありながら、非常に重い仕事ですよね。相当タフな心と覚悟がないと、興味だけではなかなか踏み出せないのでは、と思ってしまうのですが。
大野さん:「難病の子供の夢をかなえる」っていうと、普通は「難病の」という重たいところと「夢をかなえる」という美しいところの両方を見るわけですよね。でも、私の場合は、普通なら、考えるべきところをあんまり考えない、というか・・・。「夢をかなえる」という部分しか、見えてなかった。「難病の」と知ってはいるんだけど、その実際のしんどさとか大変さとかを推し量ることができずに、ポンと飛び込んだ、飛び込めたんだと思います。
身内や知り合いに重い病気の子供を抱える家族がいたら、その重さがわかっていたかもしれないんですが、それまでに、そういう子どもたちとの接点が全然なかったんです。
だから、重たい仕事だってことに本当の意味で気づいたのは、ずっと後でした。
― 活動を始めて2年後、初めてウィッシュ・チャイルドの死に直面されました。そのときのショックは、きっと相当大きかったことと思います。
大野さん:多香恵ちゃん(※1)が亡くなったとき、「難病の」という側面がワーッと具体的な実感として、迫ってきた感じでしたよね。「へたった」という日本語が美しいかどうかはわからないけれど、へたり込みたくなるような、体の中から力が抜けていくような感覚がありました。
とくに、ご葬儀でお母さんの涙を見たときに、親としての自分とオーバーラップして・・・。辛かったですねー・・・(しみじみと)。だからもう、ほとんど、お葬式には行かないようにしているんですけど。
― 白血病で深刻な病状なのに、ほかの病気の子供の辛さを思いやれる美緒ちゃん(※2)のように、小さな子供が病気と一生懸命に闘いながら、美しく生きている。この本の全編を通じて、そこに感動を与えてもらいました。一丸となって、子供の夢をかなえようとする周りの人々の優しさにも、世間はまだまだ捨てたものじゃない、と思うし、胸が熱くなります。夢をかなえるために渡米する瞬くん(※3)が予定の飛行機に乗れず、ぐったりしている時に、キャンセル待ちの順番を快く譲ってくれる人がいたり。X-Japanのhideさん(※4)があんなに素晴らしい人だったことも、じつは恥ずかしながら、この本で初めて知りました。
ボランティアというと、一方的に奉仕する、というイメージを持っていたんですが、与えてもらうものが、大きいんですね。
※1 土屋多香恵ちゃん。生きものが大好きで「世界でいちばん大きなカブトムシに会いたい」という夢をかなえました。脳腫瘍のため、8歳で亡くなりました。
※2 「病気と闘っている子どもたちに元気を出してほしい」と自分の絵本を出版した清水美緒ちゃん。
※3 日本人メジャーリーガーに会い、メジャーのスタジアムで始球式を行う夢を実現。
※4 hideさんは「GMIガングリオシドーシスIII型」という世界に23例しかない難病と闘う貴志真由子ちゃんをずっと励まし、支え続けました。
大野さん:与えてもらうもののほうが、ずうっと大きいんです。私たちが何かしてあげてるってことじゃなくて、本来、子供が持っているものが、「病気が治ってから」とガマンさせられていたなかで、埋もれていたものが、夢をかなえた大きな喜びのなかで、バーッとはじけて。
― すばらしいものを持っている子が、たくさんいますよね。・・・本に出てきた子供たちのことを思い出すと、つい、涙が出てきてしまいました(徳光和夫さんモードになり、言葉に詰まる)。
村山:病気のためにかなえられていなかった夢が実現されていく、それも「かなえてもらう」というのでなく、自分でかなえている。それが、どの子どもの物語にもあって、すごくいいなあって思いました。

■せっかく生きるんだったら、笑ったり喜んだりしながら生きないと、もったいない
― 1日だけの思い出作り、っていうことではなくて、その後の人生の中でも「あの日を思い出してがんばろう」と継続的に希望を持ち続けられるようになった子供と家族が、たくさんいますよね。そこに、すごい活動なんだなと、しみじみ感動しました。
大野さん:病気が治る、治らないという尺度だけじゃない尺度で、今を生きる、日々を生きる。ということだと思うよね。病気であっても、周りの人にいろんなことを教えているし、子供自身も、日々、喜んだり、笑ったり、十二分にハッピーだったり。
病気が治るかどうか、生きるか死ぬかっていうのは、もう神様の領域で、私たち人間の力じゃ、どうにもできない。みんな、できることはもうすべて、しているわけで。私たち人間ひとりひとりができることとしたら、その中で、どうやって、生きるか、ということでしかないだろうと思うし。
そう考えると、せっかく生きてるんだったら、もっと笑ったり喜んだりしながら生きないと、もったいないですよね。面白がって生きなきゃ、と思ってるんです。できるだけ、「楽しげだったね」「アホだったね」といわれるように、人生を生きたいと。
だって、きっと誰だって、これからの人生で、ゲッ!という不条理な出来事に遭遇することは避けられないわけで、正しいことをしてたからって、いつもいい結果につながるわけでもないし、失敗もするし。でも、イヤなことに遭ったときに、あんまりヤダヤダと文句を言わずに、ま、しょうがないか。とヘラヘラ笑いながら、「変えられないことだったら、まあ、やってやるか!」という気持ちで生きていきたいな、と自分の中で思ってる。子供たちを見て、なおさらそう思う。
■ボランティアには「3つのススメ」があります
村山:本のなかに、ボランティアをする上での「3つのススメ」(※5)がありますよね。私も、ボランティアをやりたい気持ちはあるんだけれども、日々忙しい中で、継続ができないんじゃないか、とか、自己満足なんじゃないか、とか、偽善者っぽくないか、とか思いがちだったんですね。その解決策が、すべてこの4ページの中にある! みんながこの本を買ってこの「3つのススメ」の考え方を持つことによって、MAWJの活動でも、ほかのボランティア活動でも、一歩を踏み出すきっかけになれば、すごくいいと思うんですよ。
大野さん:うれしい、うれしい。本当にそう。だって、人生、いろんなこと、あるしね。女の人は、子供が小さいと、ボランティア活動のために動けなかったり。年取った両親をみなきゃいけないってこともあるだろうし。そんな、まなじりを決して「今、やらなきゃ!」と思い込まずに、気軽にね。
※5 「三日坊主のススメ」「自己満足のススメ」「売名行為のススメ」。詳細は大野さんの著書『メイク・ア・ウィッシュの大野さん』で確認を!
村山:子育てを経験して、大変さがわかっているからこそ、子育て中の人を支援したい!とか思っても、ためらいがちな気持ちを肯定してくださっているのが、素晴らしいと思いました。三日坊主のススメ、というのも。
大野さん:ちょっとのぞいてみて、違うと思ったら辞めてもいいのに、なんか、やっぱりマジメなんですよね。やってみる前から「やれるかどうか・・・」と一生懸命考えて、途中で辞めたら根性なしみたいに思われる、とか、ほかのボランティアに行くのは移り気だ、みたいにマイナスのことばかり考える人がいるんだけど、まずやってみることが、すごく大事だと思ってて。
やってみて、違ったと感じて辞めることは、恥ずかしくないし、ほかにやりたいことがあったら、ほかの事をやってもいいし、忙しくなったら、休むのも悪くないと思うんです。その点、すっごく日本人はマジメなので、やるからにはピシッと! ほかの人に迷惑をかけちゃいけない!とか。
でも、普通に考えて、物事を初めにやるときには、そんなに回りに迷惑をかけるほどの大きな仕事を任されることって、ないし、大きな仕事を任されるときにはそれだけ自分も育ってるし、突発的なことが起こってできなくなる人がいたら、それを支えるだけのサポートは、組織として、当然やっていくしね。あんまり初めから不安材料ばかり探しちゃうと、前に進めなくなると思うのね。
― 少しずつでもやる人がたくさんいたほうが、集まる力は大きくなりますね。
大野さん:そう。活動を始めたばかりの頃、面白いなと思ったのが、アメリカの人たちが「今、水道橋にいるんだけど、2時間ぐらい時間がある。何か、できる仕事はない?」って電話をしてくるの。ああ、そういう風なやり方があるんだなって。
日本人の場合「月曜から金曜まで、週に何回、曜日を決めて来なきゃいけませんか?」とか、会社勤めのような感覚だから、自分も息が切れちゃうんですね。そのベースにあるのが「楽しみながらやる」ってことができないからだと思う。
村山:そのあたりは、3つのススメのひとつ、「自己満足のススメ」というお話と重なってきますね。
大野さん:自己犠牲をしたいと思って、それを喜びにできる人は、それでいいんですよ。だけど、そうじゃなくて、「○○せねばならない」って、義務とか修行みたいになっていたら、一生懸命頑張った分だけ、やればやるほど思い通りにいかないことがあると、愛憎相反して腹が立ってくるし、自分を追い詰めたり、落ち込んでくるんですよね。
思い通りにいかなくて、ある程度、当たり前なんで、少しでも思い通りに近づければいいなあと思ってやる。そういう姿勢は、無責任だとかいろいろ怒られそうだけど、私の中ではそれが自然なんです。
― 事務局長の大野さんがそういうスタンスだと、参加する側も入っていきやすいですね。
■「ここに来たら楽しい」と思ってもらえる場でありたい
大野さん:ボランティアの方々は、交通費も自腹で手弁当で来てくれるので、私がいちばん願うことは、仕事の効率ではなく、みんなが「ここに来たい」と思ってくれること。ここに来たら、なんか楽しい、と思ってもらえる場でありたい。
仕事が速い人もいれば、遅い人もいて、私みたいに、書類に訂正印ばっかり押していたり、探し物をしてる時間のほうが、長いよ~みたいな人もいてね(笑)。でも、来てくれることが、やっぱり何よりの財産なんです。
私たち、なーんにも渡していなくて、お金もあげないのに、来てくれて、いてくれる。人が集まるということは、活気も出るし、素敵な人と出会えるし。それが、財産ですね。
村山:みんなの「自己満足」が、ぶどうみたいにたわわに実って、つながっていけば、いいんですよね。
大野さん:自分を満足させる楽しみを見つけるというポジティブな考え方は、すごく自分を元気にするし、自分の元気さは、周りを元気にしていくし、とっても大事だと思ってます。
村山:3つのススメの最後の「売名行為」っていうのは、すごい表現ですよね(笑)。
大野さん:ほかの言い方をしてもいいんだけど、インパクトが強いほうがいいだろうってことで、受け狙いで言ってるんだけど。自分の名前が出ちゃ悪い、みたいに言われがちだけど、そうじゃないのよね、やっぱり。伝えるためには、自分の名前が出ることは、ちっとも悪くないし。そのうち、忘れるから、みんな(笑)。名前が出た!っていつまでも覚えてるのは、自分だけ(笑)。
それから、ボランティアをしている、っていうと、すごくいい人間みたいに思われて、たとえばうちの息子が何か学校で問題を起こしたりすると「お母様はボランティアの事務局長なのに、信じられない!」みたいに言われがちなんだけど「子育てを間違えたのは私です。申し訳ありません」と謝りつつも、そんなに「人間失格」とか「二重人格」みたいにいわなくても・・・と思う(笑)。だって、バツイチだし、いっぱい間違いしてきたもん。叩けばいっぱいほこりが出る、出しがいがある。
■手をつないで「持ちつ持たれつ」できる関係が広がれば、ハッピーだと思う
村山:このサイトは、仕事をしていない方もけっこう読んでくださってるんですが、そういった方々に向けて、最初の一歩を踏み出すためのメッセージをいただけますか?
大野さん:自分が「面白い」「やってみたい」と思ったことは、それ自体がチャンスなんで、やってみたほうがいいんじゃないでしょうか? あんまり心配しすぎないで、やってみたら、できることっていっぱいあるし。助けてもらえることも、いっぱいあるし。
私、自分がフットワークがよくて、友達に何かあったらすぐにススッと手伝いに行くもんだから、逆に、友達にも「ねえ、○○してくれない?」って頼みやすいというのがあって。困ったときや何かをやってみようって時に、お互い助け合えたり、子供を預け合えたり、というのをあまり力まずに「持ちつ持たれつ」が気安くできる関係があると、広がっていけて、ハッピーだと思います。
子供が幼稚園の頃、近所に子育て中の人にすごく仲良しの人がいたりして、お母さん同士で集まったりしていたんだけど、閉じ込められていない世界があったのは、救いでしたね。アメリカに行ってからも、仲良しのお友達ができて、たくさんの人に支えてもらいました。特に、後半になって、うちがガタガタになって、離婚というところに至るまでガーッとひっくり返り始めたので、そんな時にも、友達が支えてくれたのは、ありがたかったですね。
今、「手をつなぐ」ということがヘタ、というか、その経験がない人が多いんだね。きっと。「他人に迷惑をかけちゃいけない」「他人から迷惑をかけられたくない」っていう風にカッチリ考えちゃうと、しんどいと思う。一人一人の力は小さくても、手をつなぎあっていくうちに、思いもしないような大きなネットワークになることだって、あるし。
― このブログも、人と人をつなげる手段の一つになればいいなと思いますね。
村山:そうですね、ブログってつながるメディアだから、面白いと思っています。ところで、4月のチャリティマラソン出ますんで!
大野さん:ありがとうございます。ベビーカーを押して歩く人もいれば、子供と手をつないだり犬を連れてお散歩気分で参加する人もいます。おそろいのTシャツ作って、みんなで出たら?
村山:あ、いい“売名行為”ですね!
☆ボランティア希望の方は、こちらと各支部からのお知らせ をご参照ください。
過去の失敗なども包み隠さず、柔らかな笑顔で語ってくれた大野さん。人を引きつける明るく温かいオーラに包まれていました。「〇〇してくださった」などと、周囲への気遣いにあふれた美しい日本語を話されるのも印象的で、彼女の周りに人が集まってくる理由がよくわかりました。強さと優しさ、両方のバランスの絶妙さがとても魅力的で、こういう人に、私もなりたい。と思いました(葉山)
気負わない。それがどれだけたくさんの人をリラックスさせてきたでしょう。いわゆる「いい人」にありがちの、窮屈さがまったく感じられない、本当に自然体の、ものすごくいい意味でのポジティブなミーハーさに溢れていた大野さん。わたしも、こういう人になりたいと、つくづく思いました。(葉山さん、ごめん、真似して)(村山)
2006年02月28日
インタビュー第12回目は、ビジネスコンシェルジュ 尾花紀子さん
投稿者 村山らむね
■介護もお受験も、学ぶチャンスと考える
子どもといっしょに 安心インターネットシリーズ
の著者(共著)である、尾花紀子さん。IBMでの華々しい活躍の一方で、2人のお子さんの受験や、お父上の介護を経験されました。ワーキングマザーが多かれ少なかれ将来直面する、子供の受験と、親の介護について、お伺いするとともに、子供とインターネットについてもあわせてお聞きしてきました。
― まずはビジネスコンシェルジュという言葉に込めた思いをお聞きしていいですか?
尾花さん:私の仕事のスタイルと、コンサルタントという肩書きとは、どうしても違和感を感じていたんです。生活者としての目と、実践で鍛えたPR、EC、マーケティング、IT、教育など様々なノウハウを、分野ごとに寸断されることなく一つの知恵としてアドバイスさせていただきたいと考えていましたから、コンシェルジュという言葉が浮かんだ時は、「これだ!」と。
ビジネスの世界でのコンシェルジュでありたいと思っています。
― オールマイティーな尾花さんにぴったりの肩書きだと思います。尾花さんは大学を卒業後、IBMに就職。華々しいご活躍でいつも私の目標だったのですが、就職から2004年にIBMを退職するまでをざっとお話いただけますか?
尾花さん:最初は秘書だったんです。今の私からは想像できないでしょう?PCのプロモーションがやりたくて入社した私ですから、当時は「OAに異動したい」と主張し続けていました。周囲のご尽力もあって、1年ちょっとで企業アドバイスやイベント企画などを行うOA部門に移れたんです。20代半ばで、晴海の展示会のようなイベントでPCコーナーを偉そうに仕切っていましたね。(笑)製品のどこが訴求ポイントで、ナレーターさんにどこを強調してもらうかなんていうシナリオも全部書いたんですよ。
― 代理店さんがやってくれるわけではないんですね。
尾花さん:もちろん!一番のエポックは、ウインドウズ3.0が世の中に出るとき。いろんな出会いがあって、90年のビジネスショウ@大阪のIBMブースで日本で初めて公開することができたんです。あの頃は、ハードベンダー、ソフトベンダー、雑誌記者ほか、パソコンにかかわる人はみんな「PCの創生期を築いた仲間」という感じでしたから、大学の教授や、企業や協会などのトップの方々たちとも、親しくやりとりさせていただきました。今でもそのお付き合いは続いていて、得をしている部分がたくさんあります。
●●尾花さんの年表
1961年生まれ
1984年 跡見学園女子大学文学部卒業
1984年 日本アイ・ビー・エム株式会社 入社
1985年 OA部門へ転属。
1990年 米国発表翌日、Microsoftに先駆けて「Windows3.0」を初公開(@ビジネスショウ)
これをきっかけに、全国で「Windowsの現状と動向」の講演を行う
1991年 IBM版「Windows J3.0」の発表会を行い、翌日より産休に <第一子出産>
1992年 育休中のオプショナル勤務で、(財)CG-ARTS協会にて CG検定の立ち上げに寄与
1993年 再び産休に入る <第二子出産>
1994年 AptivaやThinkPadを専門に扱うコンシューマー事業部に復職
1997年 IBMとフジテレビの共同事業であったプロバイダー(PeopleからFFNetへ)出向
2002年 日本アイ・ビー・エムに帰任
エグゼクティブセミナーのインストラクターとして、経営・IT戦略のレクチャーを担当
2004年 IBMビジネスコンサルティングサービス(株)に出向、コンサルタントに
2005年 4月末、21年1ヶ月勤務したIBMを退社し、フリーで活動を開始
― それから、ご結婚。お二人出産されていますよね。
尾花さん:そうです。そのころIBMは育児休職制度だけではなく「オプショナル勤務(会社のニーズにより休職中の週半分勤務が可能)」という制度ができて、下の子の妊娠中の仕事はそれを活用しました。まるで私のためだと勘違いしたくなるほどいいタイミングで新しい制度が次々できるので、いろんな制度をうまく活用させていただきました。それなりの、努力も必要でしたけれどね。
― ものすごく活き活きとIBMという会社をエンジョイなさっているように見えたのですが、辞められた理由はなんですか?
尾花さん:辞めたのは2005年4月末ですが、創生期からIBMのパソコンを愛してきた人間として、やっぱりPC部門売却という時代の流れが大きなきっかけになりました。ニュースを聞いた時はコンサルタントでしたし、IBMでやれることは全てやったなと。PCと共に始まり、PCと共に終わる、美学でしょ?(笑)
― IBMを辞められて、矢継ぎ早に3冊、本を書かれましたが、それぞれのコンセプトと、込めた思いみたいなものをお伺いしてよろしいですか?

