投稿者 田村小梅
今週のテーマ、「上司に妊娠しました、と言ったとき」です。
長男を妊娠したのは今から3年半前の冬。
それまで勤めていたITベンチャーを「やっぱりwebだけじゃなく紙もやりたい!」という気持ちで辞め、両方出来る小さな広告代理店に意気揚々と転職した直後でした。11月1日に転職し、妊娠に気づいたのが年明け早々。しかも妊娠なんて考えてもなかったので、生理が遅れても「妊娠」なんて頭をかすめもせず、気づいた時はすでにほぼ安定期。
会社の仕事も順調に引き継いで大手クライアントを任され、まさにこれから!というところで、の妊娠発覚だったためショックは相当なものでした。
私自身が妊娠を受け入れられなかったため、動揺しすぎて「どう伝えたら良いか」なんて考える余裕も無く、ただただ上司と社長に頭を下げていました。社長には「人材紹介会社にいくら払ったと思ってるんだ!!」と罵倒され、以後、一切の仕事が与えられず、産休までの数ヶ月は「出勤するも仕事は無し」。本当に辛く何度も辞めようと思いましたが、あちこちの掲示板で「今辞めるのは損だ!耐えろ!!」と励まされてただただ時間が過ぎるののを待つばかり。
そして案の定、慣らし保育も始まった産休明け直前にメールでクビ通告。
「産休中のクビは違法」と知っていたらしく、ご丁寧に「あなたは妊娠を隠して入社した契約違反で、本来はそれが判明した時点で契約解除にしても良かったが、こちらの厚意で産休まで取得させてあげた事をありがたく思え」と、「非は100%そちらにある」という事を振りかざした内容でした。
ま、クビは想定の範囲内(死語?)だったので驚きもせず、元々の産休明けと同じ時期に「週4日&かなり高給」という好条件で再就職をしたので結果的に良かったのですが。
そして、問題は今回の妊娠・・。(現在7ヶ月)
「週4日」の大手メーカーのコピーライターも子供の度重なる発熱ですぐにクビになり、現在の会社に入社したのが2年少し前ですが、今回の妊娠が分かったのは昨年末。今回は「超計画妊娠」だったので5週位で判明したものの、妊娠4ヶ月になるのを待って直属の上司に報告を。今のwebの仕事は私以外に出来る人がいないので様々な私の担当の仕事を「こういう形で○○さんに引き継ぐ」「この部分は、産休中でも出来る範囲でやる」など、その後の仕事に極力影響が出ない旨を中心に伝えたつもりです。
その時期ちょうど、どっさりと他の仕事も来てただでさえパンク状態だったところに妊娠による極度の貧血で、朝の電車ではもう倒れる寸前、病院からも「時間短縮勤務」の診断書が出たため、上司が早急に人を増やす手はずを整えてくれたのは本当にありがたかったです。
ただ一番のショックは・・・4月に入って「産休に入ったらもう更新は無理」と判断され、入社以来ずっと頑張ってきたサイトの閉鎖が決まってしまった事。会社の業績とも関係があるので、私の妊娠だけが理由ではありませんが、産休にさえならなければ、いくらでも手は打てたはず。「今までこんなに頑張ってきて、今月はアクセス数も最高になったのに」「じゃあ、産休明けは一体何するの!?」としばらくはショックで呆然とする日々でした。
が!