尾花さん:よく分からないもの、教える自信のないもの、子どもたちの好奇心に対応できそうにないもの、そういったものを子どもたちに伝えることを苦手としている大人たちが増えています。そのためもあってか、佐世保であったような事件が起こると、ネットが子どもたちに悪影響を及ぼしているように扱われがちなのが、とても気になっていました。
子どもたちに道の歩き方や横断の仕方、そして、その際にどんなことに気をつけたらいいかを教えない親も先生もいません。道路は車が通って危険だからと家に閉じ込めておくご家庭もないでしょう。なのに、ネットとなると途端にしり込みをしてしまいます。何故なら、自分たちが幼いころ教えてもらった覚えがない「新しい文化」だから、どう教えてあげていいかが全く分からないからなんですよね。
太古の昔から、全ての道具には「危うさ」と「可能性」が混在しています。刃物の危うさは誰もが知っていますが、刃物があるからこそ、立派な建物もステキな洋服も美味しい料理も便利な道具も作れるのです。ネットに混在する多くの「危うさ」と多くの「可能性」も、他の道具と何ら変わりありません。唯一違うのは「危うさ」が目に見えづらいということだけ。
学習にも研究にも役立ち、就職にも不可欠、そして、人脈やビジネスでの成功などももたらしてくれるネットなのに「危うさ」をきちんと教えてもらえる環境が今の子どもたちにはありません。大人にとって面倒な部分がフィルターで覆われているだけ、あとはルールもお行儀も知らないまま、自己流で好きなように使っているわけです。人生経験豊富な大人とは違う、素直で、的確な判断ができるほどの経験もない未熟な子どもたちに「自分で判断しながら行動しなさい」と放りっぱなしにしているようだとは思いませんか?
― 耳が痛いですが、その通りですね。
尾花さん:「なにが危険なのか」「どう身を守るのか」をきちんと伝え、それを理解することができれば、ネットという道具の可能性を十二分に生かした活用ができる子たちに成長してくれるはず。せっかくだから、「どんな可能性があるのか」もお伝えしよう。
これが、『子どもといっしょに安心インターネット』の各巻「なにが危険なの?」「どうトラブルを避けるの?」「なにができるの?」という形になったのです。
― どうしても早く子供たちにコンピューターを教えたいと思いがちですが、尾花さんは子供のパソコン教育についてはどう思われて、どうお子様方に使わせていますか
尾花さん:IBM時代から、親子向けのパソコン教室の運営やエデュテイメント(=教育)ソフトのディレクションなどをしていましたが、いつもお話ししていたことがあります。
「今のパソコンは、普通の操作をしている分にはそう簡単に壊れません。ですから、自分で操作して、いろいろな発見をしながら覚えていきましょう」
パソコンの仕組みから教える必要があるのは、形から入らないと不安な大人たちだけ。また、操作方法のイロハなどは、自宅にパソコンがあるなしに関わらず、好奇心旺盛な子どもたちは教えなくてもすぐにできるようになります。
「考える力」「発見する楽しさ」などを育む道具としてパソコンを使う学び方は大いに賛成ですが、テキストどおりに画一的に教えるパソコン教育は、子どもの道具に対する柔軟さを損なってしまう気がしています。
先生がきっちり教えて欲しいことは、パソコンは単なる道具であって、パソコンの向こう側には人がいるのだということ。だから、ルールはあるし、マナーも必要、いい人ばかりではなく悪い人だって大勢いる──このあたりを、幼いころから年齢に応じて教えてあげて欲しいですね。
もちろん、我が家ではそうしてきました。子どもたちの友達も、不安になると「これって何が起きているの?」と、私のところに訊きに来てくれるんですよ。
― 我が家ではインターネットはまだ使わせないように遠ざけていたのですが、尾花さんの言葉で、方針が大きく変わりそうです(笑)
さて、ワーキングマザーも最近は子供に受験させるという選択肢を選ぶように、選べるように、ようやくなってきましたが、尾花さんはその先駆けかと思います。ワーキングマザーとして働きながら、お子さんに小学校受験をさせていらっしゃいますが、それはどんな経緯ですか?
尾花さん:玄関を出て徒歩1分の場所に、公立小学校がありました。自宅の前が通学路だったんですね。大人のいない留守宅に、小学生の子どもたちが大勢遊びに来たりして、何かあったら大変!という、物理的な不安も少しだけありました。でも、大きな理由は、中学受験をさせたかったからです。
不思議に思われるかもしれませんが、うちの子たちが通った小学校は受験校で、中学もありますが、100%外部受験なんです。まだまだ、親の気持ちがそのまま子どもに反映してしまう、妙な意味ではない「マインドコントロール」されてしまう年齢の6歳の子どもですから、どんな小学校に入っても純粋な子どもの意志ではありませんよね。
子どもが、こんな勉強をしてみたい、あんなスポーツがしたい、そういう意志が芽生えてくるのは、10歳を過ぎてから。だとすると、学校全体で中学受験に向かって取り組んでくれる小学校が、学習面でも友人関係でもベストな環境なのではないかと思ったわけです。
― ワーキングマザーとして受験をさせようとすると、塾通いなどなかなか難しいと思うのですが、尾花さんはどのように両立させていらしたんですか?
尾花さん:実は、3歳4歳からお受験塾に通わせるようなことはしませんでした。子どもの集中力は2ヵ月が限度、一番面白い!と思うタイミングで受験となるよう、年長さんの9月から通い始めました。それも、極力土日を利用して。そのため、私の負担も最小限で済んだのです。
下の子は、一緒の学校に通わせたかったので、推薦入試日の受験を選んだため、1ヶ月ほど早く始めました。それは、受験日が1ヶ月早かったからという理由。夏休み期間が入ったので、平日に通うこともありましたが、2人とも2ヵ月の塾通いだけです。(笑)
これが可能だったのは、別の理由もあります。大人のような先入観や一般常識を持たない子どもの柔軟な発想では、いくつもの答えを発見してしまうような問題が多々出題されます。そのため、塾では「合格するために正解であるコレを選びましょう」と発想の矯正を行わざるをえません。子どもたちは、自分の発想で自由に答えてはいけないために、多くのことを記憶しなければならないのが現状です。だから月日がかかるのです。
私は、子どもの発想を固くしてしまうことを「絶対にNG」と思う変わった親なので、矯正はしないでくださいとお願いしました。素直に、子どもの思う答えを伝えられる準備だけしていただいたのです。もちろん「それでは有名校は難しいですよ」と言われましたが、「そのまんまの息子を受け入れてくれる学校に行かせたいので、構いません」とお話しすると、先生はよく理解してくださって。
膨大な数のお子さんが受験をされ、絞り込むために「優秀やいい子が落ちてしまっても仕方が無い」と割り切ってフルイにかけざるを得ない有名校を受験したかったのだとしたら、この手は使えなかったと思います。
― 小学校・中学校ともに受験を経験させていらっしゃいますが、どう違いますか?
尾花さん:小学校受験は「親がどれだけ頑張れるか」みたいな感じです。それに対して、中学校受験は「頑張っている子どもをどれだけ親がサポートできるか」というところでしょうか。
3歳~6歳のお子さんの場合は、塾に連れて行くのも、その道中で触れるさまざまなことを学ばせてあげるのも、自宅での会話や食事などで季節感などが自然と学べる環境を作ってあげるのも、全部親となるわけです。シッターさんに送り迎えをしてもらうだけ、家でもかまってあげられない、というハードなワーキングマザーの場合、パパがよほど協力をしてくれない限り、他の子よりも吸収量が少なくなり、お受験に失敗してしまう可能性も出てくるのではないでしょうか。
受験に失敗して「ママ、ごめんね」というお子さんもいるようですが、まさに「ママが頑張った」を象徴していますよね。
中学受験は、勉強をするのは子ども自身です。問題集も参考書も、自分の力で読み解くことができる学齢になっています。ですが、まだまだ子どもだということを忘れてはなりません。自分の力がつかなければ志望校に入れないというプレッシャーは、かなりの負担となります。より一層のプレッシャーをかけるが如く「勉強しなさい、塾の宿題はやったの?」と連日矢継ぎ早に怒鳴っていては、子どもたちは追い詰められてしまいます。塾に行く時間になるとお腹が痛くなったり、受験直前に体調を崩したりする子が多いのも、すべてストレスから来るもの。
自分で行動し、自分で学べるからといって放りっぱなしにせずに、学園祭の見学や学校訪問なども含め一緒に行動をしてあげたり、分からないところはフォローしてあげたり、時には一緒に学んであげたり。そして、ストレスに負けそうになった時は、適当に塾を休ませたり気晴らしにカラオケに連れて行ったりなど、臨機応変なサポートが重要なのです。
「よーいどん!」で算数の計算問題の計算を競争したというワーキングマザーもいます。時々負けてあげるのがコツだと話していた彼女も、受験直前は真剣勝負をしても勝てなかったそうです。
― これから受験をさせようと考えるワーキングマザーがたくさんいると思うんですが、何かアドバイスはありますか?
尾花さん:小学校受験は、入学直後の通学サポートも必要ですし、遠足や校外見学などが学校集合ではないことも多々あります。先日も、卒業旅行のために東京駅まで送り迎えをしましたが、そういうこともあるのだということを考え、通学距離等も含め、ご自分の仕事や家庭環境でフォローをし続けてあげられるかどうかが、鍵になると思います。授業参観はいつもおばあちゃん、お見送りもたまたま近所にいる同級生のママ、平日の父母会もほとんど参加できなくていつも子どもがお知らせを持ち帰ることになる。
そんなことが続くと、低学年の子どもたちには精神的なダメージとなってしまい、トラウマとなって後々まで引きずってしまうこともあります。まだまだママの暖かさが必要な年齢、子どもに負担無く通わせられる学校を選び、塾も子どものペースとママが付き合ってあげられるスケジュールを上手く掛け合わせて通うようにされてはいかがでしょう。
中学校受験は、子どものストレスをできるだけ減らしてあげるのがママの役割。ワーキングマザーは一緒にいてあげられる時間も専業主婦に比べて多くはないはずですから、少ない時間でもきちんと届くフォローをしてあげましょう。少ない時間に勉強勉強とあおっては、ストレスは倍増します。
子どもの数が少なくなってきていますが、中学受験の志望者は増えています。塾の経営というビジネスからすると、一人でも多くのお子さんに、一コマでも多く通って欲しいというのがホンネのはず。確かに、中学受験は大変ですが、塾の先生たちの「もっと増やさないと合格は望めません」のような言葉をそのまま受け入れ、子どもたちが参っているのにコマ数を増やして睡眠時間も削ってしまうようなことになってしまうのは避けたいところ。
「じゃあ、コマ数を増やせば絶対に合格できるんですね!」と質問したら、先生は必ず「それはお子さんの努力に掛かっています」とおっしゃるはず。最終的には子どもたちがどれだけ自分の実力を伸ばし、それを十二分に発揮できるかなのですから、冷静に判断し、子どもの希望を聞きながら一緒に考えて結論を出されるのがベストです。
これは、志望校に関しても一緒です。親のプライドや塾のステータスアップのためにブランド校を無理やり受ける必要はないと考え、休みの日を利用したり、時には休暇を取ったりしながら、いろいろな学校に何度も足を運んで、中1からの学校生活を有意義に送れる学校を子どもと一緒に選び出しましょう。当然、子どもの意見を尊重しながら!
賢くセンスあるワーキングマザーだからこそ、上手な塾選び・学校選び・ストレス解消ができるのではないかと思っています。
― 尾花さんは、お子さんの受験と並行して、介護もご経験されています。今も真っ只中でいらっしゃるわけなのですが、介護という問題がでてきたのはいつごろでしたか?その頃、仕事や家庭はどのような状況でいらっしゃいましたか?
尾花さん:父が車椅子を利用するようになったのは、下の子が生まれる少し前です。その頃は、長時間でなければ杖を突いて歩くことができましたから、日常生活にそれほど大きな負担はかかりませんでした。
上の子が2歳の年で大きなお腹を抱えていましたから、仕事は小休止のタイミングでした。同居はしていませんでしたが、翌年の春までは下の子の育児休職だったことと、病状がそれほど進行していなかったことが幸いして、通院の車での送り迎えなども容易に出来、医師から先々のことを聞かされても、まるで実感のわかないほど平和な日々でした。
― お父様の介護について、どのような経緯であったか、差しさわりのない部分でお話いただけますか?
尾花さん:徐々に動けなくなる介護の全ての経緯を体験してきた気がします。
杖を突いて散歩に出ても転んで怪我をすることが増え、外出は車椅子でなければ無理な状態になりましたが、それでも旅行などには連れて行ってあげることが十分できました。13年の月日を経て、自宅で歩行するどころか立つことも難しくなり、食事も流動食から胃ろうを使うように。今では、車椅子に座らせることもできず、長期入院はなかなか受け入れてもらえない状態にまでなってしまいましたが、幸い、とてもいい設備とスタッフに恵まれた病院にお世話になることができ、自宅介護のときより血色もよく母と共にほっとしています。
― 一番介護で辛かったことはどのようなことでしょうか?
尾花さん:介護だけに向き合っていると精神的な負担が大きいだろうと、子どもたちには学校から実家に帰ってもらったりもしました。小学生の世話は、体力的にはちょっぴり疲れると思いますが、面倒を見ることが好きな母にとってはいい気分転換になったようです。
でも、ストレスのせいで切れやすくなっていて、時折、子どもたちは理不尽な叱られ方をしたそうです。介護の経過と大変さを目の当たりに見てきた子どもたちは、優しく思いやりのある子に育ちましたが、帰宅後に理不尽さを泣いて訴えられたこともあって、とても複雑な思いでした。
また、病院にお世話になる直前の1年くらいでしょうか。ちょっとノドがゼロゼロすると窒息する!と神経質になっていた母は、24時間ほとんど寝ないでベッドの脇で仮眠をしているような状態で、体力的にも精神面でも、限界に来ていました。
母のストレスケアは、私の役割。介護師さんやヘルパーさんに「何故あなたは仕事を辞めないのですか?」といわれ続けました。親戚にもやんわりと同じことを言われましたし、休みが続くと職場でも「介護休職でもしたほうがいいのでは」とささやかれたり・・・仕事を続けることに対して、針のむしろ状態だったのです。
いつまでかかるかわからない医療費等のことを考えると、娘二人の実家では私が仕事をやめたらどうなるのだろう、何故、そのことに誰も気付いてくれないのだろう。その場しのぎの対応をしていたら、長期スパンで考えたら収拾がつかなくなるのに。そう思いつつも、私が仕事をやめて日中実家にいてあげたら、子どもたちのストレスも緩和されるのも確かで。
妹が地方在住の今、「医療費」と「ストレス」を共に解消するには、私が2人必要。結論の出ない悩みで苦しみ続けました。気持ちの余裕なんてこれっぽっちもない、介護のために家庭崩壊してしまう家族の気持ちが、痛いほどよく分かる日々でした。
遠くても何とか通える距離にいい病院が見つかり、自宅にいないと不安だった母が、血色のいい父の顔を見て安心してお任せするようになり。そして、お腹にいた娘も自ら選んだ中学に4月から通う年齢に。
医療費以外の悩みや苦しさから、ようやく解放された気がします。
― 介護に備えて、私たちがやっておくこと、心がけておくことをアドバイスいただくとしたらどんなことでしょうか?
尾花さん:核家族化が進む中、親の介護の負担は一世代前よりはるかに大きくなっていると思います。夫婦双方の親がお元気であれば、元気なうちに親子・夫婦・兄弟姉妹で、お正月などに集まった折にでも、ざっくばらんに話し合ってみることが大切ではないかと思います。
「どちらかが具合悪くなったら、2人で施設でのんびり暮らすから心配しないで♪」なんておっしゃるご両親もいるかもしれません。気にして一人悶々と悩むより、コミュニケーションを取るほうが具体的に見えてくるはず。それによって、仕事のコントロールなどを考えてみることもできたりするかもしれませんしね。
また、子どもたちには思いやりの心を伝えてあげたいですね。うちの子たちはたまたま、物心つく前から介護を見てきましたが、成長してから介護に直面する子たちも多いはず。ゆっくり足元を確認しながら歩いているお年寄りを「邪魔だなぁ鬱陶しい!」と苦々しく思うような子に育ててしまっては、何かあった時に協力してもらえるはずがありませんし、理解すらしてもらえないかもしれません。
介護に直面するしないに関わらず、人として、自分より弱い相手に対する思いやりの心を持った大人になってくれるのは望ましいわけですから。
介護に限ったことではなく、どんなことでも「コミュニケーション」が大切。さまざまなシーンで上手なコミュニケーションを心がけているワーキングマザーであれば、急なことがおきても困らないと思います。
― 受験、介護、出版、そして新事業。さまざまなことに全力で取り組む尾花さんのそのバイタリティーはどこからやってくるのでしょうか?
尾花さん:人生一度きり、女性でしかできないことや、そのタイミングを逃したら経験するのが難しいことがあれば、何でもやってみたいじゃないですか。私って、そういう意味では好奇心のカタマリなんですよ。(笑)
また、介護のような「その道を避けて通れなかった」ことも、予期しなかった体験ができたと思えば、学ぶところが沢山あります。家族の介護の経験がないケアマネージャーさんよりよっぽど、何に困り、何が必要かがわかりますし、元気で両親が健在な政治家の人たちより、介護の実情も語れます。ビジネスマンとして尊敬していた素晴らしい父は、病床にいてもなお、私を育ててくれているのだと思ったら、嬉しいじゃないですか。
そう考えると、何でも飲み込むアメーバーみたいですね。プラス思考もいいところです。(爆)
やり方や答えを教わる教育をされてきて、「気づく力」も「発想する力」も弱くなってきている今の日本で、知的好奇心による人とは違ったアイディアや知恵を持っていることが自分の価値だと思っていますし、それが楽しくて仕方が無いんです。
せっかくだから一人で抱えて楽しんでいるだけでなく、大勢のみなさんのお役に立てたらもっと嬉しいので、本やビジネスという形に表現させていただいている。そんなところじゃないでしょうか。
― 尾花さんの口から出るからこその、重い言葉ですね。最後に、ワーキングマザースタイルの読者に、メッセージをお願いいたします。
尾花さん:「誰かが何かをしてくれなかったから、○○ができなかった」という言葉が一番嫌いな私ですが、だからといって、「頑張りすぎ」はしないように心がけています。
また、「反面教師」の発想が好きなので、誰かの苦労話を聞いて「私と一緒だ、よかったぁ~」と安堵するのは嫌いなんです。せっかくの経験談は、巧く活かしてより良い形にするにはどうしたらいいかと考えたほうが得じゃないですか。それは、自分の過去の経験に対しても同じです。
子育てにしても仕事にしても、頑張りすぎず、失敗や苦労は次への肥やしにして、歩んでいきましょう。
時には、休んだり後退したりすることも大切。弓は、後ろに引くことによって、矢を遠くへ飛ばしますよね。負の力は、大きなジャンプアップに繋がることだってあるんです。
人とのコミュニケーションを大切にしながら、その時々の「良い加減(≠いいかげん)」で自分のライフスタイルを綴っていきましょう♪
― 今後わたしたちが直面するだろう、受験や介護について、真剣に考えることの大切さと、背負い込まないことの大切さを痛感しました。本当に、貴重な言葉の数々をありがとうございました。
本当にたいへんなこともたくさんおありでしょうに、軽々とお話なさる尾花さんに、感動という一言では言い切れない、なんともいえない気持ちをいただきました。パワーをいただいた感謝の気持ちと、心からお疲れ様、ご苦労様と言いたい気持ち。これから苦労に直面したときに、また、このインタビューを読み返したいとつくづく思います。(村山)
■尾花さんの公式サイト
ビジネスコンシェルジュとしての尾花さんのこれからに注目です。
2005年12月19日
インタビュー第11回目は、株式会社ニューズ・ツー・ユー代表取締役 神原弥奈子さん
投稿者 村山らむね
■女の人はがんばってるから、男の人が変わるのを支えたい
堀江貴文さんとの共著「勝つためのインターネットPR術」でも一躍有名になった、ネットPRサービスの旗手株式会社ニューズ・ツー・ユー代表取締役の神原弥奈子さん。実はお子さんがいらっしゃるというのをお聞きして、さっそくITベンチャーの社長業と母親業の両立についてお聞きしてきました。
― 先日、とあるパーティーでお会いして驚いたのですが、メディアで露出なさっている雰囲気とはちょっと違って、ものすごく可愛らしい方ですよね。こんな可愛らしい方が、年商およそ4億円の会社を経営していると言うのが、本当に驚きなのですが。
神原弥奈子さん(以下 神原さん):そうですか(笑)?実は計画性がないまま流されてきたというのが私なんです。ほんと、計画性ないんです。まず大学院に行ったのは、大学から出たくなかったから。大学院を卒業したのは、先生が退官してしまうからその前に出ておかなければいけなかったから。それですぐに会社を作ってしまいました。
― 起業のきっかけは?
神原さん:学生時代から編集のアルバイトをやっていたのですが、親に何も言わずに卒業してしまって、そのまま編集の仕事をやっていたら、ばれてしまって…。「どうせやるんだったら、法人格にしなさい」ということで、起業しました。主体的に「会社を作りたいです!」と作ったのではなく、好きでやりたかったことを大事にしていたら、会社ができていたんです。
●●神原さんの年表
1968年生まれ 5人兄弟の長女(下に4人の弟さん!)
18歳 広島から学習院大学入学のために上京
24歳 学習院大学大学院 卒業
25歳 株式会社カプス設立
31歳 長男出産
33歳 株式会社ニューズ・ツー・ユー設立
34歳 株式会社カプスを株式会社ニューズ・ツー・ユーに事業統合
37歳 堀江貴文氏と共著で、「勝つためのインターネットPR術」出版
― 学生の時にはどのような分野を専攻なさっていたんですか?
神原さん:西洋哲学です。どちらかというと文学少女的な部分と、パソコンおたく的なところが、共存していたような学生時代でしたね。だから経営のことなんか全然わからなくてグロービスさんに勉強にいったりもしたんですよ。
― 堀義人さんが代表を勤める、マネジメントスクールですね。
神原さん:はい、そうです。会社を作ってあれよあれよと人数を増やして、その上、好きな仕事は請けるけれど、嫌いな仕事は断る、なんていうことをやっていたものですから…。さすがに不安になりまして、一から経営を勉強するべきだと思って通ったんです。実は、堀さんとは不思議なご縁で、息子同士が保育園が同じなんですよ。最初は全然知らなかったんですが、奥様とはママ友で。「もしかして堀さんの旦那さん、あの堀さん?」ということで、旦那様とも急接近。堀さん経由でビジネス上でもたくさんの人をご紹介いただきました。
― ママ友から発展した人脈なんですね。それはすばらしい。子供ができると仕事の可能性が狭まると考えがちですが、そうじゃないんですね。子供が接着剤になって、それまで知りえなかった人脈ができることも大いにあるんですね。
神原さん:そうそう!そうなんですよ。アンテナさえ立てておけば、あらゆるきっかけで、人脈はひろがります。
― ご結婚のきっかけは?
神原さん:これはあまり言っていないんですが、バツイチ同士のできちゃった結婚です(笑)。相手に過度な期待をするということからはお互いに卒業しているのでとても楽ですね。運良く子供を授かったので、子供ありきの家族ということで、タッグを組んでいるという実感があります。
― ある程度、大人の男性であるということは女性社長の伴侶には必須条件ですね。
神原さん:夫が11歳年上ということもあって、私が仕事をすることに関しても、寛容です。
最初の結婚では、両親と自分達を比べてしまって。母が専業主婦で5人の子供を育てながら、家事も完璧にこなす人なので、自分もそうでなければと意気込んでしまったんですね。今は、どちらも2回目の結婚で、お互いに肩の力が抜けているので、いい意味で「子はかすがい」になっています。
― 期待しないって結婚の成功の秘訣かもしれませんね。
神原さん:家庭と仕事の両立の秘訣ってよく聞かれますが、とにかく家庭ありきです。私の場合、会社を立ち上げてしまっているので、転職はできませんが、仕事は普通、変えられますよね。でも家庭は変えられない。家庭は生活の基本なんですよ。だから両立させるという意識はまったくありません。とにかく家庭という土台があって、仕事ですと。家庭では無理しないんです。
仕事も家庭もがんばってますってよく言うじゃないですか?でも家庭は家族みんなで作るものでしょう?私一人ががんばるものではない。うちの場合、3人でがんばるものなんです。無理せずに。だからお洗濯は、息子担当。お皿洗うのは、パパ。それでいいじゃないですか。
― まったくおっしゃるとおり。実践しています(笑)。背負い込みすぎている女性が多すぎますよね。振ればいいんですよ、もっと役割を。
神原さん:そうそう(笑)。家庭で役割を振れるようになったら、仕事に戻ったときに、仕事を振れるようになりますよ。
振れるようになって初めて、上に立てるわけですから。家庭で家事を抱え込んでしまうと、ビジネスの場でも仕事を抱え込んじゃう。そして両立できなくなっちゃう。
― ワーキングマザーで集まると、手抜き自慢というか、「これだけ私は旦那にやらせている」「子供にこんなことまでやらせている」と、自慢大会になることがあるんですよ。わたしはそれがとても心地いいんです。だって「私はこんなにやっている」というような被害者発想よりも、ずっと健全だと思うんです。家事させ上手は、仕事も上手だと信じているんです。
神原さん:うち、新婚の友達がよく来ますよ。偵察に。
― 旦那さん教育のためにですね。
神原さん:そう!(二人して爆笑)
“あなたあっての私でしょ”と同時に“私あってのあなたでしょ”って思うんです。どちらかが犠牲になるという考え方は、おかしい。私の場合、主人が年上と言うこともあって、ちょっと上のほうから見ていてくれているというのもありますね。結婚して、一緒に子供を育てていく。それも仕事をやりながら、と考えたときに、誰をパートナーに選ぶかということはものすごく重要なことだと思います。
― わかります。本当にパートナー選びによって、女性の仕事環境は大きく変わりますよね。
神原さん:私は選ぶ能力がなかったから、できちゃった結婚だったけど。今にして思えば、「神様ありがとう」です。チームとして、本当に理想的ですから。
― ワーキングマザーは割と、年下も含めて年の離れたパートナーを持つと成功するケースが多いですね。同い年くらいだとついつい張り合ったり、逆に旦那さんを立てなければということがあるような気がします。神原さんの旦那様は、神原さんがこれだけ仕事で輝かれていることに対して、喜んでいらっしゃいますか?
神原さん:彼は一番の支援者ですね。私は31歳で子供を産んでいるんですけど、30代って一番仕事に脂が乗る時期じゃないですか。30代でしかできない働き方がありますよね。そのあたりをとても理解してくれています。それから私は納得しないと踏み出さないという、ちょっととろいところがあるんですが、そういう面をすごく理解してくれますね。悩んでいるときも、ほっといてくれる。そういうコミュニケーションがとれるのは、すごく楽ですね。
― 著書を読ませていただいたり、記事を読ませていただいたりして、神原さんに対して、ものすごいキレ者の女性という印象があったんですね。しっかりした堅い女性という印象が。それが、先日パーティーで出会って、あまりの可愛らしさに驚愕して。
神原さん:天然なところがあるので、写真などはちょっと堅いクールなものを選んでいます(笑)。
― さすがPR会社の社長ですね。でも実際の感じも本当に素敵ですよ。可愛いです。乙部綾子さんとのインタビューの雰囲気が大好きです。
― ところで、出産のときのエピソードなどありますか?
神原さん:出産って人生のなかで、一番不安な経験だと思うんです。受験や就職は失敗が許されるけど、出産は失敗が許されない。母子お互いの命に関わることですから。だからすごく不安になる。出産と出産直後の育児って、本で読むことと全然違うし、個人個人でも全然違う。そのあたりが自分としても勉強になったと思います。
― ワーキングマザースタイルを立ち上げた動機として、もっとワーキングマザーって褒められていいはずなのに、なんか褒めてもらえない、それに納得が行かなくて、「わたしたち、かっこいいじゃん」と言えるサイトを作ろうというのがあるんです。子供も産んで、税金も納めているのに、仕事場では「早く帰ってすみません」、子供には「そばにいてあげられなくて、ごめんね」、お互いの実家に行けば「そろそろいい加減に、やめたらどうなの?」と、言われる。なんで、誰もほめてくれないの?って素朴な疑問としてあるんです。どうして、こんなに肩身が狭いの?と。私たち、かっこいいし、偉いし、すごいし、褒めてよ、と。それに、もっと「働きながら子育てするのは楽しい」っていうことを吹聴しないと、あとから来る人が益々産まなくなると思うんですよね。
神原さん:わたしも「たいへんではない」とは言わないけれど、無理せずできる範囲のことはやれるんじゃないかと思いますね。起業して自分のペースで仕事したい人にとっても、会社勤めしたい人にとっても、環境は整いつつあると思うんです。選択肢は広がりましたよね。私たちのもうちょっと上の世代に比べたら、格段によくなっている。ものすごく私たち恵まれていますよね。
― あ、ほんとそうですね。
神原さん:その点で、地ならししてくださった先輩方に本当に感謝しています。だからこそ、私たちが次のステージに持っていって、後輩の人たちに対して、何か貢献したいと言う思いが強くあるんです。
― おっしゃるとおりですね。私たちの10歳上の方々は、そうは言っても、二者択一。結婚か仕事か、育児か仕事かって選ばざるを得なかったと思うんです。
神原さん:あと私が個人的にアプローチしたいと思っていることは、男の人たちがもっと子育てできる社会環境・情報環境を整えたいなと。うちの会社のことを言うと、女性が多い職場ではあるんですが、子供ができて辞める人が多いんですね。一方、男性は奥さんも働いている人が多いんです。もちろん女性が辞めずにすむ環境作りも大切ですけれど、うちの男性社員の奥さんが、それぞれ子供ができても辞めずに済むようにしたいなと。
うちは「子供を病院に連れて行く」とか「妻の調子が悪い」といって休んだりすること、ウェルカムなんです。家庭を大切にすることに寛容な雰囲気を作っています。大企業だと、「子供の病気で休むなんて」というような状況がありますよね。私はそれはおかしいと思う。奥さんが休めなければ、今度は旦那さんが休むというような、調整を自然にとれるようになるのが理想的だと思います。だから男の人が変わらないといけないし、変化する男の人を許容する環境を社会なり企業なりが作るべきだと思うんです。
私の会社のことを言うと、最初のうちはどうしても平均年齢27歳という若い人中心の構成でした。そうすると、仕事やキャリアプランニングについて、どうしても刹那的な風潮があったんです。それから意識的に40代、50代の、父親であり仕事人であるというようなロールモデル的な人にも入っていただいて。そうすると若い人が、仕事にプラスして生活や人生に対して深く考えるようになり、それが回りまわって、仕事にもいい影響が出るようになってきたんです。父親という役割を自分が担ったときのイメージが持ちやすくなったんだと思います。
― 今、おっしゃっていることは本当に重要なことだと思うんですよね。今、神原さんがおっしゃっていることを、日本のあらゆる男性に聞かせたいと痛切に思いますね。経営者として、すばらしい考え方だと思います。
神原さん:女の人がいくらがんばっても、男の人が変わることに対しては、やっぱり上の立場、経営者だったり、社会だったりが、配慮しないとどうにもならないと思います。そして、今、その段階かなと。女性に、もうこれ以上がんばれというのはナンセンスかなと思っています。
うちの会社の女性もね、働き続けて欲しいんだけど、そこは私がミスをしたんです。
― ミスと言うと?
神原さん:子供を妊娠したときもギリギリまで働いていましたし、出産後も割りとすぐに復帰したり。私自身は無理している実感はまったくなかったんですが、周りはたぶん「私はあんなふうにはできない」と、ちょっと不安に思わせてしまったかなと反省しています。
― ワーキングマザーの社長の会社は、意外とワーキングマザーが育たないとも言われますね。リーダーがどうしてもがんばってしまうから。どうしてもがんばっちゃうし、いいアドレナリンが出ちゃうんですよね。
神原さん:そうなのかもしれませんね。だからというわけではないのですが、男性が奥さんの働き方を尊重できる会社にしようと思っているんですよ。
― それはそれで、本当にすばらしいことだと思います。男の人も早く帰ってくれないと、子供もできませんしね(笑)。
神原さん:大企業、それ以上に古いタイプの中小の企業は変えるのに時間がかかると思います。でもその点、うちみたいなベンチャーが柔軟に対応していければなと考えているんですよ。
― 最後に、ネットPRサービスの一人者として、これからの事業展望について教えてください。
神原さん:今まで自社でメディアを持つと言うことは大変なコストの要ることでしたが、インターネットにより、投資家、社員、消費者に対して、情報を伝えるということが大変容易になってきました。今まで、IR、社内広報、広報、広告と、縦割りになっていた情報組織のまま取り組むと、インターネットの特性を活かしきれなくなるんです。広報と広告の境界線がなくなるわけですし。
情報を提供すれば、情報が入ってくる。情報を提供することの意義はとても大きいのがこの時代だと思います。嘘のない透明性が確保された情報、迅速で新鮮で持続的な情報提供。それを可能にするために、組織自体が情報コンシャスであるように変わっていくことも重要なんだと思います。ですから、News2uもインターネット時代の情報提供を有効にするために、プレスリリース単体はもちろん、情報戦略そのものにコミットしていきたい。そのためのサービスではどこにも負けないつもりですし、これからもそうありたいと思っています。
― 企業と情報というだけでなく、インターネット時代の個人と情報のあり方の示唆もいただいたような気がします。今日は本当にありがとうございました。
一人の働くお母さんというだけでなく、ワーキングマザーが働きやすいようにと、自社の男性社員の働き方を考える。変えて行く。一人の経営者として、本当にすばらしい考え方なのではないかと、心から感動しました。視野の広さ、実行力。同世代の女性リーダーとして誇りに思いますし、小気味良い会話と、可愛らしい笑顔に、すっかりやられました。(村山)
神原さんの著作です。PRを直接担当していない方にこそおすすめの本です。ホリエモンことライブドア堀江社長の率直な物言いも魅力ですし、後半部分の神原さんの著述は、この時代に仕事をする人間にとって、“美味しい”文章が満載です。
これを読むと、ブログを書くことの可能性、情報コンシャスであることの重要性、ステークホルダー(利益当事者)という考え方など、たくさんのこれからの仕事の糧が得られるでしょう。ぜひ、これを読んで、仕事美人かつ情報美人になってください。
2005年10月21日
インタビュー第10回目は、モデルときどき歌手を実現した伊藤ライムさん
投稿者 村山らむね
■楽しいってすごいパワーになる
同世代のファッションアイコンとして、憧れの存在だった伊藤ライムさん。その憧れの座をさっと捨てて、フランス料理の勉強にパリに行ったかと思えば、帰国後、即結婚。そして、二人のお嬢様の育児とモデル業の両立。その上、シャンソン歌手として、日本はもちろん、イタリアまで歌いに行く…。細いからだのどこにそんなパワーがあるのかを、お聞きして参りました。
― 本当に昔から憧れていたライムさんにこのようにお話をうかがえるなんて大変光栄です。18歳の頃から自立してモデルをなさって大活躍していらっしゃいました。お料理の勉強のためにパリに行かれたのは結婚後ですか?
伊藤ライムさん(以下 ライムさん):結婚前なんです。24歳くらいで、今までがんばってきてちょっとモードを変えたいなぁと思ったときに、ぽーんと行ったんです。行くと決まる1ヶ月前くらいに主人と知り合って、おつき会いしようと決めた直前には、パリ行きがすでに決まったので、申し訳ないのですが、蛇の生殺し状態で(笑)。
― 遠距離恋愛ということですか?
ライムさん:そうですね。超遠距離恋愛。戻ってきて勢いに任せて結婚しました。25歳のときです。パリから戻ってきたら、住むところも解約していてなかったので、彼のアパートに滑り込んで、そのまま結婚。よく言えば大きな流れに乗ったといえるし、平たく言えば成り行き婚・・・(笑)。
― お子さんはお二人ですよね?
ライムさん:上が中学1年と、下が小学5年。二人とも女の子です。たいへんというか面白くて楽しいというのが実感です。
― 去年はイタリアでコンサートもなさったということですよね。自分の好きなことをすごく優雅になさっているような感じを受けて、ますます憧れてしまうのですが。
ライムさん:そうですね。楽しいなと思ったことをやる、でも失敗したら全部自分の責任というのはもう18歳でモデルを始めたときからのスタンスなんです。たとえばずっとモデルをやってきて、モデルをやめて料理学校に行ったときもそう。それがなんだかうまくつながって、結婚して妊娠・出産のときも、ピーアンドという子育て雑誌のモデルにお声がけいただいたのですけど、モデルだけじゃなくてプレママのための栄養を考えたレシピを誌上で発表したり。自分の経験をもとにつわりのときに食べやすい料理とか、鉄分を補給しやすいお料理とかを紹介したんですね。料理学校で勉強したことと自分の妊娠・出産という経験の双方を、発表できる機会に恵まれたんですね。
自分が今経験できていることは何でもラッキーと考えるようにしているんです。だからつわりも楽しめたし、幸運なことに半年遅れの妊婦さんに教えてあげるような企画に携わることができたんですもの。やってることが、遊びなのか、仕事なのか、日常なのか、よくわからない分野で仕事をしてきたと言えますね。ここで何かをやめるとか、リセットするとかなく、流れにまかせて来たと言うのが実感です。
●●ライムさんの年表
18歳 モデルになるために上京
24歳 パリのル・コルドンブルーへ料理の修業に行く
25歳 帰国してカメラマンの方と結婚
27歳 長女出産。時期を同じくして音楽(シャンソン)の勉強を始める
30歳 次女出産
32歳 ステージデビュー
39歳 サルディーニャ政府観光局の招きにより、イタリアでステージ
― 24歳でル・コルドンブルーに行かれたと言うのが、私から見るとものすごいことに思えるんですが。
ライムさん:ファッションを10代からやってきて、パリに対して特別な思いがあったんですね。素敵なお洋服はパリ発だったり、おいしいと思える料理はフランス料理に多かったり。フラワーアレンジメントひとつをとっても「このリボン素敵!」と思うと、メイドインフランスだったりするわけです。食文化にしてもファッションにしても音楽にしても、パリのものってすごく好きだったんです。だからパリにはいつか行きたいと思っていたんです。
モデルをやっていましたから一番いいのは、パリコレのモデルとして行ければよかったのですが、私は身長が低いし、ガタイもよくないし、童顔だったので、お仕事という意味では通用しないというのはわかっていました。でもなんかパリには行きたかったんですね。だから料理かな?と思って。
― すごい発想ですね。料理かな?って、それで、ル・コルドンブルー!?
ライムさん:そうなんです。好きな料理を学びながら、大好きなパリに住もうという、ちょっと邪な(笑)考えで。
― ル・コルドンブルーを選ばれたのはやっぱり一流だからということですか?
ライムさん:今は代官山にできていますが、当時はまだ日本になくて、パリの料理学校のなかで日本人が入りやすいのがル・コルドンブルーだったんですね。授業料さえ払えば、言葉ができなくても受け付けてくれたんです。他にも学校はあったんですが、条件が厳しいところも多くて、結局ル・コルドンブルーを選びました。
― ル・コルドンブルーではお上品にお料理を作っていくのかなと思っていたんですが、ライムさんに初めてお会いしたときに、その修行の一端をお聞かせいただいて、かなりびっくりしたんですけど。
ライムさん:肉体労働とホラー(笑)。朝行くと、「今日はにわとりです」と材料が黒板に書かれていて、台に、頭のついたほんのちょっぴりだけ羽がむしってある〆たてのにわとりが載っているんですね。首を切って、お尻から内臓を取り出して、羽をむしるところから料理が始まるんです。
― うさぎのお話もなかなか・・・。
ライムさん:飼育係をしていた私としては、いたたまれなかったですね。
― でも私たちが口にする鶏肉は、すべてその過程を経て、食卓にやってくるわけですからね。気持ち悪いなんて言ってられませんね。
ライムさん:そう。気持ち悪がっても進まないので、そこは割り切って、命をいただいているんだという気持ちで料理に励みました。美味しくしてあげるのが供養だと。優雅に泡立てて、盛り付けてなんて、日本の料理学校を連想したら随分違っていてちょっとびっくりしましたね。
― 行ったらびっくりした、というのも失礼かもしれませんが、調査不足・・・?驚かれませんでしたか?
ライムさん:うふふ。驚きました。向こうは、グループで作るのではなく、全て一人で作るんですね。与えられた材料の課題があり、レシピをみながら食材が置いてあるブースから材料を選んで調理して、5つの作品を作り盛り付けて全て終わったら、先生のシェフに味をみてもらい点数をつけていただくんです。誰も助けてくれない。
― いわゆる助手なしの“料理の鉄人”状態ですね。
ライムさん:そうそう。そうなんです。きゃーとか言っている場合じゃない。胎が座りましたね。
― 私だったら逃げ帰ってしまいたくなりますが、ライムさんが踏みとどまれた理由は?
ライムさん:授業料が安くはなかったんですね。50万円くらいは前納していたので、それをドブに捨てて帰るわけには行かなかったんです(笑)。1年まあ、よくがんばりました。ただ、作ったものは毎日持ち帰れたんですね。一人では食べきれないので、パリのアパートにパリコレに来ていた日本人のモデル仲間とかが料理目当てで集まってきて、ちょっとしたアジトみたいな感じで楽しくわいわいやっていましたね。情報交換したり、トランプをしたり。今思うと、その頃は本当にみんな若くて夢や希望のオーラが出ていて楽しかったですね。私自身もすごく輝いていたと思います。日本にできた同じ名前を冠せた料理学校に通っても、同じ体験はできなかったと思いますね。
― その頃の体験がまた音楽への道も開いたんですか?
ライムさん:そうなんです。その頃とっても貧乏で、唯一の音源が、モデルの友達がパリコレが終わって置いて行ってくれたラジオだったんです。FMがお気に入りだったんですけど、世界中の音楽がパリナイズされて聞こえるんです。「ミシェル・ジャクソン」って紹介されて、何だろう?と思うと、スリラーが流れたり。パリに住んで、パリナイズされた、パリというフィルターを通した音楽体験がすごく自分に蓄積されたんです。そのときは音楽を自分でもやろうなんてまったく思わなかったんですけど。
― そんなライムさんが音楽の道に入ったきっかけは何ですか?
ライムさん:日本に帰ってきて、結婚して、なんとなく音楽やりたいなとは無意識ながら思っていたんです。ただ子供が生まれて、「ああ、子育てが終わってから音楽をやるのでは遅いな」と感じたんですね。子供が育つには10年かかるし、そうすると40歳代になっちゃうし。恥ずかしがっている場合じゃないな、今やらなくちゃって思って。だから子供を産んでからですね。勉強を始めたのは。
― 子育てとともに勉強も始めたということですね。
ライムさん:そうです。来年はこうしようとか決めてやるのではなくて、楽しいことをやろうというのがモットーなんです。楽しいってものすごいパワーになるじゃないですか。気持ちに乗るとか、勢いに乗るとか、流れに乗るとか、そういうことを大事にしていると、気がつくと点が線になっていたという気がします。
― いいですねぇ(ため息)。
ライムさん:いいのか悪いのかわからないのですが。働いている方たちは、子供が生まれたらどうなるんだろうとか、生活はどうなってしまうんだろうとか、不安な部分も多いと思う。でも逆に子供が生まれたからふっきれたり、シフトがチェンジできたり、思いっきり自分のやりたいことに挑戦しようというパワーが生まれたり、いいこともいっぱいあると思うんです。私自身そうでしたから。
― ほんとそうですよね。現実的には、一回仕事をやめちゃうとコンビ二のレジからまた再スタートしないといけないなんてこともありますよね。でも、子育て中に、充電しながら、何か自分のもっとも楽しいと思えることについて小さな種を蒔いておくのは本当に重要だと思います。
歌の勉強というのは具体的にどのようになさったんですか?
ライムさん:まずシャンソン協会に電話して。
― 可愛いですね(爆笑)。さすがにこれだけの方でいらっしゃるので、ライムさんのお仕事の関係の方なんかのつてでシャンソン界の大御所に習われたのかと・・・。
ライムさん:いえいえ。それこそタウンページでシャンソン協会を探して、「シャンソンを教えてくれる人を紹介してください」と電話したら、何人か教えてくださって。それを順番に電話をかけたんです。ほとんど留守電で、ようやくかかったのが今、習っている堀内環先生。あとからわかったんですが、私が一番大好きで憧れているシャンソン歌手の方の師匠でもあったんです。ぜひ弟子入りしたいんですけど、と言ったら、「何月何日、いらっしゃい」と。
― 子供の習い事といっしょですね。まるで、くもんの教室を探すような感じですね。でも、パワーがあるんですね。やりたいなぁと思っていてそのままの人と、思った瞬間にタウンページを開いているライムさん。すごく大きい差があるような気がします。
ライムさん:実際に習ってみると、堀内先生ももちろん素晴らしい方なのですが、堀内先生に習っている先輩方も錚々たる方々で。「一緒にステージに出てみない?出るからにはボイストレーニング受けてね」などと声をかけてくれたり、実際にボイストレーナーの先生を紹介してくださったりしました。
― 恵まれていますね。
ライムさん:そうですね。でもその最中はなかなか上手く歌えなくてふとんをかぶって泣いたりしましたよ。今、思えば、モデルのときも現場に行ったらウォークを上手に歩けないのは私だけで、居残りで音響さんが特別に音楽をかけてくださるなかで、ウォーキングの勉強をして、泣きながら帰ったりしました。現場の叩き上げと言ったらあれですが、できないまま、叱られながら、現場を渡り歩くような毎日だったんですね。周りにはよくしていただいたなって実感があります。
モデルをやるために田舎からでてきて、「ここでメークして」と言われた部屋に入ったら、村上里佳子ちゃんとか今井美樹ちゃんとかがメークをしていて、わけも分からぬままメークしたら、「うーん、これからだんだんと、ね」と言われたり。シャンソンでもモデルでも、一番できないところから仕事をしてきているんで、今でも、恥ずかしいとかあまりないんですね。
― やりたいと思ったら、壁を自分で作ることなく、素直にそれにまっすぐ挑戦していくんですね。
ライムさん:できたらラッキーだなくらいで。
― 歌の勉強のときは、お子さんはどうなさっていたんですか?
ライムさん:主人にみてもらったり、シッターさんに来ていただいていました。
― よく、子育て中にお母さん自体が習い事や趣味の時間を持つことに、割と批判的な人がいませんか?子育て期間中は自分のやりたいことを我慢するべきだっていう考え方が、特に私たちの親の世代には強くありますよね。それについてはどう思われますか?
ライムさん:うーん、そうですね。わたしが周りから「やるな」と言われたら、やらなかったと思う。でもその分、溜めてたと思いますね。ストレスを。
― 子育て期間中に、「自分であること」を押さえつけられちゃうと、ものすごく苦しいですよね。
ライムさん:やりたいことがあるのに、子供のために犠牲になるとか、夫のために犠牲になるとかしていると、その人は、必ずしもいい波動を出さないと思うんです。悶々とするくらいなら、「ご飯はきちんと作りますから」「家事の迷惑はかけませんから」と、きちんとお話して、自分のやりたいことへの理解を求めて、歩み寄ると思います。
― 何か言われたらすぐにあきらめてしまうのではなく、少しずつ事態を打開して行くことが重要なんですね。
ライムさん:旦那さんもいつもニコニコしている奥さんを見るほうが幸せだと思うんですね。
― こどももそうですよね。輝いているお母さんのほうが好きですよね。
ところで、人前で歌い始めたのは、おいくつぐらいのときでしたか?
ライムさん:習い始めて5年くらいだったので、32歳のときでしたか。シャンソンは息が長いので、まだまだ新人なんですよ。楽屋では靴をそろえたりしています。
― 今はどのくらいのペースでステージに出ていらっしゃいますか?
ライムさん:今は、年に3回くらい大きなライブに出ています。
― また秋になさるんですよね。今回のテーマはなんですか?
ライムさん:わたしも40代になって思うんですけど、お友達とか、いつまでも綺麗な人と、生活が大変なのかなと思わせる人と差が出てきて。若い頃は、幸・不幸の差が顔に出なかったけれど、この年代になると、何かにときめいていたり、好きなものを持っている人と、そうでない人の差が如実に出てくるんですよ。恋するようなものを持っている人は、年齢・性別問わず、魅力的だなって。だから今回のライブでは、日常では忘れがちのときめきとかを取り戻していただけるような曲を選曲しています。
― そこでタイトルも「恋する晩餐」なんですね。私も来年40歳なので耳が痛いです。いつもお会いするたびに思うんですが、やっぱりお化粧とか本当に綺麗にしていらして、オーラがまったく違いますよね。失礼ですが、クオーターでいらっしゃるんですか?
ライムさん:いえいえ。純粋な日本人です。
― 信じられない(完全にファンモード)。どうして同じ日本人でこんなに差が出るのでしょうか?私も40代でキラキラしているというのは憧れですね。30代での過ごし方も重要だと思うのですが、どうしても女性の場合、外的要因が左右する部分が多いと思うんですね。旦那さんの転勤とか、出産とか、自分ではどうにもならないような要素が、多かれ少なかれ入ってくると思うんです。だけど、40代になると、自分の心持ちの違いですごく差が出てくると思うんです。ライムさんがおっしゃっているように、すごく心が弾んでいる人と、そうでない人と。
ライムさん:目指す道がある人はキラキラしていますね。旦那さんのためにとか、子供がいい学校に行けばそれでいいの、というような裏方で満足すると言うのももちろんいいと思うのですが、その人の才能や能力を活かさないような生き方は、もったいない気がしますね。
― ところで、今年の6月にイタリアでステージをされたとお聞きしたんですが、それはどういった経緯なんですか?
ライムさん:2月に六本木でライブをしたんですね。そのときに、たまたまサルデーニャ政府観光局(イタリア)の方がいらしていて、「イタリアでライブしませんか?」とお声がけくださったんですね。最初、だまされているんじゃないかと思ったんですけど(笑)、イタリアに行けるんだったらだまされてもいいやと、いつものごとく、流れに乗って。あまり深く考えないんですよね。まわりも「いいじゃん、いいじゃん、ラッキー、ラッキー」って煽てるので。
― 素敵ですね。その自然体。
ライムさん:歌い手さんなんかたくさんいるのに、私を選んでくれたというのもすごくうれしかったし。こういう風に声をかけていただけると、「もっと歌を上手くなろう」「もっと綺麗になろう」というモチベーションが出てきて、調子に乗っちゃうんです。
― ハッピーオーラが出ているので、たぶんイタリアの人に合い通じるものがあったのでしょうね。イタリア、わたしも大好きなんですよ。旦那と引退したら「一緒にイタリア都市めぐりをしようね」と言っているくらいです。
ライムさん:今回のシステムは観光局の人がその町に「こういう人が歌いに来るので、スポンサーになりませんか」と募ってくれるんですね。日本のように制作費をぼんとくれるのではなく、羊飼い組合はホールを借りましょう、機織組合はちらしを作りましょう、ワイン組合は音響照明を、という具合で全部分担制なんですね。お金は私たちいただかないんですが、気持ちで協賛してくださるんですね。公演が終わると、自治組合の山の上のお宅にお邪魔して、お食事をご馳走になって文化交流。普通のツアーとはまったく違ったイタリアを経験できたんです。歌うことでこんなにしていただけたというのが、感動しましたね。

― イタリアでシャンソンを歌われたんですか?
ライムさん:日本語訳のシャンソンと、沖縄の島唄など歌いました。イタリアの歌も歌いましたよ。来年もまた3月に予定していますから、ぜひいらしてください。
― ライムさんの中に、ファッション、お料理、音楽、フランス、イタリアと本当にたくさんのキーワードがあって、それぞれがすごく上手くミックスされている気がしますが。
ライムさん:楽しいこと、豊かなこと、美しいことが好きなんだろうと思うんですね。これからも、一つ一つももちろんですが、全体的なライフスタイルを提案していければいいなと、思っているんです。お金をかけなくても豊かさって実現できると思うんですよ。日本人は古来から、春に桜を、秋に紅葉を、季節ごとに見るだけで幸せになってきたわけじゃないですか。美しいものを愛して、それを楽しめば、とっても豊かになれる。そう思うんですよ。
「好きなことをしているうちにここに来てしまいました」とふわっとした笑顔でおっしゃるライムさん。“これいいな”と思ったときの瞬発力には、ものすごいものがあります。18歳から自立して、自分のやりたいことに常に挑戦し続けてきた結果、できることの領域がどんどん広くなったライムさんだからこその、自然体なんだろうと思います。一朝一夕の自然体ではないぞと、つくづく思いました。インタビュー中、淹れていただいたハイビスカスのお茶がものすごくおいしかったことも印象的でした。(村山)
伊藤ライムさんの11月のライブの予定です。
■静岡公演:
2005年11月7日(月)
チケット:¥12,000(税込)
開場:18:30 ビュッフェタイム:18:30~19:20 開演:19:30
※懐石料理のオードブルのビュッフェ・ビール・ソフトドリンクなど
浮月楼 ギャラリー館「薫風の間」
静岡県静岡市葵区紺屋町11-1
TEL:054-252-0131
■東京公演:
2005年11月16日(水)
チケット:¥18,000(税込)
開場:18:00 ビュッフェタイム:18:00~18:50 開演:19:00
※フランス料理のビュッフェ・ワイン・ソフトドリンクなど
綱町三井倶楽部「別館大食堂」
東京都港区三田2-3-7
TEL:03-3453-3011
いずれも、ライムさんのサイトから予約ができます。
2005年09月07日
インタビュー第9回目は、グッドバンカー代表取締役の筑紫みずえさん
投稿者 村山らむね
■専業主婦業と社長業は似ている
今回お話をお伺いした筑紫みずえさんは、株式会社グッドバンカーの代表取締役でいらっしゃいます。SRI(社会的責任投資)という言葉が、全く一般的でなかった1999年に、日本初のSRI型金融商品エコファンドが発売されましたが、それをゼロから企画して日興證券グループとともに発売にこぎつけたのが、筑紫さんが率いるグッドバンカーです。投資行動はマーケットに自分のメッセージを伝える手段という視点から、エコファンド、そして、2004年には女性が働きやすいファミリーフレンドリー企業に的を絞った投資信託を企画(発売は三菱信託銀行)なさいました。
また、9月5日に男女共同参画社会づくり功労者として内閣総理大臣表彰を受賞なさいました。理由のひとつに『平成16年、仕事と生活を両立でき、多様で柔軟な働き方を選択できる「ファミリーフレンドリー企業」を対象としたSRIファンドを創設。育児休暇等の制度内容や運用実績等を基準として企業を評価している。これらの活躍は、育児等でいったん仕事を中断した女性が「再チャレンジ」を志す上でロールモデルとなるものである。』と挙げられています。「育児で中断するにせよ、工夫して働きつづけるにせよ、時代は本当にワーキングマザーを待っているのです。私へのこの表彰を、全てのワーキングマザーにささげます」というメッセージをいただきました。
インタビューではワーキングマザーの大先輩として、育児を仕事に活かすということ、そして、経営者の立場から見たワーキングマザーの心構えなどを、伺って参りました。
― まずはじめに働き始めた経緯を教えていただけますか?息子さんが3歳半のときですね?