挫折だらけの私の人生。こんな事でへこたれる訳にいきません。これは私にとってまた、大きな転機の可能性大。前回も産休中にクビになった事で、結果的には、今の「裁量労働で自宅勤務も可。子供の病気で年間10日は休める」という最高に働きやすい環境をゲットしたのだから。
前回に引き続き今回の妊娠&産休も、今後の働き方を模索するためにさらに色々動く事になりそうです。ただ前回と違うのは、今は以前の焦りは全く無いという事。以前はすぐにも二人目が欲しく、そのためにも「絶対正社員で!」と思っていましたが、今は「子供二人でサラリーマンって可能なの?」という気持ちもけっこう大きい。サイト閉鎖は本当にショックでしたが、人生を再度見直す、良い機会だったかもしれません。
正社員で復帰するも良し、独立するも良し。独立するなら色々準備も必要です。今回はしっかりと一年の産休を取って、今後の働き方(=生き方)を考えたいと思っています。
転職大好き【第5回】
投稿者 田村小梅
代議士事務所をクビになった後、私が働き始めたのは派遣社員として銀座の社長秘書だった。代議士事務所は学生時代のバイトの延長みたいなもんだったので、これが実質社会人デビュー。人事担当のオヤジは、初出勤日に私に「あなたの他にももう一人、もっと秘書経験が長い人が面接に来たんだけど、そっちは30過ぎててね。同じお金払って雇うなら1歳でも若い方が良いでしょ」と、いやらしい笑顔でのたまった。当時の私は、「若さ」の特権を大いに活用していたので、「そうよねー可哀想に、そんなばばぁにもなって就職活動なんてしてるのねー。ふふん」と、本来なら女性蔑視に怒るべきシーンで、むしろ「ただ若いだけ」っつー、何の価値も無い優越感に浸って満足していた。
が、そのオヤジも数週間後には、自分が決定的な誤りを犯した事を大いに後悔する事に。なぜって、私はあまりに仕事が出来なかったから。
「代議士事務所」という特殊な場所で『秘書』としての経験を積んだ私にとっては、「秘書」とは、人から頭を下げられる仕事だった。代議士事務所に毎日何組も来る来客者、地元からの陳情者だったり、お役人だったり記者だったりは、向こうが頭を下げてくる人で、こちらは「予定に組み入れてあげる」立場。だから、サイテーな事に、きちんと相手に礼を尽くしたり、敬ったりへりくだったり、という事はたったの一度も経験が無かったのだ!!
その上、代議士事務所はせいぜい3,4人しか秘書がいないので、それぞれに大きな決裁権や役割が与えられる。私も、日程管理やお茶出しなんて日常業務の1割にも満たず、それ以外は国会図書館で調べて資料を作ったり議員の代理で会議や委員会に参加して議事録を作ったり、後援会の人を国会見学に連れて行ったり、地元の新聞への活動報告をまとめたり・・・と、自発的かつ責任を持って仕事をしていてそりゃぁ楽しかった。だから私は「秘書は天職」と思い込んでいたのだ。
が、新職場はただの小さなメーカー。いくら社長と言えども、来客に対してこちらが圧倒的に立場が弱い。私に求められる仕事は、1日1件あるか無いかのスケジュールを管理する事と、「いかに美しい笑顔と礼儀正しさで客室にお客様をお通しし」「指先までしなやかな動きで、上品にお茶を振る舞い」「ドアを閉めて話をしているにもかかわらずお客様がお帰りになるのを鋭く察知し、絶妙のタイミングでエレベーターを開けて待っており」「外に出て、車が見えなくなるまでしっかりとおじぎをし続けるか」という事のみ!!
そんな事っ!!そんな仕事が世の中にある事すら、その時の私は知らなかった。つまり、私は【態度がでかすぎ】た上に、【あまりに気が利かなさ過ぎた】のだ。
2004年10月25日
転職大好き【第4回】
投稿者 田村小梅
学生時代のバイトから含めると、2年位お世話になっていた代議士事務所。私の初めての仕事は、訳が全く分からないまま突然幕を降ろされてしまった。
突然のクビ宣告を平静を装って受け流し、ホテルの部屋へ戻ってずいぶん泣いたっけ。ショック、というより超意味不明。み~んな笑顔なのに、もしやこいつら全てグル!?国会事務所で昨日まで楽しく仕事をしてた奴らも、知ってて私をこんな田舎まで行かせた!?そう思ったら怖くて居ても立ってもいられなくなったのだ。人生初の「人間不信」に、その後しばらく悩まされたのは言うまでも無い。
何週間かは落ち込んでいて全く動きが取れなかったが、少し立ち直ってからは「事の真相」を見つけ出すべく、私は立ち上がった。どいつもこいつもホラ吹きに見える中、しつこく情報収集を重ねてぼんやりと見えた真相はと言うと・・・
何のことは無い。
「後援会のお偉いさんの娘が事務所で働きたがってる」から、「地元と何も関係の無い私が邪魔」という事だったらしい。前日まで喧嘩をしながらも楽しく働いていた(と私は思っていた)東京事務所の秘書2名は、「知らぬ存ぜぬ」の一点張り。全ては後援会をとりまとめる第一秘書が勝手に仕組んだこと、と。