筑紫みずえさん(以下 筑紫さん):フランス語を勉強しておりましたので、翻訳とか通訳などアルバイト的には仕事はしていました。企業の中で、組織人として働いたことはなかったんですね。事務的なOLの経験がまったくなかったんです。自分はそういうのに向いていないと思っていたんですね。年をとってからでも通訳のような自由業はできると思ったんです。でも、事務的な仕事の基礎は若いうちに雇ってもらってそこできちっと勉強しないと身に付かないと思って。
― 結局、採用されたのが、フランス系企業ということですか?
筑紫さん:日本の企業に応募したんですけど、全然相手にされなくて。結局、フランスの会社に拾ってもらったんです。そのときに採用してくれたフランス人が「あなたの年齢で子供がいるのは当たり前だ」と言ってくれたんですね。それまで日本の会社は「えっ?結婚してる?」と既婚であるだけで撥ねられてしまっていたんです。新聞広告で人材採用をしているところに片っ端から電話をかけたんですが、当時の日本の企業には相手にされなかったんですよ。見事に。
― 当時はまだ結婚退職が当たり前だった頃ですね。
筑紫さん:そう。フランスの企業は、結婚しているとか子供が居るとかではなく、“今、何ができるか”で判断してくれたんです。
― 片っ端から電話をかけるなどしてでも就職したいと思われた動機って何ですか?
筑紫さん:経験してみたかったというだけなんですよ。今の人たちみたいにキャリアプランニングをしていたわけではなく、意識が低いと言われちゃうかもしれないけれど、ただただ、勤めてみたかったというのが正直なところです。ただ実際に仕事をしてみたら、知らないことがたくさんあったし、おもしろさも感じましたね。それから子育てが仕事にとっても役に立つということも発見しました。仕事にとって子育ては、デメリットではなくてメリットだということが日々確信できた。
― そのあたり、ぜひ具体的にお聞かせ願えますか?
筑紫さん:家にいると家事をしても育児をしても当たり前のことでなかなか評価してもらえないけど、会社で同じことをやったらみんなが褒めてくれる。お給料も上がる。楽しくて仕方がありませんでしたね。わたしは知らないことを知るのがすごく好き。会社で働くことはお茶汲みひとつとってもやったことがなかったから、楽しい。コピーも初めてだからおもしろい。小さな会社だから、上司もどんどん任せてくれる。タイプを打つにしても、ドラフトがあって打つのだと面白くないので、そろそろ挨拶状を出す頃だなと思ったら、見計らって上司に言われる前に先んじて打って、持っていく。すると彼はすごく喜んで、私もおもしろい。言われてするよりも、自分のイニシアティブで仕事をするほうが楽しいので、そうしていました。
葉山瑠奈(以下 葉山):結婚して子供を育てるという過程でいろんな経験を重ねたことで物事が先読みできるようになって、仕事でもそれが活きたということでしょうか?
筑紫さん:そうそう、そういうことよ。その通りでございます。子育ては、仕事をする上でも、本当に活かされるんだなってつくづく思いましたね。苦労も多かったんですよ。たとえば英文タイプなんていうのも、ちょっとしたコツがわからないものだから、たくさん失敗もしてね。だからこそ、上達するのが楽しかったですね。技術的なことでは、初めてということでのハンデも多かったですよ。でも、たとえば上司が何を今望んでいるかなんていうのは、子育てしていればまるでトレーニングをしていたみたいなもので、「今はお茶が欲しそうだとか」とかすぐわかる。専業主婦だったから、夫を喜ばせるためにしていたことを、そのまま上司にしたら、本当に喜ばれて褒めてくれる。
― 学校を卒業後、結婚や出産を経て家庭に入る人は多いですが、子育てを終えてから社会人デビューして、それがまた大成功なさるというのもとても面白いですね。
筑紫さん:私はただ、サービスをしていたんですね。上司の彼の立場になって彼にサービスをする。それって、子育てや専業主婦と同じじゃないですか?子育てや専業主婦の経験がこれほど活かされるとは!と、実感しましたね。二・三年でやめるつもりだったのが、仕事がどんどん面白くなってやめられなくなって、今までずるずる来てしまいました(笑)。
― 最初の会社に入られてからここまでで、どこかターニングポイントのような契機はありましたでしょうか?
筑紫さん:マネージャーとなったときは迷いましたね。1980年に31歳で社会人になって、88年に銀行に入ったんですね。そして90年にスイスの銀行(UBS信託銀行)に入るときに、役職がマーケティング・マネージャーとして誘われたんですね。わたしは、まずとにかく面白い仕事・いい仕事がしたかった。だから、それまでタイトルや肩書きには関心がなかったんです。でも迷っているときに、ある企業の方に相談したら、「マネージャーというようなものは、多くの人がやりたくてもやれないものだ。だから話が来たときにはお受けするべきだ」とおっしゃったんですね。
結局、お受けして、苦労したことも多くあるんですが、その頃からですね。タイトルや肩書きなどの重みを感じたり、与えられた責任に対してベストを尽くすことが働く人間の役割だということを強く意識したのは。
― 今、女性がマネージャーなど管理職になることに戸惑いを感じているというような記事を読んだりもするのですが、それについてはどう思われますか?
筑紫さん:私は自分の人生で無理をしてきていないんですね。たとえば留学する直前に結婚したときも、パリで勉強をするつもりが途中で妊娠がわかって日本へ帰るという決断をしたときも、まったく迷わないんです。フランス人の人から「仕事や勉強はいつでもできるけれど、本当に愛する人にはいつ会えるかわからないんだから愛する人を取るのは当然だ」と言われて、なるほどと思ったんです。私は仕事と子供だと迷いなく子供をとる。
私は人と比べてどうだということを考えない。自分自身でターゲットを設定して、自分がいい仕事をしているかを自分で感じているんです。言い換えれば、自分にとって自然だと感じられる道を選択しているんです。だからあんまり葛藤がないのね。
キャリアを優先したり、家庭を優先したり、それは価値観だと思うんですね。だから私は悩んでいる人たちに「こうあるべきだ」ということは言えないけれど、ただ、自分の人生を振り返ってみてつくづく思うけれど、子供を産んで育てたということが一番面白かった。間違いなく私にとって最高の体験だった。私の場合は出産後、体も丈夫になったし、精神的にも安定したし。やっぱり女性にとって自然なことだから、これ以上の仕事があるのかしら?って思っちゃう。
― 日本の企業は、拘束時間も長く、どうしても仕事か育児かという二者択一を迫られるという側面があって、なかなか自然には産めなかったりするようなこともあると思うんです。私の友人がフランス系の会社に勤めているのですが、夕方6時以降会社にいると軽蔑されるというんですね。欧米と日本ではプライベートな時間に対する考え方が違うのかなとおもうのですが、日本の企業独特の育児と仕事の両立の難しさについてはいかがですか?
筑紫さん:私は日本の会社に入ったことがないので、あまり見えないんですが、フレキシビリティみたいなものが欠けているのかと思いますね。フランスの会社に勤めていたときに、上司から「僕、今日は子供が熱を出したから病院に連れて行くので、僕の代わりやっておいて」なんていう電話がありましたよ。だから、私も子供が病気のときなどはなるべく休まないようにしていたとはいえ、やむにやまれず休むときなど、まあ少しは気分的に楽だったりもしましたね。私たちのときは、“めしキャリ”つまり“めしつきキャリアウーマン”と言ってね。それは実家に住んだり、地方からお母さんを呼んだりして、食事の世話など全部やってもらって、それではじめて仕事ができる、そんな状態の女性が多かったですね。
葉山:子供が小さいから、自分のキャパシティを100としたら50%くらいを仕事に注ぎたいと希望しても、100の仕事をやらないのであれば20%の仕事しかありませんよ、というのが日本の企業の実態で(笑)。二者択一で前者を選ぶとしたら、余力がない分を実家に頼るとかお金で解決するなどのチカラワザが必要になってくるんですね。
筑紫さん:ただ、それでも私はめげないで欲しいと思う。私の場合は、どんなこともあまりネガティブに捉えず、ポジティブに考えるようにしてきた。ある一時期は自分の仕事をトーンダウンさせて、育児に力を振り向けても、必ずその先では、育児や家事の経験が生きてくると思うのね。仕事に時間が割けないとなれば、その短い時間でどう仕事を組み立てようかとか、いろんな工夫ができます。社会全体がナレッジつまり知識集約型になっていくという研究があるんですが、そうなればなるほど、私は女の人が有利だと思うんですね。たとえば、赤ちゃんの面倒を見ているときに、ふっとアイデアが湧くとかいう経験は、みなさんお持ちだと思うんです。長時間拘束される人にはない、クリエイティブな面が引き出されると思うんですね。たくさんの引き出しを持てるわけですから。
子育ての時間を持つと言うことは、女性でも男性でも、明らかに知性の広がり・深まりと言う面でよい影響を与えると思うんですね。そういうよい影響を与えられた人が、よい仕事をすると思うんです。
― 子育て中の方を雇用する経営者の立場ではいかがですか?
筑紫さん:経営者の立場から言えば、子育て中の人が時間がないとか、この時間で帰ってしまうというようなことは、もちろん制約です。本当は時間的な制約がない人のほうが、迅速に対応できるわけなんですね。制約がある人ばかりだと、その制約条件のなかでうまく対応しなければいけないから、その分、戦力的に落ちるし、リスクも大きくなるんです。
今、この会社では、会社を評価する仕事なので、それはSOHOでもできるわけだし、アウトプットがレベル以上であればいいわけだし、いろいろな形の雇用の取り組みをしています。週3日勤務だとか、残業はしないとか、いろいろな人が働いています。一人一人の事情が違う人たちを、マネージメントするというのは、ものすごく大変。同質な人たちをマネージメントするのとは違う能力が必要なんです。でも働いている人たちが多様である、能力も多様であるということは、とても重要なことでもあるんです。変化に対して、より対応力があるということにもつながりますから。
― そうですね。なかなかグッドバンカーのように、子育てを人間の付加価値として認めてくださったり、多様性を価値と認めてくださる会社が、まだ日本には少ないかもしれませんね。一度、家庭に入ってしまうと、再就職が難しいというような話もよく聞かれます。ただ、派遣会社などは、ママの再就職支援に乗り出すところも少しずつですが出てきたようで、心強いですね。
筑紫さん:うちも子供がいるということで、時間的に限定的に働いている方も複数いるんですが、もちろん、全てのケースが順調だったわけではないんです。仕事をすることは契約でもあるので、ある一定のアウトプットは出してもらうことは当然とするこちらの考えと、働く側の考えが合致を見なかったこともあります。でも、こちらもまた変化するかもしれない、相手も変化するかもしれない、またいつか幸せな結果を生むかもしれない。失敗したとは思っていないんです。
ただね、小さなことなんだけど、休んだりしたらやっぱり周囲に負担をかけるんだから、お菓子の一つでも持ってくるとか、そういう工夫をすることもとても大切だと思うんです。人と人のつながりで仕事は動くんですから。
― 耳が痛いですね。
葉山:周囲の人たちと気持ちよくコラボレーションしていくための努力って、重要なんでしょうね。
筑紫さん:子供が病気で休むというようなことは、会社から見ればダメージなわけで、そのダメージを最小限に食い止める努力はしてほしいと思うんですよ。それを雇ったんだから、すべて受け入れなさいと、経営側に要求するのは、それは違うなと思います。経営は不確実性を減らしていくことなんですね。それを客観的に知っておいてほしい。
― 子育てと仕事を両立しようと思うなら、全て自分で抱え込むのではなく、マネージメントするような気持ちで、家族や有償のサポートを上手く利用しながら、家庭と会社のリスクを最小限にしていく努力が必要なんでしょうね。
筑紫さん:そうそう。だからマネージメントの側も、すぐに「ああやっぱり使えない」と結論を出すのではなく、「ここをこう変えて」というように、お互い言い合えるような関係を作るべきでしょうね。やっぱりコミュニケーションの問題でしょうかね。
― これは私自身を反省して思うのですが、30代にもなるとなかなか人からのアドバイスや苦言を受け入れられないようにもなってくるのですが、柔軟さや謙虚さを、ワーキングマザーこそ持っていたいなとつくづく思いますね。
ところで、1998年に筑紫さんはグッドバンカーという会社を興されて、1999年にエコファンドを日興證券グループと商品化にこぎつけられました。その後、第2弾として世界で初めての試みとして「ファミリー・フレンドリーファンド」を出されました。これは穿った見かたをすると、日本だからこそ出てきたファンドではないかと思うのですが。日本の企業が“ファミリー・フレンドリー”でないからこそ登場したファンドという印象を受けたのですが。
筑紫さん:そうですかねえ?私がこのファンドを世に出すために、フランスを始め、いろいろと調査したんですけれど、日本の行政は子育てへのサポートをずいぶんしているんですよ。ただね、フランスなんかはマネージメントレベルの人はものすごく働くけれど、一般の人は、早く帰って家族と食事しないと離婚されてしまうということはありますね。でも、施策そのものはたいへん日本は進んでいるんですよ。
ただ、会社のマネージメントする立場の人たちが、育児をしながら働く女性に対して、評価しているかといえば、なかなかまだ難しいところがあるのかもしれませんね。出産・育児を多様な価値の一つとしてきちんと受け止めた会社は、実際、強いと思うんです。それに気がついた企業は、少しずつでもこれから変わっていくと思いますよ。それに女性もそれを後押しするような働き方を、自覚を持ってする必要がありますね。
― 私なんかも、出産して職場に戻ったら、すぐに出向と言う形で元の部署には戻れなかったりもしたのですが、そういうことも新しい出会いとして楽しむような柔軟性を持つべきだったのでしょうね。
筑紫さん:そうです。だって男の人なんて、そういう目にしょっちゅう会っているでしょう?なんでも出産のせいにするのは間違っていますよ。経営の立場からみて、それは出産のせいではなかったかもしれない、でも出産のせいだと経営側が思わせてしまうのであれば、女性が産まなくなってしまうのも仕方がないと思いますね。だから、もちろん企業のほうでの努力も必要だけど、そればかりではない。女性のほうも出産や育児が付加価値だとアピールしないと。育児をしていることでどれだけ仕事の能力が高まったかを示せなかったということも、厳しい言い方かもしれないけど、ちゃんと認識してほしいですね。
― 少々辛口で耳に痛い部分はありますが、まったくおっしゃるとおりだと思います。
葉山:先ほどの「働いている人たちが多様だと、変化に対してより対応力がある」というお話が印象的でした。私は出産を機に、進みたい方向性を考えて会社を辞め、フリーになったのですが、今はまた別の会社に勤めています。でも、ここにいたるまでの数年間は、一見まわり道のようでムダではなくて、いろんな風景を見たからこそ、今の仕事でのアウトプットの質が上がったと実感できる場面が多々あるんです。
筑紫さん:知的筋力が付いたんですね(笑)。100%働けない時期も確かにあるでしょう。でも長い目でみれば必ず糧になると思うんですよ。人と比較するのではなく、自分が面白いと思う仕事をぜひしてほしい。そしてベストを尽くすこと。それを忘れないで欲しいですね。
子供がいなくて時間を自由に使える人や独身時代の自分と比べて、もどかしくなる瞬間があるのは、ワーキングマザーの常(私だけ?)。「他人と比べずに自分自身がターゲットを設定し、いい仕事をすることに意識を向ける」という考え方をすることで、ラクになれそうな気がしました。「同じように働ける、管理しやすい人ばかりを集めるメリット」よりも「メンバーの多様性が組織を強くするというメリット」を認める企業が増えれば、眠れるパワーを有効利用できて、ニッポンの未来はもっと明るくなるはず! 後者の生きた見本になれるよう、精進したいと思います。(葉山)
専業主婦業と社長業は似ているという言葉は2001年の筑紫さんのコラムのタイトルからいただきました。似ている理由として以下のことをあげていらっしゃいます。
一度に多くのことを同時並行で処理する力、優先順位をつけること、決断の早さ、相手の気持ちを読んで前もって準備しておく能力などは、育児中の平均的な専業主婦なら必要に迫られて自然に身につくものだと思うからだ。
という一節に、少々、胸が痛みもしながらも、うなづく点も大いにあります。育児は仕事の足を引っぱらない。長い目で見れば、育児は必ず仕事の糧になる。ものすごい勇気が出る考えではありませんか?筑紫さんのお話はとにかくポジティブで、歯切れがいい。そしておしゃれでとても可愛らしい。本当に素敵な女性でした。何よりもうれしかったのは、かなりワーキングマザーに対して厳しいこともたくさん言っていただいたこと。出産を言い訳にしない。自分に戒めてきたことだけれど、まだそういう部分が自分にたくさんあることが発見できたことに、冷や汗をかくとともに、いい時期に自分の修正ができるのではないかと、感謝しています。(村山)
グッドバンカーが企画した商品は現在3つ市場に出ています。
■日興エコファンド
■興銀第一ライフエコファンド
■三菱SRIファンド(ファミリーフレンドリー)
2005年08月02日
インタビュー第8回目は、「カソウケン」でおなじみの内田麻理香さん
投稿者 fellow
■思い通りにならないときこそ、あとで面白いことが転がってくるかも。
料理、掃除、洗濯、育児・・・。主婦の日常生活は「科学」で解き明かすと楽しくなる! とネット上に仮想研究機関「カソウケン」(家庭科学総合研究所)を立ち上げた、研究員Aさんこと内田麻理香さん。Webサイトほぼ日刊イトイ新聞でも人気連載主婦と科学。を持ち、今年2月には単行本『カソウケン(家庭科学総合研究所)へようこそ
』(講談社)も上梓するなど、活躍中です。
大学院生時代に仙台-東京間で遠距離婚をし、その後、期せずして専業主婦に。その頃に「ヒマを持て余して」作ったというカソウケンの構成員は、所長(夫)とふたりの研究員(長男&次男)を含め、計4名。そんな内田さんに、電車男たちに囲まれていた大学時代のお話、研究所の誕生秘話、そして今後の目標まで、じっくりうかがいました!

― まず、ご結婚されたのは、大学院に通ってらした頃なんですよね。
内田麻理香さん(以下、内田さん):博士課程1年のときです。主人も研究者なんですが、当時、仙台の大学で助手をしていて、私は東京の大学に通っていたので、仙台と東京で二重生活をしながら研究も続けようと思っていました。ところが、早々に力尽きまして(笑)。
もちろん、別居しながらでも、遠距離を往復して結婚生活を送りながら、ちゃんと研究を続ける女性研究者の方もいます。たとえば、日本物理学会の元会長の米沢富美子さんのように、ご主人もお忙しくて、ほとんどひとりで子供3人を育てたようなパワフルな方もいらっしゃるんですが、それは普通の人間にはマネできないんだということを、実際結婚してから気づいたっていう感じですね。で、私にはムリだなと(笑)、研究のほうは辞めまして。子供を産もうかしら、と。26歳のときに、長男を出産しました。
― 二重生活をしながら研究を続けるのは、体力的にキツかったんですか?
内田さん:そうですね。それと、根性ですね(笑)。
― 内田さんの母校は、今、ドラマ「ドラゴン桜」でもモチーフとなっている東京大学ですが、ドラマ、ご覧になっていますか?
内田さん:いえ、見てないですねぇ。
村山らむね(以下、村山):内田さん、こんなにキレイで東大だなんて、モテましたよね?
内田さん:いえいえ、ぜんぜん! 男の人と同じ側の人間だと認識されているようで、女扱いされてなかったような気がします。
― 選び放題!みたいなイメージがありますけど(笑)。
内田さん:私も、最初はそう思ってたんですよ。40人クラスに2人ぐらいしか女性がいないから、倍率20倍!なんて、ワクワクして行ったんですけど・・・。あの・・・アキバ系の人が多くて(苦笑)。
― むこうは内心「萌え~」だったけど、何もできなかったんじゃないかと(笑)。まあ、それはさておき、そもそも、東大の理系に進学できるというのは、私どものような文系の凡人には想像がつかないぐらい、ものすごいことなわけですが、子供時代はどんなお子さんだったんですか?
内田さん:科学が好きだったんです。実験したりとか。ムラサキツユクサを摘んできて、レモン汁で色を変える、とか・・・。あ、でも、最初は、ガンダムですね(笑)。あれを見て「私も宇宙コロニーを作れるようになりたい」とか思ったんですよね。だったら理系だと思って、宇宙開発の仕事をするなら国の機関に行くしかないかな、だとしたら、官僚になるなら東大かな。と、そういう経緯で・・・。
― 親御さんがとくに教育熱心だったというわけではないんですか?
内田さん:「子供に「勉強しろ」って言わなかった」というのを自慢してるくらいなので(笑)。ただ、私がヘソ曲がりだと知ってたんで「やれ」っていうとやらなくなるっていうんで、わざと何も言わないようにしていて、私は結果的にノセられていたのかもしれません・・・。
― 大学を辞めるとき「もったいない」とか周囲にいわれませんでしたか?
内田さん:うーん、そうですねぇ・・・私自身もそう思う部分もあったんですけれど、一方では自分がそんなに研究者には向いていないな、とも感じていて。主人や周囲の研究者を見ていると、ひとつのことをガーッと突き詰めたいというのが強いんですが、それに比べると、私は浅いところで満足してすぐ次の対象に興味が移りがちなところがあって、本質的に自分は研究者に向いていないんだろうなって常々思っていたんです。
それに、研究者って教授になるまでの過程で転勤が多いから、この先、主人の赴任先についていっても大丈夫なように「手に職」をつけようと思って、資格試験の勉強を始めたんですよ。弁理士の。
産前産後でその勉強をして資格をとろうと思っていたんですが、上の子が、じつは体が弱くて持病で入院を繰り返しがちだということもあって、その道をあきらめまして、専業主婦でやってみることにしたんです。で、その間に、主婦はヒマだなということで(笑)、ホームページを作り始めたんです。
― そういう経緯があったんですね。でも、なぜ「弁理士」の資格を取ろうと思ったんですか?
内田さん:文系と理系の橋渡しみたいな仕事がしたいなと、ずっと思ってたんです。
― ということは、いまの「カソウケン」活動は、まさにその思いがかなった形ですね。
内田さん:結果的には、そうなりましたよね。でも、そもそも自分で決めたこととはいえ、当初の予想に反して大学をやめて、専業主婦になるつもりもなかったんだけれども主婦になって、という過程があって、だけど、そうでもなかったら、きっとホームページも作らなかったし・・・。そう考えると、予想外の結果が、面白いこと、じつはやりたかったなと思っていたことにつながったということなんですよね。
― サラリとおっしゃっていますが、その「予想外」が続いた過程で、凹む人は凹んじゃいますよね。
内田さん:そのときはやっぱり凹んでましたね~。このままどうなるんだろう・・・って。
― わりと悶々としていた時も、ありました?
内田さん:ありました、ありました(笑)。一日中、他人と話せなくて、子供は話し相手にならないし、話し相手といえば夜に帰ってくるダンナしかいないというのは、ツラかったですね。あと、家事とか育児っていうのが同じことの繰り返しで変化がないっていうのも、わたし的にはキビしくて(笑)。
― そういった悩みを解消する目的で、いきなり「カソウケン」を始めたんですか?
内田さん:いちばん初めは、とにかくヒマな時間をもてあましていたので、長男の写真をいっぱい載せた、身内向けの親バカホームページを作ったんです。それをある程度満喫したところで、どうせなら、今までやってきたことと今の生活を組み合わせて何かできないかな、と思うようになりまして、計画して作ったのが「カソウケン」だったんです。家事がニガテだっていうのがあったんですけど、もしかしたら、好きな科学を使えば、少しは楽しくなるかなという期待もあって。
― 家事、ニガテだったんですか?
内田さん:ニガテでニガテで(笑)。もう、結婚前に、家で何もやってこなかったんで・・・。服は着たら洗って出てくるもの、という感じで、母親が全部やってくれてたんです(苦笑)。
― カソウケンを始めたのは何年前ですか?
内田さん:2002年の3月ぐらいだったので、3年半近く前ですね。最初は、知り合いと、たまたま訪問してくれた人だけが見てくれていたんですが、1年後にニフティのホームページ・コンテストがあって、そこで特別賞をいただいて、少しは見てくれる人も増えたかな。「ほぼ日」のほうは、さらにその1年後(2004年)だったかな。あるとき、次男に授乳をしていて夜中に眠れなくなりまして、授乳しながらぼーっとインターネットを見ていて「『ほぼ日』と一緒に何かしたい人はメールください」っていう募集を見て、あ、こんなページがあったのかと思ってメールを出したら、1時間後に担当さんから返事が来て(笑)。
― カソウケンを始めて、いちばん生活の中で変わったことは?

内田さん:やっぱり、主婦をやってると、自分の名前がなくなっちゃうというのが、けっこうあるんですよね。すごく俗っぽい言い方ですけど、〇〇ちゃんのお母さん、とか〇〇さんの奥さん、みたいな。それが寂しかったんですけど、自分がアクションを起こしたことでそれがみんなに喜んでもらえるというのが、すごくうれしくて。なんか、将来に対する不安とかが、なくなりましたよね。学生時代、勉強とかはけっこう頑張ってたほうだったと思うので、それが無になっちゃうのかな・・・。このまま、将来何も仕事できずに、社会と接点を持てずに、終わるのかな・・・。といった、不安というか恐怖みたいなものは、それ以前には、ありましたね。
― そういう思いは、かつて社会と接点を持っていたものの、いろいろな事情で今はそれが小さくなっている人、たとえば専業主婦の人などに共通のものですよね。世の中が激変している中、自分の生活は同じことの繰り返しで、取り残されていくような。年はとっていくし・・・。で、悶々とし続けるのもつらいから、と一歩踏み出したいと思ったときのアクションは人それぞれだと思うんですが、内田さんの場合はホームページを作ることから始まったわけですよね。
内田さん:もし、ホームページがなかったら今のような道はありえなかったから、私の場合、インターネットのおかげというのは大きいですよね。ただ、どんな方でも、ふたを開けてみると、すごくこだわっていることとか、好きなことってあるじゃないですか。何かそれを使えれば、きっかけがつかめるんじゃないかって、思いますね。主婦や子育てをやったからこそ見つかるビジネスのチャンスもありますし。子育て中におしゃれなスリング(抱っこひも)の販売を始めたピースリングさんみたいにね。
村山:不測の事態が起こることにも身をゆだねることを楽しまれている雰囲気が内田さんやカソウケンにはものすごくあって、見ていて、そこがとても賢いなと思うんです。自分があきらめざるを得なくなった道に、同じ形で再挑戦してリベンジするっていうのも一つの方法だと思います。でも、予定していた道を外れたことによって出会ったまったく新しい要素――内田さんの場合は「家事」という要素――を付け加えて、制約のある中、以前の自分よりもバージョンアップというかパワーアップしている。そこがもう、素晴らしいと思うんです!
内田さん:ありがとうございます。そういう風に見ていただけると、すごくうれしいです。
じつは、当時、自分はもうドロップアウトした落伍者だと思ってて、普通に作ったんじゃいけない、ドロップアウトしたなりに、家事とかそういう路線で行ってみようって思って。「じゃあ、やってやるぞ」的なところは、正直、ありましたね。
― そういう熱いモノが、ひそかにあったんですね。
村山:そうやって、違う角度からのアプローチで、見事に花を開かせて・・・。それは、客観的に、自分を商品化できているからこそ、できることですよね。それができる人とできない人とで、だいぶ違ってくると思うんですよ。
― ある意味、自分自身を使って壮大な実験をしてる、という感じですか?
内田さん:そういうところはありますね、たしかに(笑)。それを身をもって体験している真っ最中を抜けてから、あとでそう思えた、という感じではあるんですけれども。でも、いま、確かに、子供の体が弱いことに関しては、いろいろと心配もあるんですけれど、「今は大変だけど、これは大局的にはきっと絶対生きてくる」と今の時点で自信を持っていえます。「これは家族にとってきっといいことだから、起こったことなんだ、だから絶対負けないぞ」という風には思ってます(ニッコリ)。
― ジーンときました。
内田さん:女の人って、結婚すると、子供とかダンナとかの事情で、自分の人生を選べなくなる、っていうか思い通りにできなくなることが多いですよね。でも、結果論なんですけど、思い通りにならないことのほうが、もしかしたら、あとで面白いことが転がってくるかもしれない。人間の頭で考え得ることよりは、運命にゆだねたほうが、面白いことが待ってるかもしれないですよね。
― 私ごとですが、子供の時に学研のマンガシリーズの『発明・発見のひみつ』という本が大好きだったんですが、世紀の発明には、偶然から生まれてるものって多いんですよね。「生ゴムに硫黄を混ぜたら、ひび割れないゴムができたぞ。ラッキー♪」とか。
内田さん:たまたまほっといたら、腐って発酵しておいしくなった!とか、ありますよね(笑)。
― 人間の頭で考えるよりも・・・という大局的な視点を持てるのは、研究を通じて、そういうこともあると知っているから? ・・・なんて、いまお話を伺っていて思いました。
村山:もともと高学歴とか高キャリアだった女性がダンナさんの転勤とか出産とかで仕事をあきらめざるを得なくてウツウツとしているケースがすごく多いと思うんですけれど、女性の場合は、自分で最初に選んだはずの運命とは違うものに、翻弄されがちですよね。そういう人たちに、もっとポジティブになってほしいな、と老婆心ながら思うんです。そういう意味では、内田さんのご活躍はすごくうれしくて。と私立文系出身者が申しております。
― なんで自虐モードになってるんですか(笑)。
村山:高いレベルの教育を受けた後、とんとん拍子に社会で活躍している人もいれば、持っている能力を発揮できる場がない人もいて。後者は社会にとっても、すごく損失だと思うんですよ。
内田さん:そうですね、確かに。「じつは昔はいろいろやってたんだけど、今は専業主婦」という人も私のホームページに遊びに来てくれるんですけど、そういう人たちが、何かきっかけがあったら活躍するんだろうな、とよく思いますよね。
― 内田さんのように、ホームページをきっかけにするとしたら?
内田さん:とにかく自分が楽しいのがいちばんだと思うんです。「楽しくないけど評価されるために作る」というのも、それはそれでいいとは思いますが、作ってる本人がすごく楽しんでるなあと見てる側も感じられるのが、いいページだと私は思うんですよ。コンテンツがよかったとしても、楽しそうじゃないと、伝わってこないですよね? ワーキングマザースタイルさんって、すごく楽しそうだと感じます。
村山:ありがとうございます。確かにおっしゃるとおり、楽しんでます! ところで、カソウケンって本当に秀逸だと思うんですが、コンセプトを最初にじっくり練られたんですか?
内田さん:けっこう練りましたね。数ヶ月考えてから、ようやくUPしたっていう感じですね。
― 研究所の名前「カソウケン」は、どこからヒントを得たんですか?
内田さん:警察の科捜研(科学捜査研究所)からもらっています。科捜研の女の。もともと、「研究所」形式にしたいというのはあって、所長に相談したら「カソウケン」にしたら? とのアドバイスをもらって、決めました(笑)。
― デザインも、かわいいですよね。勉強されたんですか?
内田さん:ありがとうございます。ネットおたくなんで(笑)、いいなと思うページをブックマークしておいて、研究したりして・・・。見よう見まねで作ってみました。ホームページ制作ソフトを使っているので、HTMLとかは、ちゃんとは理解していないんですけど・・・。
― 本に載っているマンガ、たとえ話がうまくて、わかりやすいですね。
内田さん:イラストレーターの吉田朋子さんが、アイデアのある方で「大体こんな感じで」と相談すると、細かいところまでうまく考えて、描いてくださって。私も、出来上がったイラストを見て面白―い!とウケたりしてるんです(笑)。
― 今後の夢というか目標って、ありますか?
内田さん:けっこう、ほうっておくと突っ走っちゃう人間なんで、頭の中に、子供の状況を優先するというプライオリティを意識しておかないと、と思っていて、自分で具体的な夢を思い描かずに、来た話に乗っていこう、流れに乗っていこう、っていうのはありますね。先ほども話したことですが、自分から働きかけたら出てこない面白さっていうのもあるので・・・。自分で「こういうことをやりたいんです」と企画して営業するよりも、やりたいと思ってくれた人が考えてくれたアイデアのほうが、自分が思いつかなかった方向からの企画だったりするので、自分が考えるより、よっぽど面白いんですよね。それは面白い、そういう切り口もあったか、と。
― 「私はこれで行きたいの!!」みたいに自分の考えに固執する人も多い中(苦笑)、周りの人の力をうまく借りる柔軟性がありますよね。
内田さん:ひとりだけじゃ、ろくなことはできないですから、何事も(笑)。
カソウケンの本も、昔、掲示板で質問を募集していて、そこでもらった質問が面白くて、本当におかげさまって感じで出来上がっているんです。
― 次の本は、どういう内容なんですか?
内田さん:『良妻賢母の科学』というタイトルで。逆説的なんですけど・・・。良妻賢母じゃないほうが、家庭はうまくいく、っていういいわけみたいな科学で。
― 私たちの自己正当化のためのバイブルとしたいです!
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可愛くて頭の回転が良くて、いっしょにいて本当に楽しい、素敵な女性でした。知性に裏打ちされながらも、この愛らしさが、サイトや著書の人気を支えているのだなと実感しました。柔軟な葦こそ、一番強い。そんなことをつくづく思った、インタビューです。(村山)
黄色いニットがよく似合う、ふんわりと柔らかい雰囲気で、終始笑顔で話してくださった内田さん。優しさの内側に揺るぎない強さもしっかりあって、その絶妙なバランスが魅力です。とても楽しくて、お会いして、元気を頂きました!(葉山)
内田さんの大人気の著書です。おもしろくて、かつ、ためになる、そして、ちょっとじーんとする、本当に魅力的な本です。

2005年06月30日
インタビュー第7回目は、トレンダーズ代表取締役 経沢香保子さん
投稿者 村山らむね
■子育ては、みんなで一緒にやれば楽しい
トレンダーズ株式会社代表取締役 経沢香保子さんは、若くして起業し、「女性起業塾」をはじめ、数々の事業を成功させてきました。一児のお母さんでもあり、かつ第二子を妊娠中。最近では経済産業省の委員会の委員もつとめていらっしゃいます。子だくさんと事業の成功を両立させたいと公言なさっている経沢さんにインタビューしてきました。

― 経沢さんの両立の秘訣はなんですか?
経沢さん:みなさん、よく「両立するのがたいへん?」とか「家事をやるのたいへん?」とか言うんですけど、なんでもチーム次第だと思うんです。家族もチームだし、会社もチーム。どんな人と一緒にいるのかで、ものすごく人生が変わってくると思うんですけど、わたしは本当にチームに恵まれているんだと思うんです。
周りの人がどう背中を押してくれるかとか、理解・協力を示してくれるかということが、女性が働くということについてはとても重要ですね。
― ワーキングマザーで成功するというのは、周囲に恵まれている人が多いし、恵まれるような環境を自分から作っていける強さをもつ人が多いですよね。
経沢さん:そうですね、何事もひとりでやる必要はないと思います。チームで上手に分担していければ楽しいですよね。
― 意外とみなさん保守的で、たとえば、娘が小学校に上がって、他のお母さんと話すことも増えたんですが、娘は当然のごとく丸5年間保育園にお世話になっているんですね。そうすると、「保育園なのに、いい子ですよね」とか言われちゃうんですね。なのに、って何だよ?ってこっちは思うわけです。
経沢さん:たとえば、幼稚園のほうが幸せだとか、親が働いている子はかわいそうとか、そういう一般的な見方からもっと自由になったほうが楽だと思いますけれどもね。
― ほんと、まったくその通りだと思います。いろんな生き方や働き方がある。そしていろんな子育てがある。いろいろあっていいと思うんですよね。だけど、それを当事者じゃない人間達が、すごく意地悪な見方をして、がんばっている女性達を萎えさせる。それは本当に腹立たしいことです。
経沢さん:そうですね。少子化について思うのは、子供を持つ持たないは自由だと思うのですが、産みたいのに、もう一人欲しいのに、産めない世の中だとしたら少しおかしいし、それに対しては支援するべきだと思う。
― 産みたいなと思っていても、今は産めないというような思いを抱えているワーキングマザーやワーキングウーマンはたくさんいると思います。私もそうなんですけど、一人目を産んで職場に戻って、ようやくワーキングマザーとしてのリズムができて、担当も取り戻して(笑)、あともうちょっとがんばれば主任になれる。そんなとき「二人目できました」なんて言ったら、「お前は仕事やる気あるのか?」と言われかねない。そうなると、やっぱり二人目って二の足を踏むと思うんですよ。それが現実なんですよね。
経沢さん:なるほどですね。そういった要因もあるんですね。
― ところで、経沢さんがよくいろんなところでおっしゃっていることで共感するのは「起業は育児に向いている」という言葉。自分で仕事をデザインできるというのは、強いなと。
経沢さん:先程、村山さんがおっしゃってたように、例えば職場でも遠慮しながら生きるのは結構つらいですよね。経営者っていうのは時間で働くものではないですから、結果を出せば極端に言えば週に5時間働くだけでもかまわないじゃないですか。結果さえ出していれば、無駄な遠慮はしなくても良いわけです。そのへんは楽だなと思います。だからといって、全員が社長になれるわけではないですから、子供をみんなで育てるというような社会的なインフラが整えば、みんな“産んでもいいかな”って思うんじゃないかなと。
一人の人間が死ぬまでに国に払う税金ってすごい金額ですよね。なのに家計に負担となる、出産・育児に必要なお金の多さだけがクローズアップされて、産む気を萎えさせる情報だけが独り歩きする。その上、育児に対する政府の保護は手薄くて、老人への支出に比べて圧倒的に少ない。老人には選挙権があって、子供には選挙権がないということもあるんでしょうけど、もう少し上手なお金の使い方があるのではないかな?と思ってしまいます。今、経済産業省の委員会などでも主張しているんですけど、そのあたりが日本って、まだまだなのかもしれませんね。