真相はもう闇の中。でも数ヶ月後の私の結婚式には、議員からお祝いも届いたし、当時の仲間が司法試験に受かったと言っては集まり、秘書が選挙に受かったと言っては集まっている。組織ぐるみで陥れられた訳では無かった、と今は信じたい。
・・・そして時間を巻き戻してクビから2ヵ月後。かなり立ち直った私は、本格的に次の仕事を探し始めた。
大学生の頃も一度も企業研究なぞした事の無い私。知っている仕事は当然「秘書」しか無い。その時はまだ秘書が天職だと信じていた私は迷うことなく、「秘書」としていくつかの派遣会社へ登録した。「国会議員秘書経験者」という珍しい肩書きがどこへ行っても大好評で、幾つもの会社からお声がかかり「エリートOLっぽいから」という不純な動機で銀座で社長秘書として働き始めた。働き始めてから数週間で、全くの適性の無さに完全に干されるとも知らずに・・・。
2004年10月10日
転職大好き【第3回】
投稿者 田村小梅
代議士事務所が楽しかったお陰で、3年越しの大学院進学の
夢が破れてもそこまでやけっぱちにならずに済み、
「そうよ、私の天職は秘書よ!!これから精一杯頑張って、
議員にお仕えするわ♪」と身も心も入れ替えた頃、
忘れもしない、都議会議員の選挙が。
ひとたび選挙が起きると、全事務所の秘書は自分の属する
党のために身を粉にして働いて、電話かけやポスティング、
街頭演説のビラ配りにウグイス嬢、その他雑務を何でもこなす。
選挙は周りはお祭り騒ぎだし、こういう時位しか他の事務所との交流も無いので
これまた結構楽しい。私はすっかり張り切って、土日も選挙応援に駆けつけていたのでした。
で、選挙が終わり、応援していた候補者も無事に受かった翌日。
地元(議員の出身地)事務所に居る、直接会った事はほとんど無い、第一秘書から「おう!
ずいぶん頑張ったそうじゃないか。よしよし。そういえばまだ、地元に来たこと無いよな。
次の週末、一番良いホテル取っておくから遊びに来い。
地元もゆっくり案内してやるから」とお褒めの電話がかかってきた。
第一秘書っつーのは、場合によっちゃ議員本人より力がある位の存在。
そんな方に直々にお褒めの言葉を頂いた私はすっかり有頂天に。
で、行きました。次の週末に、新幹線を乗り継いで。
地元には6,7人の秘書が居て、毎日電話でやりとりはしているもののお会いした事は一度も無く、
「はじめまして、毎日お電話してる小梅です!!今後ともよろしくお願いします♪」と、
若者らしくハツラツと挨拶をして回っていたところ、突然第一秘書が「小梅ちゃん、
本当に良い子でよく働いてくれてるんだよ。でも残念ながら、彼女今日までなんだよ」
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え、えーーーーーーーーっ!?今日までって、一体何が???
もしかして、あ、あたしの事っ!?
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まさに頭が真っ白になったけど、おばさん達が「あらぁ~。今日までなのーーーー。
残念だわー。今まで本当にご苦労さんだったねぇ」と方言交えて言ってくるので、私も
「は、はい。。じ、実は今日までででで・・・。おおおお、お世話になりました」と。
その時、ショックでおしっこを漏らさなかった私を、心底褒めてあげたいと今でも思います。
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その瞬間から、私の果て無き流浪が始まった。。。
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つづく・・・
転職大好き【第2回】
投稿者 田村小梅
私はおじいちゃんが政治家だった事もあり、小学生の頃に
「朝まで生テレビ」を文字通り朝まで見させられて意見を
述べさせられたりという、ちょっとおかしな環境で育っていた。
お陰で子供の頃から「新聞はまず政治面から」という
異常な政治好き。
今でこそ、田中真紀子さんのお陰で「政治面白いよね」と言うと
かなり多くの人が好ましい反応をしてくれるけど、
中学生の頃とか誰一人同意してくれない(当たり前か)。
子供の私から見る政治は「大人の権力闘争の最高峰」で、
政党とか派閥とか、知れば知るほどその駆け引きや裏切りの
強烈さに、どっぷりとはまっていたのでした。。。
だから、議員会館で働き始めたらもう楽しくて楽しくて。
議員会館の事務所は小さくて、奥に議員用の部屋があり、
手前の秘書部屋はせいぜい3~4人が限界。
でもそこにいる人々は、私以上に政治オタクの集まりではありませんか!!
今まで誰とも出来なかった政治の話が思う存分できる!