― 子供が少なくなっていけばいくほど、子供が大切にされるかといえば、まったく逆ですからね。どんどん子供の居場所はなくなって来ています。
経沢さん:なるほど。そうなんですか。
― どうしたら子育てしやすくなると思いますか?何かを一つ変えるとしたら、なんでしょう?
経沢さん:預かってくれるところだと思います。子育ての何がたいへんかといえば、私は“誰かが見ていないといけない”ということにつきると思うんです。ミルクをあげたり、おむつをとりかえたりと、もちろんお母さんがやればいいのかもしれないけれど、誰かの手を借りていいと思うんですよ。地域だったり、互助会みたいなものだったり、子育てにおける相互扶助が、特に都市部ではまったく機能していないですよね。だから、もうちょっと会社が大きくなったら、社内に託児所を設けて、みんなが安心して働けるようにしたいんです。
― 国にやってほしい子育て支援はたくさんあるんですが、それとは別にもう少し一人一人が子育てに対して理解して欲しいとも思いますね。私が少子化でとても恐れているのは、親が少なくなること。自分が子供を持っていなければ、もう子育てとは関係ないという考え方をする人が、多いのではないかと思うんです。大人っていうのは、社会的には親なんだという自覚を持って欲しいんですけど。
経沢さん:なるほど。子は宝だっていう考え方が忘れられがちなのかもしれませんね。じゃあ子供は公共財なんですか?といわれると、感情的にはそうですとはなかなか言いづらいのですが、でもそういう意識も大切ですよね。子供はみんなのものだという意識。小さい頃、よく近所のおばさんとかに叱られませんでした?みんなが親の気持ちで言ってきたり、関わってくれていた。今って以前と比べて親にだけ責任があって、家族内で完結してよね、という感じになってきているのかもしれませんね。
― コミットメントが切れてますよね。
経沢さん:私の友人なんかも、結婚している子は多いんですね。でも、仕事がものすごく忙しくて、「子供は欲しいんだけど、今は無理」みたいなことを言っている。子供に責任をとれるようになるまで、産めないと言うんです。裏返しに、それぞれの子供はそれぞれが責任もってねという認識になっているのかもしれません。たとえば、自分の周囲の人が妊娠して具合が悪くなって早く帰ったりすると、どう対応していいのかわからなくなる。
― そういう経験は、私にもありますね。子供がいなかった頃は、まさしくそうでした。
経沢さん:もしかしたら子育てを身近に感じられないという都市部の環境が東京の出生率の低さを導いているのかもしれないと思います。経験したことがない人がたくさんいるということですから。人間て自分が経験していないことは理解できませんからね。だから、子育てに対して理解できなくなってくるのかもしれません。
あと、私が経済産業省の委員会とか出ていて疑問だなと思うのは、「少子化は仕方がない」という前提で話す人がいること。
― そうそう。許せません!!
経沢さん:成熟した国が少子化になるというのもわかるけど、フランスなどは政府の努力によって改善されてきているんですよね。少子化は仕方がないから、それに対応した国づくりをしようというのは、一見正しいようだけど、長期的に見れば人口構成がおかしくなるわけですからね。
― そうそう。どこかの学者さんとかが、「少子化でいいんだ」というような開き直りの説を偉そうに話すじゃないですか。ふざけるなと言いたいですよね。子供が産みたいけど、産めないとか、我慢しようとか、女性に思わせている国が、成熟した国作りだなんて、おかしいですよね。
経沢さん:日本の税金の使い方で言えば、公共財への歳出が40%の国ってありえないんです。これだけインフラが整っているのに、いまだに道路・公共施設を作っている。子供を増やすための環境を整えることこそ、本質的にはプラスの経済効果だと思うんですよ。リターンがあるところには投資すべきで、子育てには補助という名の投資(支援)をすべきなんです。わたしは73年生まれなんですが、この年を最後に子供は減り続けているんですね。だから30年前からわかっていたはずなのに、もっと早く手を打つべきだったのではないかと思います。
― さて、今後の夢をお聞きしていいですか?
経沢さん:今、女性起業塾というのをやっているんですが、社会にプラスになる事業を展開する女性社長を100人輩出したい。そうしたら、少しずつ世の中は変わると思うんです。最近、女性限定ソーシャルネットワーク[only1.be]も主宰していますが、女性が輝くことができるような楽しい場所を提供し続けてお役に立ちたいと思っています。
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録音したものを改めて聞くと、インタビュアーである私自身がものすごく興奮しているのがわかります。とにかく経沢さんの放つ大物のオーラと、頭の回転のよさに、感動・感激・大興奮しました。こんなかっこいいお母さんがいるということを誇りに思います。
トレンダーズでは女性の起業家育成を支援するさまざまな事業を行っています。
■トレンダーズ
■女性起業塾

自分の会社をつくるということ
6月23日に発売される、経沢さんの初めての著作です。
2005年05月31日
インタビュー第6回目は、カリスマアフィリエイター藍玉さんこと小林智子さん
投稿者 村山らむね
■子供会の役員になったことで自分が変わったんです
カリスマアフィリエイターとして、テレビに雑誌にひっぱりだこの藍玉さんこと小林智子さん。その素顔は、年上の方に対して失礼かもしれませんが、本当にかわいらしい女性。1年前にお知り合いになってから、会うたびにその秘められたパワーに驚かされる方でもあります。今回、大好評の前作に続いて、第2作目の著書を発売なさったということで、じっくりその素顔に迫ってみました。

― 今日は藍玉さんに、ワーキングマザーとしてのライフスタイルと、今仕事をしたいけれど、自分のライフスタイルも大切にしたいと考えている主婦の方々に、ヒントをいただければと思います。ワーキングマザースタイル[wmstyle.jp]は、アクセスログを見ていても、10時、12時、18時、22時と、いくつも時間の山があって、会社で見ていると思われる層と、家で仕事をしながら、家事をしながらご覧になっている層と、また夜にゆっくり読むというような層、いろんな読者に支えられているんですね。だから、通勤でバリバリ仕事をしている女性ももちろん多いんだけど、私もそうですが、家で仕事をしている、もしくはこれからやろうとしている人たちへのメッセージを今日は、いただきに参りました。
― 本の反響がすごいみたいですね。
藍玉さん:そうですね。感想をたくさんいただいていて。執筆中からブログで進捗状況を報告していたので、楽しみにしていてくださった方々が、ブログなどで感想を書いて応援してくれていますね。とてもありがたいです。
ただ、まだメールでの感想はあまりいただいていないです。前の本のときは、書店で初めて本や私の存在を知っていただいた方々からの熱いメールがたくさん届いたんです。「ああ、こういう働き方があるんですね。背中を押されました」というような。
― 前の本が「アフィリエイトで30万円」ということでしたけれど、普通のアフィリエイターにとって、10万円の壁ってものすごく厚いじゃないですか?藍玉さんが10万円の壁を越えられたのは、アフィリエイトに取り掛かってどのくらいでしたか?
藍玉さん:もともと趣味のサイトを運営していたので、運営方法の基礎はわかっていたんです。それからアフィリエイトを本格的に始めて、10万円の壁を越えるのは記憶が曖昧なのですが、半年くらいかかったかな。

― アフィリエイトをするようになって何がよかったと思いますか?
藍玉さん:アフィリエイトをやってよかったと思うのは、自分が大人になったなということでしょうか。自分の成長ですね。本当に世間知らずでしたから。働いてはいましたが、2番目の子供を授かってからやめてしまったんですね。それで下の子供が生まれて、ちょっとしてから育児ノイローゼ気味になってしまったんです。つまんない、つまんないって毎日のようにつぶやいていて。
そしてたまたま雑誌を見ていたら、URLという言葉を初めて見つけて。企業のホームページとか、懸賞応募とか、そういう言葉を知って、「パソコン欲しい!」って旦那さんに言い続けたら、買ってくれたんですよ。
― 本にもたくさん出ていらっしゃる、年下の優しい旦那さんですよね。本当に優しい方で、ぜひ一度お会いしてみたいと思うんですが、アフィリエイト関係のイベントにも全然出ていらっしゃいませんよね。今回の本の193ページに、藍玉さんが病気になったときは健気に看病なさるのに、ご自分が病気になったときにはあまり藍玉さんに看病してもらえない、というくだりがありますよね。思わず「あっ、うちと一緒だ」と思ってしまいました。でも我が家と違うところは、必ず何をするにも、旦那さんの許可を得ているところですね。
藍玉さん:旦那さんは立てないと。年下だからこそ、立てないとだめだなと思う気持ちがありますね。
― ところで、本にもあるように、5万円、10万円、30万円、50万円と、どんどん自分で目標を設定して、乗り越えていかれるという姿勢は、アフィリエイトの分野だけではなく、普段仕事をしている私達にとっても見習うべき姿勢だと思うのですが、昔から藍玉さんてこういう方だったんですか?
藍玉さん:いえいえ。ただ思い返すと、子供関連の役員をやることで変わりましたね。あるとき、子供会の会長をやらされたんですね。それまで人の上に立って何かやるということはほとんどやったことがなかったんですよ。でも、そのとき初めて、人にお願いをしたり、根回しをしたりと、自分が動かざるを得ない状況になったんです。それでずいぶん変わりましたね。
― へぇ~。(感心)そこで、自分自身をマネージメントするような感覚を身につけられたんですね。
藍玉さん:段取りとか。行事があると、そのイベントを中心にして、それまでに何をやっておこうとか。きちんと管理できないと回りに迷惑がかかっちゃうじゃないですか。
― 結婚後、仕事から離れてしまった人も、段取りや根回しなどという、マネージメント感覚を取り戻したり、改めて身につけるためには、子供関連の役員をやるというのは、きっかけとしてとてもいいことなんですね。
藍玉さん:そう、思いますね。
― わたしなんて、もう役員って聞くだけで、逃げ回るほうなんですが、それはよくないですね(笑)。
藍玉さん:やってみるものですよ。それを契機に5年間くらいずっとなんらかの役員をやっていましたね。勉強にもなったし、ママ友達もたくさん、本当にたくさんできました。
― 藍玉さんっていつも感心するのが、メールのレスポンスが、ものすごく早いですよね。
藍玉さん:そんなことないですよ。特に、最近は。フットワークがにぶっていると感じます。でももともと交流がすきなんです。メールとか掲示板への書き込みとか。交流のおかげで今の私がいるって思います。
― 今の猫も杓子もアフィリエイトという風潮はいかがですか?
藍玉さん:最近はただ売れればいいという方とか、ちょっと周りに不快感を与えてしまう方もいらっしゃるような気がするんですが。
― 人が変わってきたような印象ありますか?
藍玉さん:それはありますね。特に、最近はブログでアフィリエイトする人が増えているじゃないですか。関連のないトラックバックがひどくて。私達がアフィリエイトをやり始めたころは、ホームページだったから“待ちのアフィリエイト”だったんです。それが、今はブログで自分のほうからトラックバックを仕掛けていく、営利のためだけに無差別に仕掛ける人が多くて。そういうモラルの低い人が増えると、全体のアフィリエイターの評価が下がるじゃないですか?それは困るなと思います。
アフィリエイターが増えること自体は喜ばしいことだと思うんです。ただ、今は、アフィリエイトをお金儲けのためだけに考えている人が多くなっていて、もったいないなと思うんですよ。私はアフィリエイトのおかげで自分が成長できたし、こんな私でも認めてもらえる喜びを感じるんです。収入も大きな目的ですが、やりがいや人との繋がりも感じてもらえたらなと思います。
アフィリエイトをきっかけにして、私も本が出せたり、まわりでもウェブ制作のお仕事につなげたり、第一歩として利用している人も多いですね。そういう人を見ていると素直にうれしいと思う。どんどん可能性を広げてもらいたいです。
― ところで、共稼ぎのときにマイホームの夢をかなえるために生活の見直しを図ったというお話が本にありますよね。ワーキングマザーは、というか、うちだけかな?二人で働いていてもお財布が別だったりして、なかなかお金が貯まらないんですよ。だから藍玉さんの、このエピソードがすごく耳に痛くて。
藍玉さん:もともと家計簿をつけるのが大好きだったんですけれど、貯めるぞ!と思ってからは、お給料を全部、支出ごとに袋に分けて、無駄なお金は使わないようにしました。
― ああ、やっぱり袋は効きますか。
藍玉さん:のめりこむタイプで、生命保険なんかもがーっと調べて、これはいらない、これはいると、全部見直しましたね。残業代やボーナスを目当てにしないで暮らせるように、やりくりしました。あと心配性なのかもしれない。老後のために、どんどん貯めていこうと考えているんです。
― わたしも心配性なんですけど、心配性だから、今使っちゃえという感じなんですよねぇ(苦笑)。
藍玉さん:今は、家計簿はつけていないんですが、ほとんど頭に入っているので、これだけ使えるとかはきちんと意識していますね。
― 藍玉さんへの道は遠そうです、果てしなく・・・。さて、ブログにしても本にしても、ほんとうにわかりやすい言葉で素直な文章が、よみやすくてすごいなぁと、感服するのですが、昔から文章を書くのはお好きだったんですか?
藍玉さん:とんでもないです。もう、アレルギーが出るくらい、文章を書くのは苦手だし、嫌いだったんです。今でもそうです。だから、最初の本のお話が来たときにも、他の人を紹介しようと思ったくらいで。でも編集者の方が、「どうしても藍玉さんで」と、おっしゃってくださって。それでどうにか書き始めたという感じなんですよ。

― とてもそうは思えません。最初の本も素敵ですよね。
藍玉さん:ありがとうございます。初めてらむねさんに会ったときに、楽天のアフィリエイターオフだったかな、「本を読みました」と言ってもらえて驚いたことを覚えています。すごく嬉しかったです。
― そうそう、ちょうど、去年の今頃でしたよね。わたしは、楽天でライターの仕事をやっていたので、「まさか私がアフィリエイトをやったらまずいだろう」とずっと思っていたのが、あのオフで、楽天の社員さんも勉強のためにアフィリエイトをやっているとお聞きして、「ああ、わたしもやっていいんだ」と、思ったんですよ。ずっと会社員をやっていて、ちょっとがんばりすぎて、がんばりすぎるのって周りにとっても迷惑じゃないですか?それで空回りしていくのをなんだか感じて、思い切って起業したそんな頃にお会いしたんですよね。自然体な藍玉さんが本当にうらやましかったですよ。ただ、一人で家で仕事をするのは寂しいですね。ずっと独り言、言ってます。
藍玉さん:あははは。わたしも結構独り言、言います!私もずっと専業主婦で家に閉じこもっていたらつまらなかったけど、最近は適当に都内に出ることも多いから、すごく充実していますね。
― ちょうどいいですよね。普段は家庭を大切にして家で仕事をして、週に2、3回、打ち合わせで外に出る。土日どちらかは必ずわたしも家にいるようにしています。本でもかなり強調されていたのが、家庭を犠牲にしてまで仕事をがんばらないというポリシー。
藍玉さん:結婚って永遠に続かないのではと思っていたのが、旦那さんと出会って「ああ、結婚は永遠に続くんだ。すごくシアワセな結婚っていうのがあるんだ」と、つくづく思ったんです。だからこそ、これは絶対に壊してはいけないなと、肝に銘じているんです。
アフィリエイトでいくら成果を出しても、家族を壊しては何にもならない。だから旦那さんにやめろと言われたら、すぐにでもやめます。
― うーん、潔いですね。
藍玉さん:一人じゃ生きていけないタイプなんです。
― 時間の使い方がすごく上手だなと思うんですが、心がけていることはありますか?
藍玉さん:家族みんながにこにこしているのが好きなんです。だから、家族といる時間をとても大切にしたい。そのためにメリハリをつけて、家族と過ごす時間をたくさんとるために、仕事に集中する。この間、日記にも書いたんですけど、忙しいときほど家族と過ごす時間をたくさんとると、逆に仕事がはかどるんです。
― うわーっ、すばらしいですねぇ。見習いたいです。ところで、以前、ワーキングマザースタイル[wmstyle.jp]がテレビで取り上げられて、結構いろいろなことを書かれたときに、ものすごく優しいメールを下さったじゃないですか?そのときに、ご自分もそういう経験がちょっとあったようなことをおっしゃっていたんですが。
藍玉さん:そうなんです。叩かれたんですよ。やっぱりメディアに出ると叩かれますね。
― どうして叩くんでしょうね?でも、これだけ有名になると仕方がないのかもしれませんね。あとネットで何かやるとどうしても叩かれますね。叩きやすいメディアですものね。
藍玉さん:叩かれたときに、斉藤一人さんの本が好きなんですけど、その中の言葉に「誹謗中傷は追い風になる。あなたをどんどん上に上げてくれます」というような言葉があったんです。それでずいぶん救われました。それに私を叩く人に対して、わたしがどんなに反論しても、その人の考えは変えられない。その考えを止めなさいといっても、そうはいかないじゃないですか?その人はその人の考えがあるんだって受け入れられるようになりました。
― ただ、どんなヒステリックで的外れのような批判でも、必ず批判されているほうからは見えない理があるんですよね。だから、それを気づかせてくれるという意味で、やっぱり叩いてくれてありがとうという気持ちがあります。学びがありますよね。そのときは辛いですけどね。
藍玉さん:そうですね。わたしは一度アフィリエイトをやめようかとも思ったこともあるんですよ。でも友人に相談したら、「これからアフィリエイト全体に対して、世間の目が厳しくなってくるだろうから、藍玉さんが今、やめることはない」とアドバイスしてくれたんです。それで今も続けていられるんです。
― 先頭を走るということは、いろいろあるんですね。今、藍玉さんは、いろんな人に大きな影響を与えていますからね。
藍玉さん:みんなの期待を背負っているのかなと感じることがあります。「目標にしています」とかみんなに言われると責任を感じますし、やっぱり簡単にはやめられないなとも思います。前のようにのびのびはやれなくなっているかも・・・。
― さて、今後の夢はいかがですか?今度、とうとう法人化もされますね。
藍玉さん:ええ。個人ではできなかったことを少しずつできればと思っています。ロバート・キヨサキさんの本に憧れていて、将来的には、本の印税などで、勝手にお金が増えていくというのにも憧れています。株もぜひチャレンジしてみたいですね。そうして、自分の自由に使える時間を増やして、収入には結びつかないけど本当に自分のやりたいことができればと夢みています。ただ、とにかく一番大切なのは、家族の幸せです。家族で幸せに過ごしていきたい。それが何よりの夢です。
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本の中でもっとも印象的な部分
私が考える、家庭とサイト運営を両立させるコツです。
○時間の管理
○あきらめる勇気を持つこと
○自分にとって何が大切なのか常に考えていること
この言葉、私達ワーキングマザーにとっても、本当に大切なことだと思います。ついつい忘れがちなこの3つのこと。思い出させてくださった藍玉さんに、心から感謝します。
藍玉さんがプロデュースするサイトはすべて、アフィリエイト、節約、懸賞など、主婦なら絶対に見逃せない情報がほんとうに噛み砕いた言葉で、わかりやすく書かれています。
■悩みドットジェイピー
■アフィリエイト・プログラムでママさんアフィリエイターを目指そう!
2005年04月18日
インタビュー第5回目は、だめんずうぉ~か~でお馴染み、くらたま先生こと倉田真由美さん
投稿者 村山らむね
■今という未来を手に入れるためには、必要だったんですよ。その失敗が。
週刊SPA!の連載である「だめんずうぉ~か~」で、一躍だめんずブームの火付け役となった倉田真由美さん。ご自身も、結婚→出産→離婚を経験された、ワーキングマザーでもあります。ご両親の住む福岡に生活の拠点を置きながら、最近では、エッセイや人生相談など広い分野で目覚しい活躍をなさっているくらたま先生。長年の大ファンだというムギ畑主宰の勝間さんにも加わっていただいて、ワーキングマザーの恋愛と男性観について熱い、かつ、かしましい(?)おしゃべりが花開きました。

倉田真由美さん:今日のメンバーはワーキングマザー = シングルマザーではないのね。
― はい。離婚経験者はいますが。
(軽くそれぞれのだめんず史を自己紹介がてら紹介しあい、笑い合う)
勝間さん:わたしが仮説として常々思っているのは、ワーキングマザーのように自分で金を稼げる女は、どうも男を見る目が曇るのではないか、と。
倉田真由美さん:(爆笑)
勝間さん:3500人のワーキングマザーが集まるネットワークを7年くらいやっているんですが、うぉ~か~がたくさん居ますね。そもそも私も、まだ「だめんずうぉ~か~」が2巻くらいしか出ていないときに、友人が「とにかくこれを読みなさい」と手渡してくれたんですね。読んだら彼女の意図するところがわかり、しばらくして離婚しました。
倉田真由美さん:そうなんだぁ。
― いい女塾でご一緒させていただいて、そこでのコメントで、今、恋をなさっているということをおっしゃていますが。
倉田真由美さん:そう。ずいぶん前からいろんなところに書いているんだけど、付き合って1年くらいのオトコがいて、そのオトコにベタ惚れなんですよ。今までのなかで一番惚れてるかな?
だめんず、つまりダメ男ってどういう男ですか?ってよく聞かれるんだけど、結局それって人によって、女によって、ちがうじゃないですか?何がないとダメか、何がなくてもOK、それって人によって違う。「お金さえあれば、たいがいのことは我慢できるわ」という女もいる。顔さえよければという女もいる。それぞれだから。自分にとって何が必要なのか、自分のことをわかっていないから、若いうちは失敗しちゃう。私自身、若い頃、ダメな男とつきあったのは、彼自身がダメというよりは、いや、もちろんそれもあるんだけど、それ以上に私自身もダメだったな。と。自分を知るという意味では、年を重ねてよかったし、今の恋愛もその結果で充実しているんだと思う。
自分の好物や苦手なものは食べてみないとわからないじゃないですか?だからこそ、いろんな男をみていろんな男と付き合ってみるというのがとても重要だと思う。食ったことのないものの味はわからないから。
勝間さん:脳生理学で証明されているのですが、人間はどうやら失敗からしか学べないらしいんですよ。


倉田真由美さん:そうそう!!(大爆笑)まったくその通り!!だから成功した人から何を聞くって、失敗した話を聞くんですよ。私自身、自分の失敗やダメ男体験が糧になっている。ネタにもなっているしね。失敗した当初はつらいし、苦しいよね。わたしもダメ男と付き合っていたときや、自分の付き合っていた男がダメ男だと気づいたときは、過去を消しゴムで消したいくらいに辛く思った。過去って変えられないものだと言われているけれど、実は過去って変えられるんですよ。後から幸せになった場合、全ての過去に意味が生まれるんですよ。幸せを手に入れた瞬間に。不幸のままじゃダメですよ。ハッピーを手に入れれば、全ての過去を赦せるようになるんです。私も30過ぎてからですね。全ての過去を赦せるようになったのは。それまでは本当にね、消しゴムで消したかった。今という未来を手に入れるためには、必要だったんですよ。その失敗が。
― すばらしいですね。名言ですね。今という未来を手に入れるために必要だった失敗。勇気が出る言葉ですね。
倉田真由美さん:仕事にしても恋愛にしても不遇な時代がありましたよ。その頃は、あらゆる状況が赦せなかったし、辛かった。今はようやく、失敗あっての今の幸せと思える。
― ワーキングマザーに限らず、女性達の間に、失敗が怖いから、恋愛をしなかったり子供を持たなかったりというという、どちらかというとネガティブチョイスをする人が増えているような気がしますが、そういう風潮についてどう思われますか?
倉田真由美さん:だーめだめ!あのね、物事を迷ったときには積極的な方を選択しろとわたしはいつも言っているんですよ。ちょっと変わったデザインの洋服を買おうかどうか迷うとする。買ってしまうのが積極的な選択で、買わないのが消極的な選択。勇気を出して買ってみたら似合わない。似合わない上に、お金も失ってしまった。こんなことなら買わなきゃよかったと思いますよね。でもね、この積極的な選択をしたおかげで、こういうデザインは似合わないと学習することができたんです。こういう学習をしていかないと、人間、年を重ねることが辛くなってくるんです。
女性は、まあわたしもそうだけど、若く見られたいから化粧とか工夫しますよね。だけど、絶対に言えるのが、20歳の頃の私よりも絶対に今の私のほうがおもしろいし、魅力的。これは絶対に自信がある。いろんな失敗をしてきたし、それによって学習してきた。100人男がいたら、80人は20歳のわたしを選ぶかも知れないけど、残りの20人、つまり今の私を選ぶ男のほうが遥かにイイ男!今のわたしのほうが絶対に面白いから!今のわたしの魅力をわかる男のほうが絶対いい男。若い頃のわたしはライバルではない。そしてね、学習するということでは、失敗がいちばん人生には効くんです。
勝間さん:そんなふうに失敗を肯定的に捉えられるようになったのは何歳くらいですか?
倉田真由美さん:うーん、成功体験を手に入れて、余裕が出来て安心してきた、27歳くらいじゃないかな?過去を肯定するには、自分を安定させてくれるものが必要で、それは男だったり、やりがいのある仕事だったり、お金だったり、女の人の場合、この3つのうちのどれかがないと無理じゃないかな。どれもない状態だと、かなり厳しい。私の場合27歳のときに初めて安定した彼氏とつきあったんですよ。生まれて初めてサラリーマンと。そのときはまだ収入的には月に20万円もないくらいだったんですけど、すごく幸せでしたね。ただ、彼と付き合っているときに、過去の全てのダメ男との過去を肯定するところまではいかなかったかな?そういう意味では、今のオトコになってからだね。全ての過去を肯定できるようになったのは。
勝間さん:くらたま先生にそこまで言わせるオトコとはどんな人なんですか?興味あるな。
倉田真由美さん:すべての女の人に、その人にあった最高の男の人が用意されているとは思わないんですよ。運だから。これは。宝くじ毎日買っても、100万円も当たらない人いますよね。そういう意味では、わたしはすごいくじをひいたな、と。3億当たったかな?というくらい。不満がないわけじゃないですよ。月に一・二度しか会えないし。会えないからこそ、こういう新鮮な気持ちを保てているのかもしれないし。
勝間さん:男の人って、関係性が深まれば深まるほど離れる場合と、より密接になる場合とありますよね。
倉田真由美さん:付き合いが長くなっていくと理解が深まるケースと、情熱が冷めていくケースがあるけど、後者はたぶん相性がよくないんだと思う。これも私がいろんな人と付き合ったからわかるんだけど、後者のほうはたぶん、本当には惚れていないんだよね。
付き合っているときに、なぜかいつもイライラしていたり、腹が立ったりと、そういう経験ってあると思うんですが、たぶんそれは無意識に心のそこではそれほど惚れていないという表れだと思う。恋愛中はなかなか自覚できないけれど、無意識的には気づいているんだと思うな。私も以前付き合っていた人が、改札で150円の切符を失くしたのね。それで、私、ものすごく腹を立てたの。で、逆に気が付いたのね。ああ、150円の切符をなくしたくらいでこんなにイライラするということは、たぶん私はこの人をそれほど好きではないんだなって。心底惚れていないから、導火線がとても短くなっていて、爆発してしまったんだなって。どこまでその人をゆるせるかって相性の部分がすごく大きくて、それはもうどうにもできないと思うんだよね。でも、世の中見渡して、こういう実は合っていないカップル、ごまんといるんじゃない?
勝間さん:付き合い始めは相性があっていても、長く付き合ったり生活をともにするうちに、女性のほうが成長が早くて、男性とすりあわなくなってくるケースもありますよね。
倉田真由美さん:あるある!!人間って成長するんだよね。
勝間さん:このすり合わない状況を解決する手段って離婚以外にあるのかな?って思うんですけど。
倉田真由美さん:私はねえ、ないと思います(断言)。成長って意識的にされるものではないでしょう?よく自分磨きとか言うけど、磨かれるものであって、磨くものではないんですよ。ふと気が付くと、すごく差がついてしまっていたりするわけね。私が27歳のときに付き合っていた彼も、銀行員でエリートで、あの頃は楽しかったわけ。でもね、去年久々に会って話をしたんだけど、もうぜんぜん楽しくないの。この何年間でわたしが経てきた経験と、ものすごく差がついちゃっているわけね。成長には、その速度と、ベクトルと2つあるじゃないですか?彼ももちろん成長しているんだけど、わたしとベクトルがまったく違うわけね。だからもう、話していて楽しくない。速度はぜんぜん違うと思う。わたしはこうやって日々いろんな人と会ったり、自分の考えることを言語化しているわけ。この言語化という作業は成長の速度を速めるんだよね。
残念ながら男性のほうが他人の話を聞くのが下手。人の話を聞くとは学習能力そのものね。外部の情報を受け入れるということだから。それができない頑迷なおやじ、多いでしょ?聞けない男が、一歩も成長できないおやじになっていくわけ。
この間、斉藤孝さんと対談したときに彼が言っていたんだけど、女性は男性の趣味を受け入れるんだって。男性がジャズが好きなら、一緒にCDを聞いたりできる。反対に、男性で女性の趣味に付き合うということができるのは稀だって。
― それ、思い当たります。私の旦那も、絶対に宝塚に付き合ってくれません。
勝間さん:それは趣味自体に問題があるのでは?
― そうかも・・・。
倉田真由美さん:柔軟に外部の情報を受け入れることのできる男性はなかなかいないの。だから、学習能力のあるいいオトコっていうのは、数が少ないの。講演とか私、よく行くじゃないですか。おっさん相手だと本当に苦労する。ノリがぜんぜん悪いんだよね。私の言っていることがほとんど通じていないの。普通ね、議論って、AとBという説が戦うと、Bの意見も取り入れたA´になるというのが普通じゃないですか?でもね、朝まで生テレビじゃないけれど、男性同士の議論って、得てして、Aの説の人はAのまま、Bの説の人はBのまま、まったく平行線をたどるんだよね。それが学習能力のないおやじ同士の悲しい議論。本来、人の意見って変わっていくのが当たり前なんですよ。それが学習するってことだよね。
― 女性でもこういう“おやじ化”傾向、つまり自分の居場所を確保するために、生き方の柔軟性を自ら捨てているような人が多いような気がするんですが。
倉田真由美さん:そういう人は昔からいたと思うんですよ。“女は嫁に行くもんだ”と、そういう価値観から一歩も抜け出さない、母親や祖母の世代の人たち、いっぱいいるじゃないですか。今、問題なのは、女性はいろいろな選択肢があるのに、それを受け入れずに、こうでなくちゃいけないという呪縛にとらわれていることじゃないかな。
勝間さん:くらたま先生のように漫画のような手段があれば、その呪縛から抜けられるけれど、そうでない人はどうすればいいのでしょうか?
倉田真由美さん:実際、取材をしていても、親の呪縛に縛られている女性がすごく多い。仕事が楽しいと思っていても、親から「嫁に行ってナンボ」みたいな価値観を押し付けられて、その価値観を否定できない。自分の価値観と親の価値観が自分の中に同居していて、どちらも否定できずに、苦しい。そういう苦しみを完全に払拭することってすごく難しいと思う。親の価値観って呪いみたいなもので、それって解けないと思うんだよね。私自身も解けませんでした。20代は。
「結婚しなければ・・・」という強迫観念がいつもあった。はっきり言って私は、本当に好きな人とは結婚していないです。だからうまくいかなかったし、新婚時代からうまくいってた時期ってほとんどないです。でも子供ができて、最高に大切な存在ができて、離婚して。そうすることによって、つき物が落ちたように親の呪縛から解けちゃった。「もう私結婚したし、子供もできたし、離婚もしたし、もう自由にしていいんだ」って。これもひとつの解決方法だと思うんだよね。こういう方法、始めっから離婚することを視野に入れて、親の呪縛を解こうなんていうのはすすめないけど、実際、私はこうやって解けたのね。結果論だけど。
もし、結婚していなければ、子供産んでいなければ、たとえ仕事が上手くいっていたとしても、心が今のように安定してはいないと思う。常に脅かされているような気持ちがあると思う。
― ワーキングマザーについてお聞きしますが、朝日新聞の記事でも「国は、結婚の意義を説いて生き方を指南するより、子育て支援策などを充実するよう期待します」とおっしゃっていますが、いわゆる少子化施策についてはいかが思われますか?
倉田真由美さん:男が考えているなって気がするよね。結婚しなさいとか、子供を作りなさいって国が言うことは、結婚しないことはよくないと言っているようなものでしょ?そんなの僭越。個人の自由でしょ。話にならない。
ワーキングマザーの話をすると、子供持っている女性もいろいろいるわけですよね。自分しか稼ぎのない人もいれば、両方稼ぎのある人もいるし、自分のほうが稼ぎのある場合もある。さまざまなパターンがある。だから、どこかに焦点をあてるのは無理なんだと思う。
子供を育てながら働くということがどんなに大変かということは、身をもってわかっているので、ねえ。ほんとに大変だもんね。生活スタイルの全てが変わる。ただ、大変さも、人によって状況が違うから、「こうだ」って言えないんだよね。処方箋が一人一人違う。私の場合、両親の助けのおかげで、この仕事量がこなせている。だから、「みんなも両親に助けてもらえばいいじゃん」とは言えないでしょ。亡くなっている場合もあるし、孫の世話なんて嫌だというおばあちゃんもいる。
― 最近では介護しながらのワーキングマザーもいますよね。
倉田真由美さん:そうそう。もう、それぞれじゃん。こうしたらいいよ、って言ってあげられないのがつらいところだよね。
― みんなが違うからということで、サービスが均一化して、求められるサービスが届かないというのは問題な気がします。お年寄りの介護サービスのように、ケアマネージャーのような存在が育児にもあればいいなと思うのですが。
倉田真由美さん:でもね、行政のサービスを心待ちにして、そのことに不満を言って毎日を過ごしているというのは、ほとんど解決しないから。神頼みに近いから。
勝間さん:それは問題解決能力を1人1人が身につけるしかないのでしょうか?
倉田真由美さん:そうだと思いますよ。ミクロに考えて、自分の問題は何かということを考えて、解決していくしかない。男にしても女にしても、上手くいかないことを政治や行政のせいにする人が多いけど、まあそれも正論だけど、そんなふうにしていたら何も解決しません。自分ちだけでも救おうよと、自分の問題点というものをとりあえずクローズアップして、「お金かな」と思えば、もうちょっと稼げる仕事を勇気を出してやってみるとか、自分から動き出さないと。強い意志があればかなりの問題は解決できると思うんです。どうしても自力では解決できない問題もそりゃあるけど。
最近、わたしも悩み相談の仕事をしていて、「子供を抱えて夫が浮気した。離婚しようにも手に職はないし、夫の浮気にびくびくしながら生きるのも嫌だ」というような質問が来ていたのね。子供を抱えて仕事をするのは大変だと思う。でもね、なんとかなるんですよ。もちろん彼女自身が介護を受けるような状況なら別だけど、普通に体を動かせるのであれば、子供のためになんとかなるんです。仕事、見つけられるから。人の家の軒下で過ごさないといけないなんていうことは、ないです!
だから、そんなね、辛い状況に甘んじているよりは、積極的な選択をしてほしい。離婚という選択をして欲しいと思う。
― ワーキングマザースタイル[wmstyle.jp]のスタッフにも何人か離婚経験者がいますが、みんな明るいです。
倉田真由美さん:うーん。私自身思うけど、合わない男と一緒にいるより、独りのほうが遥かにいい。離婚したことを後悔したなんて話、聞いたことないでしょ?
ワーキングマザーのように女性が経済力を手にするということは、いい男を選ぶ権利を得るということだと思うの。専業主婦は人生を選択する権利がないと思っている人が多い。仕事があって生活能力があれば、夫なんていなくてもどうにでもなるんだよね。だからよっぽど好きな人じゃないと結婚する意味がないよね。
勝間さん:そのときは好きでも3年、5年経つと好きでなくなって離婚するというケースが多いですよね。
倉田真由美さん:それはそれでありなんだよ。そのとき好きならいいのよ。少なくとも、好きでないのに結婚するということは避けられるでしょ。
― 結婚を継続性ありきで考えるから辛くなるんでしょうね。

倉田真由美さん:そうそう。一生続けるなんて前提で考えることないの。だって人間は進化するんだもの。楽しいと思うことも、合う人も変わるの。長く暮らしてもそれでも一緒にいるのが楽しいと思える相手と結婚できれば理想だけど、それじゃないとダメと決め付けるから苦しくなる。何回だってやり直しはきくんだもん。
― お互いの成長具合によって、賞味期限も変化するということですね。
倉田真由美さん:専業主婦とサラリーマンの男性という組み合わせは結婚を継続しやすいシステムなの。でも、結婚を長く続けるために人生を選択するというのもおかしいよね。自分の人生を楽しむために生きないと!一度仕事を楽しいと思った女性は、もう、専業主婦には戻れないと思うんだよね。
勝間さん:ところで、倉田さんがどうして大学卒業後、漫画家になったのか、最大の謎なんですけど。一橋の商学部ですよね?
倉田真由美さん:高校時代、漫画を書いていて、就職活動にボロボロと失敗して、何をやりたいかというよりも、何ならやれるかなという選択でクローズアップしたのが漫画だったの。人間てさあ、すごくやりたいことがある人なんて、一部じゃん。私も今は、連載もたくさんもっていろいろ書いているけど、こういう仕事についていなければ、こんなふうに発信していたかわからないよね。こういうのって訓練だから。生まれながらの漫画家みたいな人ももちろんいるけど、わたしはそうではない。
― 今後の夢をお聞きしてもいいですか?
倉田真由美さん:子供が欲しいですね。結婚はもうしなくてもいいんだけど、子供は産みたいと思う。多ければ多いほどいいけどね。
結構ね、私みたいに思っている女の人、多いと思う。結婚はしなくてもいいから、彼の子供が欲しいって。そういう人の先陣を切って、まあ俵万智さんがそうだったけど、堂々とシングルマザーで子供を産む選択をしたいですね。私がそうすることによって楽になる女の人もいるんじゃないかなって思うし。日本ってみんなと同じにしないとダメっていう教育を受けてきていて、友達が結婚すると焦燥感をもったりすることがあるじゃない。でもいろんな幸せのカタチがあるわけだから。
仕事がしたいんですよ。男の世話をするよりは、仕事や子供の世話をしたい。あと、これは恋愛観によるんだけど、わたしは恋の刺激的な部分を楽しみたいと思う。毎日まったりゆっくり、二人でだらーっていうのよりは、毎日会わなくても非常に刺激的というほうが私は好きなの。こういうスタイルを追求するというのもいいと思う。
勝間さん:仕事についてはどうですか?
倉田真由美さん:昔はね、連載もちたいとか、単行本出したいとか、明確な目標があったけど、今はどうかなぁ。好きなことをやりたいという感じですね。仕事がうまくいってきて、よかったことのひとつに、好きな仕事を選べるということがありますね。以前は、フィクションをやらないと一人前ではないと言われてたし、私自身もそういう風に思っていたところがあって、フィクションをやろうとしたこともあるのね。でもフィクションなら私よりも上手い人がたくさんいるし、私自身、フィクションよりも現実のほうが好きなんですよ。現実を分析しながら、表現するほうが向いてるし好きなんですよ。だから好きな現実を向いて仕事をやって行きたいと思う。フィクションやらなきゃという、強迫観念からは自由になれました。
ところで、女の人ばかりだと話が通じていいですねぇ。もっと時間があればよかったのに、残念です。
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すごい勢いでお話になる、くらたま先生。とにかくものすごいパワーでした。優等生としての葛藤や、駆け出しの漫画家としてのどん底。仕事・恋愛の苦境を経た上で、成功を勝ち得たからこその自信に満ち溢れたお話は、とにかく圧倒されるばかり。自分の人生を楽しむために生きないと というメッセージは、“よき娘・よき妻・よき母”という呪縛から、私達を自由にしてくれるような気がします。
■うさたま.com
くらたま先生と、中村うさぎさんの共同公式サイト。
■くらたまのはらへりマンガ
結構お子さんが登場しているけれど、決して子育て漫画ではないところがミソ

ほやじ日記
くらたま先生の最新エッセー。あまりの面白さに、電車で読むのは危険です。
photo by 大橋ゆり
2005年03月16日
インタビュー第4回目は、夫婦仲相談所 すずね所長こと二松まゆみさん
投稿者 村山らむね
■ちょっとがんばるだけで、きっと夫婦も恋愛できると思うんです
ママのネットワークを立ち上げ、ITブームの中、どんどん業績を伸ばしたと思ったら、あっさり株を後進に譲り、夫婦の恋愛や寝室をライフワークにする作家へと華麗なる転進。主宰する夫婦仲相談所に寄せられる、赤裸々な、かつ、真剣な、妻そして夫からの相談に丁寧に答えて、大人気を集めている二松まゆみさん。すずね所長の愛称で、いまや、携帯サイトを通じて10代・20代のヤンママ達のアイドルでもあるまゆみさんが、2冊目の著書である「もっと夫婦は恋できる」を発表したということで、去年友人とオープンされたというカフェにインタビューにうかがいました。
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― 二松さんは最初のお仕事はなんだったんですか??
二松さん:実はね、中学の英語の教師。その頃は三高ブームで、まさしく三高の夫を見つけて結婚して、娘を産みました。いきなり結婚の理想と現実を思い知らされましたね。一人ぼっちで泣き喚いていました。最初の出産・育児にどれだけ協力してもらえるかで、その後の夫婦関係は大きく変わりますね。
― それでママのネットワークを立ち上げた?
二松さん:まだネットのない1991年にすでに1500人のネットワークができていましたね。その後、いわゆるビットバレーというかITブームに乗っかって、会社は大繁盛。実は私自身はメールもやっとのアナログ人間なんですけどね(笑)。
― 今の旦那さんとの出会いは?
二松さん:ビットバレーのパーティーに足繁く通っているときに出会いました。7歳年下の普通のサラリーマンです。ラブラブです。おととし結婚したのですが、披露宴は出会いパーティー形式にしたんです。誰も私達のことを見てくれないという、不思議な、かつ大盛り上がりの楽しいパーティーだったんですよ。
― まず前作の「となりの寝室」からお聞きしたいんですが。

二松さん:1冊目はレポート形式です。妻達がどれほど不満を抱えて生きているかをクローズアップしました。不満を抱えながら、旦那さんにそれを言えずにいる、そういう状況をみんなに知ってもらいたかった。
― 読みましたが、あまりに赤裸々で驚きました。みなさん、二松さんには心を開くんですね。そして満を持して出された2冊目は?

二松さん:これは、ノウハウ本です。30分で読めます。夫婦仲相談所は、妻からだけでなく夫からの相談も受けるんですね。そうするとどうして妻を抱けないかという夫からの不満もどんどん入ってくるわけです。たとえば、「ボンレスハムのようになってしまった」とか、「スーパーのパンツしかはかなくなった」とか。だからこの本では、「抱いてもらうためには、妻自身が輝いていないとダメよ」というメッセージのもとに、どうすれば夫婦でいい関係が築けるかというノウハウを、とてもわかりやすく書いたつもりです。抱いてもらえないのは、当たり前のことができていないからということを、女性のみなさんにわかって欲しかったし、当たり前のことをしたうえで、努力すればきっと夫婦も恋ができる、精神的にも肉体的にもとてもいい関係が築けるということを、実践して欲しいと思っているんです。
― 耳が痛すぎます。反省、反省。
二松さん:夫婦仲相談所でも、本でも、当たり前のことしか言っていないんです。「ちゃんと旦那さんと話してみた?」「綺麗にしてる?」「完全にお母さんの役割だけやって、妻を捨てていない?」など。実はね、後半にカーマスートラをちょろっと書いたんですが、もっと書きたかった。だから次回作は、もっと過激にカーマスートラを扱います。
よく妻の側からの悩みで「ワンパターン」、「感じない」、「他の女に逃げられた」って来るんですけどね、そんなことばっかり言っていても、いいセックスは絶対にできないと思うんですよ。主婦の側から変わらないと!
― ○○してくれない、っていう受身じゃダメだということですよね。
二松さん:そう。セックスという言葉だけでも嫌がる人がいるけど、そこから変わらなきゃ。
― 「まあ、下品だわ」なんて引いている場合じゃないということですね。ところで、自分自身も結構疲れているワーキングマザーに何かアドバイスはありますか?
二松さん:疲れているとどうしてもネガティブオーラが出てしまうから、気をつけて顔に出さないようにするというのが大切だと思う。でも私もそうだったからわかるけど、働いて帰ってくると、そんなニコニコできないよね。だから働くお父さんの疲れてその気にならない気持ちも実はよくわかるんだ。
― そのうえ、平日は保育園にお世話になってなかなか子供とみっちり付き合えないから、休日は子供に夫婦で奉仕してしまったりして、夫婦だけで過ごすなんていう発想がなかなかないですよね。もっと夫婦の時間に寛容な社会であってほしいなとおもうんですけど。
二松さん:そう!まったくそうですよ。「もっと、夫婦は恋できる」でも書いたんだけど、企業が時短を進めるように、本当に政府が本腰を入れてくれないと。厚生労働省ももちろんだけど、経済産業省にも訴えたいですね。経済活性化になると思うし、何よりも、国民の幸せのために、どうにかしてほしい。男は疲れ、女はキーキーなわけだから。
― 夫婦の時間を作るということは、社会全体で真剣に向かい合ってほしい問題ですね。少子化対策というだけでなく、幸せな世の中ではないわけですから。大企業は育児休職制度や、短時間勤務などずいぶん改善しているようですけどね。
二松さん:二極化してますね。大企業はいいんだけど、日本のほとんどは中小企業なわけで。そこを変えていかないと。ただね、いい企業の人がセックスレスが少ないかといえば、またそうではなかったりするんですよ。ストレスもあるでしょうし、5時に帰ってもいいと言われても、逆に向きになって遅くまで仕事したり。そのあたりが矛盾していますね。
― 最近は、セックスレスもずいぶんメジャーな話題になってきて、二松さんにも取材が殺到しているみたいですが。
二松さん:おかげさまでたくさん取材していただいています。おもしろいのは、途中までは取材なんだけど、途中から記者自身の相談になるんです。取材が取材になっていない(笑)。マスコミの人なんて、地位も、収入も、ある程度安定しているわけなんだけど、やっぱりセックスレスで悩んでいたりするんですね。
― フランスなどは6時過ぎにオフィスにいると馬鹿にされるといいますよね。
二松さん:フランスにしても、イタリアにしてもセクシーな国民はいいですよね。イタリア人と結婚した友人のところに遊びに言ったんですが、ご主人はずっと私の前だというのに「君に会えて幸せだ」とか「綺麗だよ」などと、ずっと友人にささやいていました。言われることで、ホルモンが出るんだと思います。イタリアにはセックスレスという言葉があるかと聞いたら、ないと言っていましたね。なくなったら、即離婚だと。ただし、浮気っぽいという致命的な欠点もあるわけですが。
― 「風呂」「メシ」しか言ってもらえなければ出るホルモンも出なくなりますもんね。