みんな私の何十倍も、マニアックな知識を持っている!!(プロだから当たり前)
その上、今まで朝一番にチェックしていた最新政治情報を、何日も前に入手できてしまう♪
最初は日程管理や毎日大量に届く郵便物の仕分け、毎日あちこちへお出かけする
議員のためのチケット取り程度の仕事しかできなかったけど
(議員会館内には、全国を飛び回る議員&秘書のために旅行会社がある!)
段々と慣れてきたり、会期が終了して暇が出来ると、興味のある委員会に
代理出席させてもらえるようになったりして。
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こんなに楽しい仕事があって良いのだろうか。
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だから、大学院受験を諦めて「じゃあ真剣に働くか」と思った時には、
迷い無くこのままここで続けよう、と思ったのだった。
だって、異常な政治好きの私には、まさに天職だと思えたから。
つづく・・・
転職大好き【第1回】
投稿者 田村小梅
「こんな人生になるなら、ちゃんと大学の時に
就職活動をしておけば良かったなぁ」と、常々思う。
今でこそやっと、「大好きな書く仕事」にありついているけれど、
25歳までプータローのような生活をしていた私が、
やりたい仕事にありつくまでは、まさに「悲惨」の一言。
まずはツラツラと、私の転職記を綴らせて頂きます。
夢多き大学生の頃、私には大いなる野望があり、自分の専攻する学科とは
全く異なる科の大学院への進学を希望していた。
その科はもんのすご~い人気学科で、大学院志望者の数に比して
圧倒的に大学院のイスが不足。
大学名を問わずどこでも良い!!と思っても、どこもかしこも20倍近い
競争率という人気っぷり。大学3年位からコツコツ勉強を始めて3回も受験したけど、
4年間みっちり専門で学んできた人々にかなうはずもなく、あえなく惨敗。
そこで初めて「はて。今まで夢見ていた職業ではなく、
現実的な働き口を見つけなくては」と自分の人生設計を考え始めた。
その時すでに、25歳の数ヶ月前。
当時私は、学生時代の延長で代議士事務所で働いていた。
大学4年の時に友達に選挙のウグイス嬢を紹介されて、新潟県で
2週間も選挙カーに乗っていたのだけど(卒論提出直前だったので、
大学には大病と嘘をつき・・・)そこで知り合った秘書に、
「うちの事務所のおばちゃんが辞めちゃうから、バイトしない?」とお声がけ頂いたのだ。
場所は国会議事堂の目の前の議員会館!
子供の頃から大の政治好きの私にとって、こんなに素敵な話は無い!!
秘密のベールに包まれた暗黒の世界に足を踏み入れるような
ワクワク感を抑えきれず、もちろん快諾。
それが大学4年の12月の事だった。
つづく・・・
2004年10月06日
田村小梅☆プロフィール
投稿者 田村小梅

1974年生まれの寅年
超ズボラなA型&情に弱い魚座&生まれた時からず~っと横浜
◆仕事
新卒時は国会議員の秘書!(※ある日突然リストラ)
その後大手出版社のコピーライターなどを経て、
現在は女性サイト編集長&コピーライター
◆趣味
【仕事&ショッピング!!】
元々文章を書くのが大好きなので、俗に言うワーカーホリック。
&「欲しい物を買うためだけに働いている」と公言するほどの
ショッピング好き。ブランドショップのメルマガを書いており、
ブランド最新情報は誰にも負けない自信あり
◆特技
♪転職♪
(2004年は、育児休暇中にリストラ⇒再就職も1ヵ月半でリストラ⇒
契約社員を経て正社員と、乳飲み子抱えて2度の転職に成功☆)
※今までの転職回数は社会人歴7年にしてほぼ両手!?
◆苦手なこと
貯金や計画性
※昨年の長男出産時には、出産費用の30万を親に借金・・。
◆座右の銘
幸運の女神には前髪しかない&石橋は叩く前に走れ
◆メッセージ
私は自分の欲求に忠実な女で(単なるワガママ)
「自分が好きだから仕事をして、欲しい物を買い尽くす」、
そして、「興味を持ったものは後先考えずに
何でもチャレンジする」を人生のモットーとしております。
家事も育児も手を抜きまくり、超家庭的なダンナあっての私です。
何の手本にもならない最低WMですが、「あんないい加減な
ヤツにも出来るなら、私でもできるかも」と、
少しでも自信を持って頂けたら誠に幸いです。
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