二松さん:夫婦は対話が大切だと思うんです。というか、うまくいっていない夫婦は必ずといっていいほど、対話がない。性に関する話題ももっとしたほうがいい。自分はこうしてほしいとか、いいとか悪いとか。それがないとワンパターンにはまって、どんどん悪循環になってしまう。性に関する話題をタブーにせず、もっと自分を解放して、旦那さんと対話して欲しいと思いますよ。
― その意味ではね、「となりの寝室」はぜひ夫婦で読んで欲しいですね。「もっと、夫婦は恋できる」のほうは、引き出しに入れて、奥さんだけに読んで欲しいです。
さて、二松さんの今後の夢はなんですか?
二松さん:実は、去年の夏、ものすごく暑かったでしょ?夏ばてしちゃって、台湾茶藝館のトップオーナーの友人と台湾の知人の3人で、台湾にすっぽんを食べに行こう!ということになって、その流れで、なぜか代々木に中国茶のカフェをオープンしてしまいました。
― それがここですね。このビルは、場所もいいし、佐伯チズさんプロデュースのビューティータワーとしてたいへん注目されている場所ですよね。
二松さん:2階はヨガのレッスンやちょっとしたセミナーにも使えるようにしてありますし、4月からはここでお茶を飲みながら、わたしのカウンセリングを受けられるサービスもするんです。ぜひワーキングマザースタイル[wmstyle.jp]の読者のみなさんもいらしてください。
― 作家にカフェ。優雅ですね。憧れます。
二松さん:将来は、ここのオーナーと沖縄に2号店を出すのが夢なんです。
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インタビュー後、なんだか、むちゃくちゃ元気になってしまった。自分のちょっとした勇気で、夫婦関係をはじめとしてあらゆる人間関係をとても円滑なものに変えていけるんだ、そんな勇気をいただいた気がします。
すずね所長こと二松さんがプロデュースするサイトは、悩みに誠実に答えてくれる所長のおかげで、とてもポジティブなオーラに溢れています。
■となりの寝室事情 うちの寝室事情
そして、昨秋オープンなさったカフェです!ぜひ行ってみて下さいね!
■茶藝館 如意庭 Ru-Yi Garden(ルーイーガーデン)
■オールアバウトガイド開始
2005年01月10日
インタビュー第3回目は、ムギ畑管理人 勝間 和代さん
投稿者 村山らむね
■そんなに苦労した覚えはない。“がんばっている”と思うのは一種の逃げでは?
スーパーワーキングマザーという称号をご本人はきっと嫌がるでしょうが、そうとしか呼べない勝間和代さん。金融系の調査分析のお仕事の傍ら、3人の娘さんを育て、ムギ畑というワーキングマザーなら誰でも知っているコミュニティーを運営。ワーキングマザーのみなさんには、勝間さんではなくムギさんと呼んだ方が、なじみがいいかもしれませんね。最近では、ブログも2つ運営するなど、まさに八面六臂の活躍。そんな勝間さんのエネルギーの秘密を探るべく、ご自宅にインタビューにうかがいました。

― 勝間さんの今までのキャリアについて軽く振り返っていただけますか?
勝間さん:大学在学中の21歳の時に長女を出産して以来、36歳の現在まで、15年間ワーキングマザー生活をしています。最初の4年間が公認会計士兼コンサルタント、次の3年間が金利のトレーダーで、6年間の経営コンサルタントを経て、今は金融機関で企業や産業を分析してレポートを出し、メディアなどでコメントをする仕事をしています。ちょうど、これまでやってきたコンサルタントとトレーダーの中間のような仕事です。25歳、30歳の時にそれぞれ次女、三女を働きながら出産しました。
― 最初はどういうお仕事だったのでしょうか?
勝間さん:1988年に慶応大学商学部2年生在学中に公認会計士の2次試験に合格し、4年生のときからアーサー・アンダーセンという外資系の会計事務所で働いていましたが、そのときに最初の娘を出産しました。
― 学生で、ママで、会計士っていうことですよね?ものすごくたいへんだったのでは?
勝間さん:そんなに苦労した覚えはないですね。保育園はあるし、仕事もまだ新入社員で部下もいなかったので周りに迷惑をかけるというほどのこともない、姉にもすでに子供がいたので、自然と産もうと思ったし、資格も持っていたので失職するとは思わなかった。正直言って、自分の腕には自信がありましたから。バブル時代だったので、周囲も自由に生きていたでしょう?友人たちからも驚かれたけど、割と普通な反応でした。
― 苦労しなかったという言葉が自然と出るのが、すごいですね。
勝間さん:ただ、育児の悩みや知識などは、現在の@nifty、当時のニフティーサーブのパソコン通信の育児フォーラム(fchild)を活用することで、ずいぶん救われました。情報や思いを分かち合う場として活用しましたね。
このことが、ムギ畑を立ち上げる前の原体験になっていると思います。経済的に家賃や保育園代で結構きつかったのに、ニフティーサーブやcompuserveの通信費で、何万も月に払っていました。正直この頃は、生活するのに手一杯で、悩む暇はありませんでしたね。時間的には新入社員だったこともあり、自分だけの管理をすればいいので、さほどの忙しさは感じませんでした。
― 次に、また出産と転職を経験されますね。
勝間さん:94年の1月に第2子を出産し、産休後に4月にアンダーセンに戻ったら、ちょうど会社が合併をしたばかりで、かなり会社の雰囲気や制度が変わっていたのです。周りの同僚もどんどん退職していました。
私も退職しようか悩んでいたところに、偶然ヘッドハンターから誘われて、その年の10月からやはり外資系の銀行に金利のトレーダーとして転職しました。この銀行も合併でがたがたしてはいたけれど、仕事としては順調でしたね。時期的にも金利が下がっていたので、その分儲かりましたし。
ただ、トレーダーの仕事って肉体的なルーティン作業の部分が大きくて、私が飽きちゃったんですね。それで、途中からトレーダーからリサーチャーに変わって「あ、こっちのほうが向いているな」と実感。でも、この銀行の金利部門にいる限り、リサーチャーはトレーダーの下請けになるざるを得ないことに少々不満を感じていた矢先に、仲のいい同僚が辞めてしまったのと、アンダーセンの昔の上司から戻ってこないかという誘いを受けたことで、転職を意識しました。
― それがどういういきさつでアンダーセンではなくマッキンゼーに?
勝間さん:その仲のいい同僚の友人が、「もしアンダーセンに戻る気があるのなら、せっかくならその分野(調査・コンサルティング分野)でトップの会社に行きなさいよ」と勧めてくれたんです。それで、業界トップであるマッキンゼーにレジュメ(履歴書)を送り、幸運なこと早々に内定をもらいました。28歳のときです。
― ちょうどその頃、ムギ畑を立ち上げていますよね?
勝間さん:3年働いた銀行を97年の10月に退職して、マッキンゼーの入社が1月だったんです。2ヶ月くらい暇だったんです。そこで、当時、ニフティーのパティオ(クローズコミュニティ)にワーキングマザー仲間とコミュニティーを作っていたのですが、月々500円のお金を払うのももったいないので、どうせなら、すでにお金を払ってしまっていて追加料金がかからない、自分のISPのサーバー領域内にインターネット上のBBSを作ろうと、その間にムギ畑を立ち上げました。
ですので、正直、最初はそんなに強い思いがあったわけではないんです。でも、集まってきたメンバーに救われましたね。運営メンバーは今でもそのパティオのメンバーや、98年の前半に参加してくださった人が主流です。97年の10月に立ち上げて、98年の2月には100人になっていました。現在は会員数3600人で、運営は40人程度で担当。しくみさえ作れば自動的にまわります。たぶん、運営のメンバーたちは、私に任せておくのは不安だから、いろいろやってくれているのではないかと(笑)。
― ワーキングマザーにとっては、心の拠り所となっているありがたい存在ですよね。わたしもどれほどムギ畑にはお世話になったことか。このサイトのメンバーにもムギ畑で出会ったことがきっかけで仲良くなった方がいるんですよ。ただ、半年アクセスしないと会員資格がなくなってしまうんですよね。私、今、2回目の会員資格停止を食らっているので、また近々入会しないと(笑)。98年の1月からのマッキンゼーでのお仕事はいかがでしたか?
勝間さん:最初は元トレーダーなので金融が主な担当だったのですが、システムに強いというのを見込まれて、当時非常に伸びていた情報通信分野、特に携帯電話やインターネット関連を極めるような仕事を多く担当したのはラッキーでした。今でも私は通信とモバイルコンテンツが専門です。一つの分野を極めるというのはとても大切なことだと思います。
― ご自宅、本の量がすごいですね。分野を極めるのに自己研鑽を疎かにしないということがひしひしと伝わってきますが。
勝間さん:1ヶ月に15万円は本を買います。でも、みんな、新聞・本などから、一日に2時間くらいは勉強しません?してると思うんですよ。「よくいつ寝ているの?」と聞かれますが、6時間は絶対に寝ています。時間はどう編み出していくかだと思うんですよ。テレビをだらだら見るのとか、嫌いなんです。
― そうですね。テレビを見る時間はもったいないですよね(といいながら、非合理的な時間をかなりすごしているので、内心かなりやばい;;と思っている)。しかし、15万円はすごいですね。
勝間さん:本にはお金に糸目をつけませんね。アマゾンで買って、ブックオフで売るという流れができています。食費よりもずっと出費としては多いですね。
― 99年の1月に第3子をご出産されて、2003年の9月にまた外資系の金融機関に転職されていますが、これはどのような理由ですか?
勝間さん:家族のために時間的な余裕が欲しかったことが一番の理由です。外資で情報通信かつ金融会計という、とてもニッチな分野を専門にしているから、今まで生き残れたのだと思います。
― ほんと、出産するたびにキャリアアップしているように見えますね。まったく出産・育児が仕事の障害になっていないのが不思議です。少子化についてはどう思われますか?
勝間さん:社会全体を見渡して、子供という存在を受け入れる場所がなくなっていますね。昔のように這い上がるためには子供を数産んだほうが有利という社会から、親子ともに子供は一人のほうが有利な社会となっています。つまり、中流家庭の選択として、子供を少なくするというのが「論理的な解」となっているんですね。
女性のキャリアに着目すれば、日本は人生のパイプラインシステム(どこからでもやり直せるシステム)が機能していないので、出産でパイプラインから外れるのを恐れるのは当然だと思います。よほどの自信と実績がないと失職の恐れがある。女性が出産してもパイプラインに乗り続ける道具として、「資格」「語学」「若さ」のどれかを持っていないと駄目なんでしょう。ラッキーなことに私はたまたま、出産当時から3つともあったのでパイプラインから外れずにすんだのだと思います。
― 勝間さんとお話していると、そのライフスタイルがすごく自然で、合理的ですよね。時間と情報の2つの資源の合理的な使い方が凡人とは違うなとつくづく思います。ついつい忙しいを言い訳にしがちなワーキングマザーについて何かメッセージありますか?
勝間さん:外資で働いて思うのは、彼等は時間に対する考え方が厳密だということ。会議に遅刻する人は皆無です。もっと合理的な時間の使い方を、ワーキングマザーはもちろん、ホワイトカラーの生産性が低い日本の社会も進めて行くべきです。
あと、私ははぜんぜんがんばっていません。オーバーポジティブは危険だと思う。がんばっている自分が好きというのは、ある意味逃げではないでしょうか?がんばるというのは、根本的な問題解決ではないと思うんですよ。「がんばりすぎているからこそ、報われないんだ。もっと身の回りのしくみから見直した方がいい」と言いたくなります。

― 厳しい言い方ではありますが、わかります。すごくよくわかります。私も含めて、女性が陥りやすい罠ですよね。無駄ながんばりは組織にとっても、その人自身にとっても、マイナスなんですよね。「がんばる」ことの罠に陥らないようにするというのは、今日、この瞬間からでも私は肝に銘じたいです。
さて、最後にはなりますが、勝間さんの夢は何ですか?
勝間さん:調査研究職として足跡を残したいと思っています。学生時代、大前研一の新・国富論を読んで本当にびっくりしました。いつかそれに肩を並べるくらいのいい論文、いい本、もしくは新しい考え方を世に出したいですね。
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インタビュー後、正直、劣等感でいっぱいになった。久々の感覚だ。それとともに本当に優秀な人に会ったときに感じる、何かこの人のために貢献したいという感覚にも襲われた。勝間さんに会うたびにもつ感覚だ。彼女の真似はできないけれど、合理的な時間管理術。そのエッセンスでも消化できればと思うし、みなさんにもぜひおすすめしたいと思う。
ムギさんこと勝間さんが最近はまっているブログ運営。勝間さんの合理的なものの考え方を感じるのに、もっとも適したテキストです。私も愛読しています。
■日々の生活から起きていることを観察しよう!! by ムギ
■CD、テープを聴いて勉強しよう!! by ムギ
2004年12月03日
インタビュー第2回目は、主婦店長の星 シリアルマミー 篠 直余さん
投稿者 村山らむね
■人を味方にするのがうまい、と思う。
今回お話をうかがった篠直余さんは、楽天市場「シリアルマミー」の超名物店長。キャラメルブームを作ったとも言われる“デセールキャラメル”開発から7年で、現在月間1000万円を超える売上げを達成。今年は念願のビルも入手!女性店長のシンデレラストーリーは楽天でも伝説化されています。
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― 今や楽天のスイーツの中でもだんとつの売上げを誇る、デセールキャラメルの誕生秘話なんか教えてください
篠さん:会社員経験もなく主婦になったので、夫が経営する代官山のフランス料理店で、アルバイトしようと思ったんです。たまたまパティシエがインフルエンザになったので、その座に滑り込み(笑)自慢のフレンチトーストを作ったんです。プライド高いシェフの逆鱗にふれたんだけど、ソースを工夫してお店に出したら、大好評。1週間だけという約束だったのが、たまたま雑誌のHanakoにも取り上げられたりして、じゃあ「継続するしかないじゃない」ということでズルズルと、というか、計略どおりに人気定番メニューに。
今度はパンペルデュという商品を出店で売っていたら、お客さんに渡すまで時間がかかるので、自然と行列ができるんです。それで、「行列ができる店」ということで、メディアにとりあげられて。。
― なんか本当に不思議なくらいとんとん拍子ですね
篠さん:そうなんです。「次のステップはデパートに出店だね、どうやったら出店できるんだろう?」なんて話してたら、まるで壁に耳があるように、某有名デパートの人が催事への出展依頼をしてきて。ほんと、驚きました。また、それが売れてしまって。なんか、助けてほしいと思っていると、どこからか助けてくれる人が現れるんですよね。不思議と。
― また、行列ができたということですね」
篠さん:そう。そこで、行列心理を学びました。耳を済ませていると、「なんで並んでるの?」「並んでるから並んでるの」という不思議な会話が聞こえるんですよ。ああ、そういうものかと思いましたね。それから、引く手あまたのなか、プランタン銀座に店を出しました。97年にデセールキャラメルを開発してから1年後のことです。
― 楽天への出店の経緯は?
篠さん:2001年の3月ごろ本を読んで、まずは自社サイトによる出店を考えたんですが、楽天に電話したら「2週間で出来ますよ」というので、信じて4月に契約しました。(笑)結局8月31日にオープン。9月1日にテレビに出る予定があったので、死ぬ気で前日までにオープンしました。テレビで告知したのでどんどん注文がくるかとおもったら、全く。テレビとは連動しないんだと言うことを思い知らされましたね。最初の月の売上げは3万円いかなかったんじゃないかしら?
― それがどうして今のような売上げに?
篠さん:11月に楽天の担当者が変わったので聞いてみたんです。どうして売れないんですか?って。そしたら「ページが悪い」ってにべもなく言われてしまって。「売れているサイトを研究しろ」と。もう悔しくて悔しくて眠れませんでしたね。結局3日間でサイトを変えました。担当者は「やればできるじゃないか」と言いましたっけ。そして、11月は55万、12月はお歳暮もあって160万売り上げました。翌2002年12月は700万、03年12月は950万、今年の12月は2000万行くんじゃないかな?

― 急激な売上げ増加の中での苦労話はありますか?
篠さん:ネットに出店してから2年くらいは1日2時間寝ればいいほうでしたね。平日はベッドでは寝ませんでした。子供が私立に行っていて朝が早いので、ソファで仮眠する毎日。また、常識的なことを全く知らないところがあって、1日千件の注文を全て手書きで伝票処理していました。お店の人たちを集めた勉強会ではじめてそれがいかに常識はずれなことかを知らされて。でも、感心もされましたね。すごいって。実は、この手書きのために、今でも主要なお客さんの名前はほとんど把握しています。もちろん住所とひもづいて。
― お子さんが私立だと、お母さん仲間からはもしかして奇異な目で見られたり?
篠さん:「どうしてお仕事なんてなさっているの?」と言われて、ガツンと来たこともありますよ(笑)。私は中途半端なことをやっていないという自信はあったけど、このことをきっかけに、「仕事をきちんとやろう」とますます思った。最近では頻繁に「デリデリキッチン」(フジテレビ)などのTV出演をしているので、さすがに何も言われなくなりましたね。認められたのかな?って思うと「やった!」ですね。(ガッツポーズ)
― これだけの成果を出されて、ビルも建てられて。今後の夢はなんですか?
篠さん:早く専業主婦に戻りたいです(笑)。もともとこう言ってはなんだけど、働く必要はなかったんですね。ただ、どうしても自分の自由になるお金がほしかったんです。みんなは「仕事好きでしょ?」っていうんだけど、仕事は好きじゃない。今のショップの仕事も、仕事とは思っていないんです。「楽しくするためにはどうしたらいいか?」を考えるようにしているんです。
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インタビュー後、セレンディピティ(serendipity)という言葉に出会って、ピンときた。「思いがけない幸せな出会い」という古代スリランカの寓話が語源の言葉で、ソニープラザのニューショップの店名にもなっている。「不思議と誰かが助けてくれる」と繰り返す篠さん。偶然を必然に変える力、セレンディピティを持っているんだなと痛感した。もしかしたら、その力。ワーキングマザーにとって一番必要な力かもしれない。
楽天市場「シリアルマミー」
大人気のデセールキャラメルはもちろん、和風と洋風の融合「オカッキー」、冷凍庫で保存可能な「ロールケーキ」など、魅力的なスイーツで溢れています。
2004年11月02日
インタビュー第1回目は ハー・ストーリー代表取締役 日野佳恵子さん
投稿者 村山らむね
■男性とは違う、女性にしか作れない歴史を作りたい。
今回お話をうかがった日野佳恵子さんは、株式会社ハー・ストーリーの代表取締役。会社設立から14年で、現在年商5億を超えるほど事業を確実にそして急激に拡大することに成功している。現在16歳の娘さんのお母さんでもいらっしゃいます。
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― ワーキングマザーであることは日野さんにどのような影響を与えていますか?
日野さん:子供は癒しですね。挫折しそうな時は支えになってます。
― 負担になることももちろんありますよね?
日野さん:もちろん時間的な拘束にはなりますよ。実際、出張に積極的に出るようになったのは子供が6年生になってから。インターネットはエリアを超えるからその意味では、ネットの仕事をしていてよかったなと思うけど、経営者だからネットだけでは完結しないことも多いんです。やっぱり事業を拡大するには会わないとだめ。
― ハー・ストーリーの事業を見させていただくと、この3,4年で急拡大しているように見えます。それは言い方は悪いですが、お子さんの足かせがある程度とれたからなのかなとも思えるのですが。
日野さん:当然そうともいえますね。物理的な足かせには実際子供がなっていたかもしれない。でもそもそもこの事業をやろうと思った原点は、子供なんです。娘がいたから私にビジネスのヒントが沸いた。精神的にはジャンピングボードとしてかけがえのない存在です。娘がいたから、育児しながらも社会とつながっていたいという主婦の気持ちに気づいたんです。気づきを与えてくれた宝ですね。

― 経営者としてみたときにワーキングマザーの“使い勝手”はどうですか?
日野さん:いい面をあげれば、ライフスタイルをとても大切にするのでビジネスチャンスに敏感になります。また、うちのようにSOHOワーカーの協力をいただいている会社の中で、彼女達のマインドを理解できるのでいい潤滑油になりますね。反面、納品について不安定さを抱えます。出産はもちろん、その後の子供の病気や行事など、ここぞというときに休まれるということがありますね。マネージメントする側としては、子育て中の女性をうまく使うプログラムを作ることは難関だけど需要もあると思いますね。
― 進む少子化について、日野さんはどう思われますか?
日野さん:よく質問されるけど、すごく難しい質問です。自分を棚に上げて言うようだけど、母親に子供を愛することを教えるべきだと思う。絆はとても大切。簡単に便利に子供を預けられるような母親にとっての利便性ばかりを追求することについては危惧をもっています。
― 絆を大切にするために日野さんが実践されていることを教えていただけますか?
日野さん:娘が小さい時にすごく不安定になったときがあって、カレンダーに自分が家にいる日と仕事で遅くなる日を予めつけて見えるようにしたら、すごく子供が安心しました。それからいま16歳なんですが、毎日抱きしめている。離れている時は毎日電話します。そして、出張前はベッドで背中をさすります。「お母さんはあなたを愛しています」というメッセージを伝えつづけてきた自信がある。彼女にも母から愛されている自信があると思います。子供は思うほど子供じゃない、足かせだとこちらが思えば伝わってしまう。五感以上のものをもっているんです。だからきっちり伝えることが重要だと思うんです。
― 若い女性たちが子供を産むということに否定的なことについてはどう思われますか?
日野さん:子育てとか子供を産むって、とても基本的な営みだと思うのね。高学歴の女性がいちばん仕事のノッているときに"いま辞めるのは嫌だ"と思うのは仕方がないことだと思うけど。
― 今回、私がワーキングマザースタイルを作ったのも、ひとつには自分達の妹世代の人たちに、「こっちの水も甘いぞ」、産んだって仕事もそれなりにできるぞと言いたかった、そして、それは私たちの責任なのではないかという思いもあるんです。
日野さん:子供を産んでも大丈夫だよと言わなければいけないって、何か根本的に間違っているよね。国力でしょ?国として問題だよね。日本人の遺伝子とかとは別の問題として。ハーストーリーという会社の名前には、女性にしかできないこと、それは子供を産んだり育てたりすることも含めて、男の人にできない働きが社会に対してできるんだということを示したいと言う強い思いを込めてあるんです。産み育てながら社会に貢献できる人をどんどん世に出していきたい、そのために少しでも会社を有名にしたい、そして成功したいと思っています。
― ありがとうございました。最後に、ワーキングマザースタイルに何かメッセージいただけますか?
日野さん:ワーキングマザーに、勇気と元気を与えるような、赤裸々なサイトを期待しています。
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インタビュー後、日野さんの生い立ちについての文章を読んだ。彼女の人生の歴史の重みに目がくらみそうになった。ミッションつまり使命感を今までの人生のなかでつかまれたことに、敬虔な気持ちさえ抱いてしまう。現在年商5億、今後10億円を目標に事業を拡大していきたいと語る彼女。ワーキングマザースタイルについて(というよりサイトオーナーへの?)愛ある苦言もいただき、贅沢な時間をすごすことができた。ありがとうございました。
株式会社ハー・ストーリー
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